本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

新発見!「四国説」を裏付ける?長宗我部元親の書状

2014年06月25日 | 427年目からの挑戦
 戦国時代に土佐の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した内容の手紙が見つかり、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が二十三日に発表したとのことです。手紙は五月二十一日付で本能寺の変の十日前。

 ★詳報:林原美術館プレスリリースのページ2014年6月23日
 またしても『本能寺の変 431年目の真実』を裏付ける新証拠が発見されました。発見されたのが「土岐石谷家文書」であることにも大きな意味があります。
 『本能寺の変 431年目の真実』での関連記載箇所は以下の通りです。
 第二部 謀反を決意した真の動機
  第5章 盟友・長宗我部の危機
   利三兄弟と長宗我部の絆(113頁)
   長宗我部氏と土岐氏(117頁)
   四国問題の鍵を握る石谷頼辰(120頁)
   畿内・四国同盟に訪れた危機(123頁)
 第三部 解明された謀反の全貌
  第9章 明智光秀の企て
   謀反の決意と模索(191頁)
   光秀の決断「時は今」(197頁)

 ただし、『本能寺の変 431年目の真実』をお読みの方はおわかりのように、実は長宗我部問題は副因であって、光秀謀反の動機にはまだ先があるのです。「新発見によって四国説が裏付けられた」と騒いでいるマスコミの取り扱いは私から見るとまだ二、三周遅れです。
 ちなみに、前述の第二部第5章に続く6章の書き出しは次のようになっています。
『ここで歴史捜査を打ち止めて「長宗我部征伐阻止が謀反の動機」という結論を出す手もあった。しかし、これで果たして光秀が「一族の滅亡」とまで思い詰めるのか疑問が残った』

 なお、朝日新聞には「近年では信長の四国政策転換で光秀が面目をつぶされたとする説が有力だ」と書かれており、いまだに「三面記事史観」に取りつかれたままです。「面目をつぶされた」と「長宗我部征伐阻止」とでは次元が全く異なることがおわかりでしょう。
 >>> 本能寺の変 「四国説」を嗤う
 >>> 本能寺の変は三面記事?!

 >>> 家康による穴山梅雪謀殺の新証拠
 >>> これが秀吉による野望説捏造の新証拠

-------------------------
 
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

 >>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
 >>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
 >>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
 >>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
 >>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
 >>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
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20 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Tm.)
2014-06-23 22:57:00
「光秀が信長の方針転換に不服だったか?」
という見出しからすれば、御説とは逆でしょう。

まさに、信長が土佐と伊予の配分を明確にしていなかった理由が見えてきましたね。
出ましたね (章奴)
2014-06-24 01:57:27
大変ご無沙汰致しました。
重要な資料が出ましたね。新聞サイトの記事を見て、慌てて、こちらへ飛んできました(^_^)。
Tmさん、意味不明です! (明智憲三郎)
2014-06-24 21:00:58
 新聞記者が書いたコメントを材料にして、とやかく言われても全く意味不明です。
 拙著をお読みいただければ誰でも理解できます。全部読んでいただきたいですが、少なくとも下記のページだけでもお読みください。(浅読みで歴史を理解するのは難しいです。本来は全文お読みください)
『本能寺の変 431年目の真実』明智憲三郎著、文芸社文庫、2013年12月発売
第二部 謀反を決意した真の動機
第5章 盟友・長宗我部の危機
 利三兄弟と長宗我部の絆(113頁)
 長宗我部氏と土岐氏(117頁)
 四国問題の鍵を握る石谷頼辰(120頁)
 畿内・四国同盟に訪れた危機(123頁)
第三部 解明された謀反の全貌
第9章 明智光秀の企て
 謀反の決意と模索(191頁)
 光秀の決断「時は今」(197頁)
章奴様、出ました! (明智憲三郎)
2014-06-24 21:16:30
 土岐石谷氏文書が岡山で出ましたね。驚きました。土岐石谷氏こそ光秀と元親を結びつけた一族という真実を裏付けるひとつの証拠でしょう。もっといろいろなことが出てくると期待しています。
 これで、土岐氏や土岐石谷氏を全く無視してきた本能寺の変研究者が顔を洗っていただけるとよいのですが。
ご無沙汰しております。 (氷上丹波)
2014-06-25 11:30:13
貴重な資料が出てきましたね。
「長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日) 第2巻所収」で、長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状とのこと。
1月の時点では拒絶した元親ですが、この書状では信長の命令(朱印状)に従うとしています。阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと、斎藤利三に伝えている内容です。
文庫本も買いましたが、また更なる「改訂版」もしくは「増補版」を期待します。

