本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

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明智系図の歴史捜査7:玄琳作明智系図の謎解き

2013年10月22日 | 歴史捜査レポート
 前回は、光秀の子と自称する玄琳(げんりん)の書いたA5続群書類従・明智系図には余りにも出鱈目な部分とA2寛永諸家系図伝・土岐系図の原典となったとみられる信ぴょう性高い部分とが混在しているという謎があることを書きました。
 ★ 明智系図の歴史捜査6:玄琳作明智系図の謎

 なぜ、そのようなことが起きたのかを推理してみましょう。かなり長文になってしまいましたが、お付き合いよろしくお願いいたします。
 A5はA2の頼典の次に光秀の父・光隆を継ぎ足した形になっています。頼基から頼典までを「原典部分」、光隆以降を「追記部分」と呼ぶことにします。原典部分に書かれている内容はA2よりも詳しいこと、A5はA2より先に作成されている(A5は寛永8年、A2は寛永18年)ことは前回述べたとおりです。
 このようなことが起きる可能性は、原典部分を書いた「第三の系図」が存在していて、A5はそれに追記部分を書き足し、A2はそれを参照して記述を減らして作ったということしかありえません。もちろん、この「第三の系図」を作成したのは玄琳ではありません
 それでは、「第三の系図」は誰が作成したのでしょうか。土岐家が作成した可能性が最も高いわけですが、そうであればその系図が沼田藩土岐家に伝存していないのが不思議です。また、土岐家という大名家の所蔵する系図を玄琳という一介の僧が書き写すために入手できるかという疑問も残ります。
 そこで次のようなストーリーが考えられます。
 当時、三代将軍家光の治世も落ち着き、各大名家は自家の体裁を整えようとしていました。土岐家には『土岐文書』と呼ばれる古文書群はあるが、整備された系図はありませんでした。そこで、土岐家は古文書群の中から領地の安堵状などを見て系図の復元を行おうとしました。
 ところが、この作業は容易ではありませんでした。なにしろ300年に渡る系図を復元しなければならなかったからです。この作業には足利幕府や土岐氏の人物の歴史に詳しく、年号や人物名を見てあれこれ類推のできる知識が必要だったのです。
 そこで、土岐家は京都妙心寺にその作業を依頼しました。妙心寺には条件を満たす人物がいたのでしょう。
 妙心寺はこの作業を行って系図を復元し、各代の裏付けとなる『土岐文書』へのリンク付けを行ないました。『土岐文書』の原文は土岐家自身が所有しているので、全文を系図に書き込む必要はなく、文書の発行者・宛名・発行日などを系図に書き込んだのでしょう。そして、それを土岐家に納品しました。
 一方、妙心寺ではこの作業を行った証(あかし)として系図の写本を作成しました。妙心寺には『土岐文書』の原文が残らないので、系図中に原文の写しも丁寧に書き込んだのです。こうして、妙心寺には『土岐文書』の全文が書かれた詳細版が残ることになりました。これが「第三の系図」です。
 当時、江戸町年寄りとして活躍した喜多村彌兵衛は妙心寺が土岐家の系図の復元を行ったことを知り、自分に箔を付けるために自分を光秀の子とする系図の作成を密かに妙心寺の僧・玄琳へ依頼しました。
 家光の治世は春日局が大奥で権勢を振るい、明智光秀の子孫であることが不名誉ではなかったのでしょう。むしろ、春日局に取り入るには都合がよかったのではないでしょうか。
 そこで、玄琳は自分も光秀の子とし、彌兵衛を自分の弟とする系図を妙心寺に残っていた土岐家の系図の写本に書き足して、それを彌兵衛へ贈る体裁を作りました。玄琳の浅薄な知識では光秀の父、兄弟、子については適当なでっち上げを書くしかなく、後世、出鱈目と評価されるようなものしか作れませんでした。

 以上が私の推理です。
 この裏付けとなるのが、土岐家と妙心寺を結んだ人物が春日局である可能性がきわめて高いことです。春日局と妙心寺には密接な関係があったのです。
 妙心寺の塔頭・麟祥院は春日局が建立し、菩提寺としています。今でも毎年、春日局の法要が催されています。
 また、妙心寺には明智風呂と呼ばれる光秀ゆかりの風呂があり、その鐘は春日局が寄進したものです。
 推理の幅がかなり広く、蓋然性が高いとは言いきれませんので、これに代わる蓋然性の高い謎解きがあれば是非お知らせいただきたいと思います。

 実は玄琳は本当に光秀の子で、春日局が土岐家の依頼を仲介して系図の作成を玄琳に頼んだ。それを知った喜多村彌兵衛が大金を積んだか脅迫したかで自分を光秀の子とする系図を玄琳に作らせた。玄琳はこの不本意な偽系図が誰にでも一目で「偽」とわかるように光秀の弟2人に出鱈目な人物を書き加えた、という推理もありえるかと思います。玄琳なる人物がそれほどに信用できる人物であることが証明されれば、この説の可能性も出てきます。
 なお、光秀と妙心寺との関係については妙心寺の僧・川上孤山が大正六年に編纂した『妙心寺史』(思文閣、1984)に記載があり、そこには玄琳作の系図のことも書かれていて、「玄琳は光秀の子」と書いています。残念ながら証拠史料が余り書かれていないのですが、記載されている内容がどこまで信ぴょう性があるかは今後評価してみたいと思います。この本はデジタルデータで無料公開されていますので興味ある方はご覧ください。
 ★ 川上孤山著『妙心寺史』デジタルデータ

 >>>つづく:玄琳と光慶は別人!へ

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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【参考ページ】
 残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
 ★ 本能寺の変の定説は打破された
 ★ 本能寺の変四国説を嗤う
 ★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
 ★ 土岐氏とは何だ
 ★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
 ★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
 ★ 初公開!明智光秀家中法度

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春日局など (mino阿弥)
2014-02-28 16:09:57
「柳営婦女伝八之十」(春日局祖母明智氏傳系)には、明智光秀の妹が斎藤利三の母であり春日局の祖母であるとされ、系図の末尾に乙壽丸が書かれています。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、明智光秀は、明智光綱の妹婿進士山岸信周の次男也として、光綱の妹は、進士光賢、明智光秀の実母是也、享禄二年正月二十日卒去二十六歳と書かれています。
「熊本安国寺蔵土岐系図」には、明智光秀は山岸信周の四男。母は明智光隆(光綱)の姉と書かれ、明智光秀の子とされる玄琳は、晴光 本名光舎童名山岸熊太郎・・明智作十郎又揖斐作之進共云、後改山岸勘解由・・・晩年出家し法名玄琳僧都と云 或は玄琳和尚と云 京都妙心寺塔頭に住すとされています。
全く不明というほかありません。

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ご指摘の通りです (明智憲三郎)
2014-02-28 17:09:15
 ご指摘の三つの系図はかなり後世の作であり、記載内容も怪しげなものです。どれも頼るべきものではなく、明智系図探索を惑わすだけの存在にみえます。
 丁寧に掃き溜めの中から鶴を探すような作業を行わねばなりません。
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