>>> 石谷家文書発見は5年前に希求されていた!
【2014年10月16日追記】
今度は織田信長が上洛の2年前に足利義昭と上洛する計画だったことを示す史料が熊本市の旧家から発見されました。またもや『本能寺の変 431年目の真実』が新たな証拠で裏付けられました。
>>> 織田信長上洛計画の書状発見の意義
【2014年7月10日記事】
岡山の林原美術館所蔵の『石谷家文書』から本能寺の変にかかわる長宗我部元親の書状などが発見されて話題になりました。これについては林原美術館プレスリリースに解説されているのでご覧ください。
今後、研究者が次々と見解を表明することになると思いますが、このことの意義を正しく把握できている研究者が果たしているのか疑問です。方向違いの意見が出てくることが懸念されますので、その意義を解説しておきます。
>>> 新発見!「四国説」を裏付ける?長宗我部元親の書状
『元親記』という書物があります。長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が元親三十三回忌に当たる寛永八年(1631)五月に元親を偲しのんで書いたものです。
その中に次のような記述があります。(泉淳現代語訳『元親記』による)
「重ねて明智家からも、斎藤内蔵介の兄の石谷兵部少輔(いしがいひょうぶしょう)を使者として、信長の意向を伝えてきたが、これをも突っぱねてしまった。そこで信長は、火急に四国征伐の手配をした。御子息三七信孝殿に総支配を仰せつけ、先手として三好正厳(康長)が、天正十年五月に阿波勝瑞城に下着、先ず一ノ宮、夷山へ攻撃をかけ、長宗我部の手から、この両城を奪い返した。信孝殿は、すでに岸和田まで出陣していたという。斎藤内蔵介は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」
この記事によれば、明智光秀が信長による長宗我部征伐を懸念して元親を説得しようとしたこと、その使者が斉藤利三の実兄石谷頼辰(よりとき)であること、元親が信長の要求を拒否してしまったので信長が長宗我部征伐を決意し軍事行動を開始したこと、長宗我部征伐を阻止しようとして(なのか)斎藤利三が光秀の謀反の実行を急いだことがわかります。
この記述が本当だとすると、光秀が利三らの重臣に謀反を打ち明けたのは本能寺の変の前日の夜だとする軍記物の記述は嘘だということになります。また、それを拠り所にして、光秀の謀反は信長の油断からたまたま発生した軍事空白を突いて突発的・偶発的に起こしたとする定説も怪しくなってきます。「明智謀反の戦いを差し急いだ」ということは、前々から謀反の企てが進行していて、それを利三は知っていたことになるからです。
ところが、この『元親記』の記述は研究者から無視されてきました。
表向きの理由は「一次史料ではないので信憑性がない」ということです。一次史料とは日記や書状のようにその時点で書かれた史料をいいます。これに対して、後になって書かれたものを十把一絡にして二次史料と称して信憑性なしと判断しているのです。この判断に従うと信長側近の太田牛一が日記の如くに書き溜めていたことを後になって編纂した『信長公記』も、作家が物語として書いた軍記物と同じく信憑性がないことになってしまいます。当然、個々に信憑性の評価が必要です。元親側近が元親死後33年たって書いたものであれば、細かい記憶違いはあったとしても、大筋での出来事の記述は信憑性があるとみるべきでしょう。
表向きでない裏の理由は、この記述が前述の「突発的・偶発的に起こしたとする定説」に合わないからです。自説に合わない証拠は採用しないという力学が働いているのです。
私は「斎藤内蔵介の兄の石谷兵部少輔」という記述に注目し、この石谷兵部少輔について捜査を進めました。するとこの人物と長宗我部元親の深い関係が見えてきました。そして石谷氏も明智氏と同じ土岐一族であることも。
>>> 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
>>> 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
今回発見された書状のひとつに斎藤利三が石谷頼辰の父光政に宛てた天正十年正月十一日付の書状があります。この書状は『元親記』の頼辰が元親説得に赴いたことを裏付けるものです。『元親記』には赴いた時期は書かれていないのですが、福岡藩士の香西成資が享保2年(1717)に著した『南海通記』には「天正十年正月」と書かれていて一致します。つまり、今回の書状の発見は『元親記』や『南海通記』の記述を再評価すべきことを意味しているのです。研究者が自説にしがみつくことは本能寺の変研究の進展を阻害するブレーキにしかなりません。「史料に語らせよ」の原点に立ち返って謙虚に再検討すべきです。
なお、長宗我部元親が斎藤利三に宛てた天正十年五月二十一日付書状には元親が信長の命令に譲歩する意思が書かれていますが、信長は既に二月時点で長宗我部征伐の発動を行い、五月七日には三男信孝に四国国分けの朱印状を与えていますので「時、既に遅し」です。そのためこの書状は斎藤利三には渡されなかったか、あるいは受け取りを拒否されて『石谷家文書』に所蔵されることになったものと思われます。来年前半に予定されている林原美術館からの『石谷家文書』全体の研究報告の出版が待たれます。
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『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
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>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
【2014年10月16日追記】
今度は織田信長が上洛の2年前に足利義昭と上洛する計画だったことを示す史料が熊本市の旧家から発見されました。またもや『本能寺の変 431年目の真実』が新たな証拠で裏付けられました。
>>> 織田信長上洛計画の書状発見の意義
【2014年7月10日記事】
岡山の林原美術館所蔵の『石谷家文書』から本能寺の変にかかわる長宗我部元親の書状などが発見されて話題になりました。これについては林原美術館プレスリリースに解説されているのでご覧ください。