ちなみに私はマンガが好きで、明智さんのイメージする光秀は「へうげもの」の光秀そのものです。
個人的には織田家随一の武将とした「センゴク」の光秀像の方が好きですが。
Unknown (Tm.)
2014-06-25 21:03:00
今回の件で取材を受けられている桐野作人さんのTwitterをご覧ください。
「元親の条件闘争に光秀=利三が苦慮するかもしれないですが、だからといって謀叛というのは論理の飛躍。2人がそこまでして元親を庇うのかということ。」
と述べられています。
光秀が守るべきは明智家であり、土岐一族などというのは、それこそ『明智軍記』に汚染された幻想以外のなにものでもありません。
それに信長が長宗我に対し、浅井、朝倉、武田ほどに怒りや恨みを抱いていたとは思えません。
私見を述べれば、おそらくは秀吉の島津攻めのような形での結果を描いていたのではないでしょうか。
元親を隠居させ信親に家督を継がせ、土佐と伊予(の一部)を与えたうえで、やがて来る大陸出兵の尖兵とするつもりではなかったかと思います。
その前には、北条や家康への対処があったと思いますが。
土岐石谷家文書である意味 (明智憲三郎)
2014-06-26 20:33:31
 この書状が土岐石谷家文書にあったということは、光秀の使者である石谷頼辰がこの書状を長宗我部元親から受け取って、斉藤利三(さらにはその先の明智光秀)には渡さずに所持していたことになります。
 頼辰が渡せなかったい理由が何かあったのでしょう。たとえば、土佐と亀山の往復で、時間的に間に合わなかったとか、頼辰が「謀反が起きるのだから意味がない」と考えたか。あるいは利三に渡したが利三から「既に遅い!」と突っ返されたのかもしれませんね。
 マンガはドラゴンボールZを最後に読んでいないので「へうげもの」、「センゴク」は未見です。いずれ読んでみます。
Tmさん、桐野作人説ですか? (明智憲三郎)
2014-06-26 20:48:45
 Tmさんのバックグラウンドは桐野作人氏でしたか。納得です。
 いろいろとよく史料研究はされている桐野氏ですが、初めは朝廷黒幕説に飛びついて、次には発作説へ転換と、どうみても金田一耕助に登場する「ワカッタ!」のセリフで有名な等々力警部ですね。「いろいろあったが光秀は謀反へと飛躍した」とご自身の論理の破たんを光秀の論理の破たんへとすり替えて、ご自身の論理を飛躍させた方です。
 引用されている桐野氏の発言(御自身のことでないと「論理の飛躍」が見える?)も全く光秀-土岐石谷氏-長宗我部氏という基本的な理解が欠如しています。そのような方の御説がそんなに大事なのは何故なんですかね?
「土岐桔梗一揆」はなぜ崩壊したのか (Tm.)
2014-06-27 00:27:16
>Tmさんのバックグラウンドは桐野作人氏でしたか。納得です。
>そのような方の御説がそんなに大事なのは何故なんですかね?

いいえ、実際には桐野さんのブログにも色々と批判的なコメントをさせていただいています。
自分が考える謀反の背景には信長と誠仁親王との軋轢そして嫡男・信忠との不和があり、光秀はそれを踏まえ信長に対し謀反を決意したものであり、実際には織田政権の転覆までは考えていなかったのではないかと思っています。

その信長と誠仁親王との軋轢についてはまさに桐野さん自身が指摘されていることなのですが、自らが提唱した朝廷黒幕説を否定した手前、問題を矮小化されていますが、実際には信忠との不和の一因でもある重要な出来事であったと考えられ、両者の和解に朝廷がわざわざ勅使を遣わしていることがそれを裏付けています。
またその信忠との不和には佐久間信盛らの粛清も関わっており、不和の原因はおそらく信忠が一連の出来事に対し信長に意見したことであったと考えられます。
結論から言えば、本来、光秀が意図した謀反は「主君押し込め」であったと考えています。

その一方で、歳三には姻戚関係にある長宗我部氏の窮状と自身の稲葉家とのトラブルでの信長の沙汰への不満が、秀満ら他の重臣には信長の「近国掌握構想」への不安があり、結果として光秀の意図を超えた謀反となったのが「本能寺の変」であったと考えます。

