本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
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「岐阜」と名付けたのは織田信長ではない!?

2012年11月05日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 永禄十年(1567)に尾張の織田信長美濃の斎藤龍興居城・稲葉山城を攻め落とし、井口(いのくち)と呼ばれたその地を岐阜と名付けたことは歴史の常識となっています。
 太田牛一の書いた『信長公記』の首巻にも次のように書かれており、この説の拠り所とされています。
 尾張国小真木山(小牧山)より、濃州稲葉山へ御越しなり、井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ

 これを読むと、岐阜と名付けたのは間違いなく信長のようです。
 ところが、実はもっと以前から稲葉山が岐阜と呼ばれていたことを指摘した文献があります。『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』1980年3月所収の猪俣鎮夫氏の論文です。(『戦国大名論集4 中部大名の研究』吉川弘文館、1983年にも所収)
 それには次のように書かれています。
 しかし、この岐阜の呼称は、信長によって初めてもちいられたのではない。戦国時代、革手城下に集まった五山の詩僧らは、早くも応仁年中よりこの地を「岐陽(きよう)」と称していることが知られるし(『梅花無尽蔵』『仁岫語録』など)、明応八年(1499)の東陽英朝(とうようえいちょう)の土岐成頼画讃では、稲葉山が岐阜の名で呼ばれている。そして、この岐阜の名称が周の文王と関連する名称として、彼らの間で使用されていたことも「層々たる岐阜、文王を慕いて沙門を敬い、刹々たる霊山、周公に逢いて仏教を説く」(『仁岫語録』)とあることからも知られる(『濃飛両国通史』)。これらの禅僧に使用されていた岐阜の名称を、信長が自らの願望にあった雅称と考え、採用したものといえる。

 つまり、応仁の乱の戦火を避け、土岐氏を頼って美濃に逃れた京都五山の禅僧たちが信長の命名よりも70年ほど前には使っていた名称だということです。庇護してくれた土岐の殿様への感謝を込めて土岐氏の岐の字を使ったわけです。阜という字は小高い丘陵をさす言葉ですので、「土岐氏の治める丘陵の国」といった意味だったのでしょう。
 ★ 土岐氏とは何だ!
 ★ 土岐氏解説集(土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない!)

 結論として、「岐阜の名称は信長が考案した名称ではなく、既に使われていた名称を行政上の正式名称として認めた」ということになります。

 猪俣氏の論文が発表されてから、既に30年以上がたちますが、この史実はほとんど世の中には知られていません。美濃源氏フォーラムは美濃源氏フォーラム20周年事業(2010年)として岐阜市歴史博物館において「岐阜の岐の字シンポジウム」を開催するなど、この史実を広める活動を行っています。地元・岐阜では徐々に浸透しているようですが、歴史学界への浸透も世の中への浸透もまだまだ時間がかかりそうです。
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』の浸透も時間がかかることだとあらためて思いました。

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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
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