今後、研究者が次々と見解を表明することになると思いますが、このことの意義を正しく把握できている研究者が果たしているのか疑問です。方向違いの意見が出てくることが懸念されますので、その意義を解説しておきます。
>>> 新発見!「四国説」を裏付ける?長宗我部元親の書状
『元親記』という書物があります。長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が元親三十三回忌に当たる寛永八年(1631)五月に元親を偲しのんで書いたものです。
その中に次のような記述があります。(泉淳現代語訳『元親記』による)
「重ねて明智家からも、斎藤内蔵介の兄の石谷兵部少輔(いしがいひょうぶしょう)を使者として、信長の意向を伝えてきたが、これをも突っぱねてしまった。そこで信長は、火急に四国征伐の手配をした。御子息三七信孝殿に総支配を仰せつけ、先手として三好正厳(康長)が、天正十年五月に阿波勝瑞城に下着、先ず一ノ宮、夷山へ攻撃をかけ、長宗我部の手から、この両城を奪い返した。信孝殿は、すでに岸和田まで出陣していたという。斎藤内蔵介は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」
この記事によれば、明智光秀が信長による長宗我部征伐を懸念して元親を説得しようとしたこと、その使者が斉藤利三の実兄石谷頼辰(よりとき)であること、元親が信長の要求を拒否してしまったので信長が長宗我部征伐を決意し軍事行動を開始したこと、長宗我部征伐を阻止しようとして(なのか)斎藤利三が光秀の謀反の実行を急いだことがわかります。
この記述が本当だとすると、光秀が利三らの重臣に謀反を打ち明けたのは本能寺の変の前日の夜だとする軍記物の記述は嘘だということになります。また、それを拠り所にして、光秀の謀反は信長の油断からたまたま発生した軍事空白を突いて突発的・偶発的に起こしたとする定説も怪しくなってきます。「明智謀反の戦いを差し急いだ」ということは、前々から謀反の企てが進行していて、それを利三は知っていたことになるからです。
ところが、この『元親記』の記述は研究者から無視されてきました。
表向きの理由は「一次史料ではないので信憑性がない」ということです。一次史料とは日記や書状のようにその時点で書かれた史料をいいます。これに対して、後になって書かれたものを十把一絡にして二次史料と称して信憑性なしと判断しているのです。この判断に従うと信長側近の太田牛一が日記の如くに書き溜めていたことを後になって編纂した『信長公記』も、作家が物語として書いた軍記物と同じく信憑性がないことになってしまいます。当然、個々に信憑性の評価が必要です。元親側近が元親死後33年たって書いたものであれば、細かい記憶違いはあったとしても、大筋での出来事の記述は信憑性があるとみるべきでしょう。
表向きでない裏の理由は、この記述が前述の「突発的・偶発的に起こしたとする定説」に合わないからです。自説に合わない証拠は採用しないという力学が働いているのです。
私は「斎藤内蔵介の兄の石谷兵部少輔」という記述に注目し、この石谷兵部少輔について捜査を進めました。するとこの人物と長宗我部元親の深い関係が見えてきました。そして石谷氏も明智氏と同じ土岐一族であることも。
>>> 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
>>> 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
今回発見された書状のひとつに斎藤利三が石谷頼辰の父光政に宛てた天正十年正月十一日付の書状があります。この書状は『元親記』の頼辰が元親説得に赴いたことを裏付けるものです。『元親記』には赴いた時期は書かれていないのですが、福岡藩士の香西成資が享保2年(1717)に著した『南海通記』には「天正十年正月」と書かれていて一致します。つまり、今回の書状の発見は『元親記』や『南海通記』の記述を再評価すべきことを意味しているのです。研究者が自説にしがみつくことは本能寺の変研究の進展を阻害するブレーキにしかなりません。「史料に語らせよ」の原点に立ち返って謙虚に再検討すべきです。
なお、長宗我部元親が斎藤利三に宛てた天正十年五月二十一日付書状には元親が信長の命令に譲歩する意思が書かれていますが、信長は既に二月時点で長宗我部征伐の発動を行い、五月七日には三男信孝に四国国分けの朱印状を与えていますので「時、既に遅し」です。そのためこの書状は斎藤利三には渡されなかったか、あるいは受け取りを拒否されて『石谷家文書』に所蔵されることになったものと思われます。来年前半に予定されている林原美術館からの『石谷家文書』全体の研究報告の出版が待たれます。
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『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
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>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
なお、名前、タイトル無記入の方のコメントには対応しない規定としていますので、次回からはよろしくお願いいたします。
本能寺の変によって長宗我部氏は結果的に四国攻めの窮地から救われました。その結果から、『元親記』の作者が「長宗我部を救うため、本能寺の変を明智が起こした」と認識していた。あるいは、変後の明智からの連絡で「長宗我部を救うために信長を討った」と説明したことが、「長宗我部を救うために謀反計画を早く実行してくれた」と勘違いした(あるいは信じていた)ために、『元親記』の記述となった可能性もあるのではないでしょうか?
変後に、利三が「長宗我部を救うために謀反を急がせたんだ」と長宗我部方に伝え、長宗我部方も信じたorそのように長宗我部方が勝手に認識した、ということがうかがえますが、『元親記』の記述をもって利三があらかじめ光秀の謀反計画を知っていた決定的な証拠にはならないと思います(利三は直前まで知らなかったが、変後にさも自分の手柄のように長宗我部方に吹聴した可能性もあるという意味です)。状況的に考えて、重臣の利三が知らないわけはないと思いますが。
当然、『元親記』の記述のみからの判断ではなく、諸証拠を総合して蓋然性が高いと判断した結果です。
拙著第5章盟友・長宗我部の危機(113頁~125頁)をご参照ください。