親兄弟とて敵となり得た時代、ことさら一族云々に拘れる御説には異議を唱えざるを得ません。
何より、「土岐桔梗一揆」はそこに付け込まれ崩壊したわけですから。
少し安心しましたが (明智憲三郎)
2014-06-27 17:02:12
 桐野作人説ではなくて安心しました。ただ、そのような人の発言を盾に使うのはあまりフェアではないですね。
 御説拝聴しました。信長研究をなさっている方らしい説ではありますが、答が先にありきで、答に合いそうな証拠を探すという従来型の説と同じにならないよう祈念しております。それでは本能寺の変研究の進歩はないですからね。
勝者の歴史観 (Tm.)
2014-06-28 18:32:29
>答が先にありきで、答に合いそうな証拠を探すという従来型の説と同じにならないよう祈念しております。

それはそのままお返ししたいと思います。
そして何より御説を含めた従来の研究の最大の問題点は、今日知られている「本能寺の変」という出来事をあたかも数学的に考え、それを唯一の「答え」としてその「数式」の提示に終始した状況にあると言わざるざを得ません。

ひとつの「数式」から求められる「答え」はひとつですが、ひとつの「答え」に対する「数式」はそれこそ無限であり、どれもが正しく、どれもが誤りではありません。それが試験の問題であれば、その「答え」に到る条件の提示があるわけで、従来の研究は、当に各自がその条件の提示を行い己の「数式」の正しさを主張しあっている状況であると言えます。

しかしその前にご自分の人生を振り返ってみて下さい。今ままで、どれだけ物事が計算=計画通りに進みましたか。計画倒れに終わったり、計画通りに進まなかったことでむしろよい結果がもたらされたりしたことはありませんでしたか。またその逆も。
そのうえで「本能寺の変」について最も考慮されるべきは、それが「主殺し」であったという点です。

実際にはそれに近い行為は当時として目面しくも無かったでしょうが、公には非難される行為であったことは疑いようもありません。
実際、信長も「主殺し」の汚名を受けることは忌避しており、武田攻めでは土壇場で勝頼を裏切り降伏した小山田信茂が「不忠」を咎められ処刑されています。光秀もその点をどのように考えていたのか考慮されねばなりません。

明智さんの主張される「土岐一族の窮状」がそれをそれを回避する「大儀」になるかと言えば否でしょうし、「大陸進出」はまだ先のことであり「大儀」とははなり得なかったでしょう。
とすれば、光秀にとって「主殺し」は予期せぬ展開の結果ではなかったのではないでしょうか。

明智さんを含め従来の見解はその「主殺し」を当初からの目的であったと決め付けられていますが、それこそは当に勝者の歴史観に囚われたものだと言わせて頂きます。
結局、偶発説ですか? (明智憲三郎)
2014-06-30 14:47:07
 残念ながらご指摘には根本的な「ずれ」を感じざるを得ません。
 目的を達成するための活動(プロジェクトと書くことにします)が思惑通りに進まないのは世の常です。だからといって、実業の世界ではそれでよいとはできません。実業の世界は目的を達成するために行っている活動だからです。
 思惑通りいかないのをどうやってうまくやるようにするかの方法論がプロジェクトマネジメントです。しかし、それがあったからといって誰でもがうまくやれるわけではありません。
 それと同じことがあの時代にも起きていたとみるべきです。武将は生き残るという目的を果たすために孫子の兵法などの軍学を方法論として身に付け、必死に知恵を絞り、汗をかいた。しかし、生き残れた武将は限られた人々であった。
 そういった実業の世界では「偶発的に成功する」という僥倖は考えられません。そのような僥倖を期待していたら、あっと言う間に滅亡です。「甘い」としか言いようがありません。
 「今ままで、どれだけ物事が計算=計画通りに進みましたか。計画倒れに終わったり、計画通りに進まなかったことでむしろよい結果がもたらされたりしたことはありませんでしたか」とお書きですが、「計画通りに進まなくてよい結果が出る」などとは実業のプロジェクトマネジメントの世界では考えようもありません。
 計画通りに進まなければ必死に立て直す策を講じて計画通りに戻さねばなりません。計画通りに進めていても予想外のトラブルに見舞われて復旧策に追われるものです。計画だけでなく、このような想定外のことが発生した場合のリスク対策も事前に立てておかねばなりません。
 ここに「偶発説」を唱える学者の方々の根本的な考え違い、あるいは逃げがあるように思います。「偶発的に成功できるのだ」という幻想、あるいは「偶発的だから説明不要」という説明責任回避です。
 光秀が信長を討ち、信忠を討ち、安土城を占拠するまでは、正に御説の通りに一見「計画通りではない偶発的な成功」が続いたように見えます。それを「偶発的」として思考停止するかどうかで、出てくる答は全く異なります。拙著『本能寺の変 431年目の真実』の第7章「六月二日の未解明の謎」(143頁)で提示したことは正にそのことを問うているわけです。
 なお、これまでの議論ではどうしても拙著をきちんとお読みになっているようには思えません。お読みであれば長宗我部元親書状発見が拙著の裏付けになっていることがたちどころにご理解できたはずです。拙著は参考文献欄に記したように100冊以上の史料・文献から証拠を洗い出し、それらの辻褄の合う、最も蓋然性の高い答(真実)を復元したものです。従来の研究本とは明らか違うことをご理解いただけると思います。
不測の事態 (Tm.)
2014-06-30 19:03:26
申し訳ありませんが、明智さんは故意に論点をすり替え争点をはぐらかされておられませんか。

