今回は久しぶりに鎌倉のお寺を巡りたいと思います。
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鎌倉駅のすぐ北側、横須賀線が減速しながら通り過ぎる場所に「扇ヶ谷(おうぎがやつ)」があります。
住所表示では「扇ガ谷」と表記しますし、他にも「扇谷」とも書くようですが、ここでは鎌倉の他の谷戸の表記に倣って「扇ヶ谷」とします。
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線路から少し離れた、閑静な住宅街に宗門寺院があります。
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薬王寺です。
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お題目の法塔がありますね。
「法界」とも刻まれています。結界のことかな?
僕はいつもこういった法塔前で、左手にお数珠を持ってから参拝させていただいてます。
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側面には開山 日像菩薩とあります。
鎌倉ではなかなか見られない、日像上人のご霊跡でしょうか。
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本堂まで坂道を上ってゆきます。
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本堂です。
庫裏や真後ろに迫るお山とも調和が取れており、心安らぐ境内です。
両側にあるソテツが、シンボルプランツになっています。
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山号は大乗山です。
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釈迦堂です。
説明板によると、観音様もお祀りしてあるようです。
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お堂の裏側には、岩をくり抜いた中世のお墓「やぐら」があります。
平らな土地が少ない鎌倉独特の墳墓です。
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歴代お上人の御廟を参拝。
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中央の供養塔には「開山 龍華樹院日像聖人報恩」とあります。
平成4年が日像上人の650遠忌、翌5年が開山700年と、とても良い砌に建立されたことが刻まれています。
こちらの石に、薬王寺の簡単な縁起が刻まれていました。
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こちらを元に、日像上人が薬王寺を開山するまでを紐解いてみたいと思います。
日像上人は文永6(1269)年、源氏の名門・平賀家に生まれました。
兄に日朗上人、弟に日輪上人、そして伯父に日昭上人を持つ、極めてお祖師様とご縁が深い血筋です。
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(↑画像は下総平賀の本土寺)
建治元(1275)年、兄である日朗上人に7才で師事、師とともに身延山に上ったようです。
日蓮聖人にとっては孫弟子にも満たない童子でありましたが、一目でその非凡さを見抜いたのでしょう、直々に「経一麿」の名を授けたといいます。
弘安5(1282)年、経一麿は臨終間近の日蓮聖人から、帝都(京都)開教の遺命を託されました。
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(↑画像は高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図:大坊本行寺で購入 より)
この時、経一麿13才。利発な少年とはいえ、託されたミッションの重圧に、押し潰されそうにならなかったのでしょうか?
いやいや、経一麿はそんな小粒の少年じゃありませんでした!
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(↑画像は平賀本土寺・像師堂内の絵画より)
日蓮聖人の御葬送を終えると早速剃髪し、名を「日像」と改めて出家修行を始めました。
宗祖十三回忌を二年後に控えた正応5(1292)年、23才の青年僧に成長した日像上人は、ついに帝都弘通を実行に移すための修行を始めます。
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(↑画像は七尾市小丸山城址公園内の日像上人銅像)
これから嫌というほど遭うであろう法難に打ち勝つための、強靱な心身を鍛えるために、10月末から2月初めまでの百日間、自らに荒行を課したのです。
その荒行の内容というのが・・・
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師匠・日朗上人が住職を務める↑比企ヶ谷妙本寺で、終日読経をし続け・・・
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夜は深夜二時に起き、海までの道を急ぎ・・・
真夜中、極寒の↓由比ヶ浜の海中に、腰まで浸かって自我偈を百巻、お題目を数万遍も唱え続けるという過酷なものでした!それも100日連続で!!
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僕は趣味で30年以上波乗りをしており、もちろん真冬も海に入りますが、それは進化したウエットスーツの恩恵があるからで、当時の日像上人は恐らく薄い布の行衣だけだったはず・・・。
とにかく想像を超える、次元の違う厳しさだった、ということはわかります。
ところでこの由比ヶ浜、今でこそマリンスポーツが盛んで、夏にはオシャレな海の家が建ち並ぶ人気のビーチですが・・・
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観光地、保養地になったのは明治時代以降のことで、それまでは結構、いわく付きの砂浜だったようです。
特に鎌倉時代は幕府内の諍いが絶えず、由比ヶ浜近辺はたびたび戦場になりました。
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御家人の和田義盛が幕府に反乱を起こした「和田合戦」もその一つです。反乱は鎮圧され、和田一族は滅亡しました。
由比ヶ浜のすぐ近くには、一族の埋葬地が↑「和田塚」として残っています。
また、日蓮聖人のご遺文「撰時鈔」には、
「一切の念佛者 禪僧等が寺塔をば焼はらひて 彼等が頸を由比の濱にて切ずば・・・」とあります。
鎌倉時代は龍ノ口と同様、由比ヶ浜も刑場の一つであったことがわかります。