そもそも自分は、「本能寺の変」そのものが無計画だったとは申しておりません。従って従来のような「偶発説」でもありません。言いたいのは、今日、定説となっている事実(史実)が真実かということです。
奇しくも最近、家康が織田家の人質となった経緯に捏造があった可能性がでてきましたが、同じようなことが「本能寺の変」にもないのかということです。
その上で自分が問いたいのは、「主殺し」という結果が本当に光秀が望んでいた結果であったのかという点です。

もしそれが望んでいた結果だったとしたら、光秀はどのようにしてその汚名を避ける算段をしていたというのでしょうか。
明智さんの主張されている「土岐一族の窮状」は「私情」であり、「大陸進出」もまだ先のことであり、とてもその手段とは成らなかったでしょう。

>光秀が信長を討ち、信忠を討ち、安土城を占拠するまでは、
>正に御説の通りに一見「計画通りではない偶発的な成功」が
>続いたように見えます。

先のコメントが不適切だったかも知れませんね。
自分はむしろ光秀にとっては不測の事態の連続で、結果、山崎の戦いでの敗因に繋がったと見ています。

>拙著は参考文献欄に記したように100冊以上の史料・
>文献から証拠を洗い出し、それらの辻褄の合う、最も
>蓋然性の高い答(真実)を復元したものです。従来の
>研究本とは明らか違うことをご理解いただけると思います。

謎のない完璧な答えを求めるようないわゆる歴史マニアには受けが好いのでしょうが、それは当に答が先にありきで、答に合いそうな証拠を探し、都合の悪いものは切り捨てるという作為に陥っていることをご自覚いただきたいものです。
根本認識が真逆です (明智憲三郎)
2014-07-01 10:42:23
 最後に書かれている「謎のない完璧な答えを求めるようないわゆる歴史マニアには受けが好いのでしょうが、それは当に答が先にありきで、答に合いそうな証拠を探し、都合の悪いものは切り捨てるという作為に陥っていることをご自覚いただきたいものです」という認識は事実とは真逆です。
 私は従来の研究者が陥っている研究手法の誤りが正に「先に答ありき」であったと確信し、同じ轍を踏まないように「答を作らずに、まず証拠を徹底して集める」ことにしました。素人がやっても新しい証拠など見つからないだろうと危惧して始めましたが、従来の研究者がピックアップしていない証拠がいろいろでてきました。それらの証拠の全てに辻褄が合う答を復元したら驚くべき答が出てしまったのです。
 この手法は正しい犯罪捜査のやり方と同じなので「歴史捜査」と命名したわけです。本能寺の変の謎解きにこのような手法を適用した研究者はいません。
 このことはとても大事なことなので、拙著にももちろん書いています。「大学などでの研究者があくまで史料の「文字」という顕在化された部分での検証に終始」するというのであれば、現代の資料・本についても同様に「顕在化された文字」を大事にすべきです。拙著に書いてあることを恣意的に真逆に判断することは研究者として不当な態度という他ありません。
 なお、歴史捜査手法を実践してみたらお分かりになりますが、この手法の実行には膨大な時間と労力がかかります。答に行きつけるのかどうかも最後まで見通せません。そのような活動は経済活動としてはできません。つまり、研究や執筆で生計を立てている方には難しいことなのです。
 ですから、私が見出した証拠や研究成果は是非研究に活かしていただきたいと思います。素人が言ったことだから気に食わないという態度では本能寺の変研究の進歩はありません。
 たとえば、長宗我部元親書状が『石谷家文書』から新発見されても、元親-土岐石谷氏-土岐明智光秀の関係にいまだに気付かない研究者がいます。「元親の条件闘争に光秀=利三が苦慮するかもしれないですが、だからといって謀叛というのは論理の飛躍。2人がそこまでして元親を庇うのかということ。」という認識には明らかに欠落しています。
 この関係について前著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いたのは5年も前のことです。これからもこうして無駄に時間が過ぎていくのは、とても残念で仕方がありません。
光秀のプロジェクトマネジメントとは (Tm.)
2014-07-01 13:28:06
こまごまと反論させていただこうと思いましたが糠に釘のようなのでズバリ申し上げさせていただきます。