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↑御成小学校前には、鎌倉時代の問注所跡があります。
問注所は今でいう裁判所のことで、ここで有罪になると由比ヶ浜の刑場で・・・という流れになったそうです。
鎌倉時代の由比ヶ浜は結構、血生臭い場所だったと考えて、間違いないでしょう。
そういえば日蓮聖人の伊豆法難の際、舟が出されたのも、日朗上人の腕が折られたのも由比ヶ浜でしたね・・・。
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日像上人が百日の荒行を、この由比ヶ浜で敢行したのは、単に比企ヶ谷の下の海、というだけではないのかもしれません。
生死の境、究極まで自分を追い込む行場として、敢えてこの海を選んだ、というのは考え過ぎでしょうか。
果たして、日像上人は荒行を貫徹しました。
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荒行の最終日、日像上人が海面にお題目を書いたところ、そのお題目が暗闇に光りながら、波に揺れるように漂いました。
日蓮聖人は佐渡配流の際、海面にお題目を書いて高波を鎮めた、波にお題目が浮かび上がった、などの逸話を残しています。
(↓画像は佐渡・真浦霊跡の波題目碑)
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荒行を成満した日像上人は、自らに備わった法力を、波間に揺れるお題目で実感したのかもしれません。
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のちに日像上人が建立した京都妙顕寺のご首題「波ゆり題目」は、その際の文字の揺れを継承しています。
ちなみに、毎年厳寒の時期に行われる日蓮宗の荒行は、日像上人が行った百日の荒行をルーツとしているそうです。
永仁元(1293)年2月、前人未踏、百日の荒行は成満しました。
しかし、その代償は大きく、疲弊しきった心身を癒やす場所が必要でした。
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そして辿り着いたのが扇ケ谷、といわれています。
日像上人は、扇ヶ谷にあった真言宗寺院の住僧を教化、改宗させた上で、ここでしばしの休息を取りました。
このお寺は「梅嶺山夜光寺」というそうです。暗闇に光るお題目の奇瑞っぽい寺名ですね!
ちなみに、扇ケ谷は武家としての源氏にとって、特別な地です。
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例えば扇ケ谷の寿福寺↑は、日蓮聖人のご遺文にもよく出てくるお寺ですが、かつてここに源頼朝の父・義朝の居館がありました。父方祖先が代々、鎌倉の拠点にしていたようです。
頼朝没後に北条政子が開基となって、建立された禅寺が寿福寺です。
寿福寺の背後のお山は、八幡太郎義家が白旗を揚げて戦勝祈願をした、あの源氏山です。
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この源氏のシンボルみたいな山と、武家政治の中枢・鶴岡八幡宮に挟まれた谷戸が、扇ケ谷と言って良いでしょう。
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そんな源氏の牙城の一角に、日像上人が法華経のお寺を開いた意味、実はとても深いものがあるかもしれません。
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夜光寺で休養し、心身共に充実した日像上人は、日蓮聖人のご霊跡を巡拝されたのち、能登や北陸を教化しながら京に向かいました。
そして宗祖十三回忌となる永仁2(1294)年、上洛を果たしたのです。
時は移り江戸時代、夜光寺を再興したのが、大乗院日達上人です。
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日達上人はかつて広島の國前寺↑の住職をしていましたが、不受不施を唱えたため寺を追われ、各地を巡教したのち鎌倉に入りました。
國前寺も夜光寺も日像上人開山のお寺なので、何らかのネットワークがあって夜光寺に入ったと思われます。
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日達上人は人格的にも優れた方だったのでしょう、外護者に恵まれ、衰微していた夜光寺を七堂伽藍の立派なお寺に整備しました。
この時代に寺号が「大乗山薬王寺」と改められ、今日に至ります。
ところで昭和20年、↓池上本門寺が空襲に遭い、ほとんどの堂宇が焼けてしまったことは、史実としてよく知られています。
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しかしその際、大切な宗宝を守ってくれた先師達の存在を、僕は意識していませんでした。
本門寺HPによると、
「猛火のなか身命を賭した寺僧の活動によって、日蓮聖人御真蹟を中心とする特に重要な御霊宝は焼失を免れ・・・」たそうなのです。
実はこの寺僧の一人が、当時本門寺に出仕されていた薬王寺の先々代お上人ということです。
日像上人のご兄弟(日朗上人、日輪上人)は、比企ヶ谷妙本寺と同時に、池上本門寺の二祖、三祖を務めたことで有名ですが・・・
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(↑画像は池上本門寺・御廟の案内)
僕は今回、この空襲の際の逸話を知り、これは日像上人が薬王寺の先々代お上人になり変わって、ご兄弟の大ピンチを助けたのかな、と思いました。
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由比ヶ浜の真ん前、滑川交差点の一角に交通安全の碑がありますが、その薬王寺の先々代お上人の揮毫だそうです。いろんな事がリンクしますね!
池上での偉業も含め、碑の前で感謝の合掌をしました。
このブログを書いている現在、巷では新型コロナウイルス感染症・第3波のピークで、目下二度目の緊急事態宣言中です。
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感染拡大防止の観点から、今年度は↑日蓮宗加行所(大荒行堂)は開設されていないと聞きました。
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一方、もう一つの行堂である↑遠壽院では、細心の注意を払いながら、例年通り11月1日~2月10日の百日間、読経水行三昧の荒行を行っているとも聞きました。
あらゆることが未曾有の、そして未知の感染症大流行。
どちらが正しい選択なのかは、誰にもわかりません。
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ともかく、遠壽院での荒行が無事、成満されること、そして今年度、日蓮宗加行所に入行予定だったお上人方の無念がいつか晴れることを、心より祈っています。