光秀のプロジェクトも、本能寺を囲むまではまず成功であったといえるでしょう。しかしその後は明らかに誤算続きであり、とても光秀にまともなプロジェクトマネジメントがあったとは思えません。ただ信長親子を討ち取りさえすればその後は何とかなるとの甘い考えの下で行動を起こしたと言われてもしかたがないでしょう。大方の見解はそうだと思います。
もっとも、自分はその様には思ってはいませんのでそこにはツッこまないでください。

結局、光秀は山崎の戦いで破れ滅亡しますが、本来ならば、いったい光秀のプロジェクトマネジメントのどこに間違いがあったかを検証すべきではないでしょうか。明智さんは、その点に目をつぶっておられませんか。

それついて従来の説で言われている点に「信長の遺体を見つけられなかった」ということが挙げられており、明智さんもそれを肯定されたうえで、焼死体の身元は確認できなくて当然とされていますが、まさにそこに光秀の最初のつまづきがあったわけで、本来ならばまず身柄を押さえるべきであったはずです。しかし、それができなかったことを批判するものではありません。

問題は、もし首尾よく身柄を押さえられたとして、光秀が「主殺し」に及んだであろうかという点です。結局、光秀の誤算は、その「主殺し」が最後まで付きまとった点にあるといえます。
もし明智さんがその「主殺し」を肯定されるのであれば、光秀はそのリスクをどのように考え、回避しようとしていたのかご意見を伺いたいものです。

御説に従えば、その背景に家康との密約云々があったと仰られそうですが、もし本当にそのようなものがあったとしてもリスクを伴うものであり、リスクを以ってリスクを回避しようとしていたとすれば、とてもまともなプロジェクトマネジメントとは言えません。
おそらく家康も、「主殺し」の汚名を受けた光秀を表立って支援することなく、火事場泥棒に徹したと思います。
戦国史観として違和感 (明智憲三郎)
2014-07-02 11:31:05
 まとめて最終意見を書かせていただきます。これに対する反論は不要です。Tmさんは前著から一貫して拙著否定を繰り返してきていますが、拙著に対する誤認識・不理解が多く浅読みに終わっていると思わざるを得ません。この状態でやり取りを続けても時間の無駄かと思います。
 光秀の失敗原因は拙著に書いてありますのでお読みください。(第11章 羽柴秀吉の企て 261頁~)
 土岐氏についても拙著に書いてあります。(第4章土岐氏再興の悲願93頁~) 愛宕百韻の脇句・第三の改竄が解読できた理由が何であったかと「時」が「土岐」ではないという根拠ない説と比較してください。
 御説を長々拝聴してきましたが戦国史観として違和感を感じます。
 まず、「主殺し」という言葉なり概念が最優先のものとして当時考えられたのでしょうか?光秀と「謀反の存分を雑談」した公家の吉田兼見の日記など読んでも、そのような記述は見られません。「主殺し」を最優先に置くのは違和感があります。
 また、リスクを伴わない計画などありませんので、リスクがあるから計画しないとはなりません。高柳光寿氏や藤本正行が唱えるように「情報漏えいのリスクがあるから謀反の共謀者は作らない」という考え方と同じ誤りを犯しています。プロジェクトマネジメントや実業世界における目的・手段論ではありえない話です。「共謀者が必要なら情報漏えいのリスク対策を凝らして共謀者を確保する」のです。生存競争に明け暮れた戦国武将の論理も同様でしょう。(このことも拙著プロローグ7頁に書かれています)
Unknown (Tm.)
2014-07-03 05:30:15
掲載されないことを承知でコメントします。

このやり取りを見られた方が、それぞれのツイッターなどでどのように述べられているか、いま一度謙虚にご覧ください。

結局明智さんは、ご自分の考えこそが正しいの一点張りですから、こちらの質問に対しても争点のずれた反論を
をされ、終始議論が噛み合わないようです。
それは他の方の批判に対しても同じです。

かつての八切止夫さんのごとく、「時代の徒花」とならぬことをお祈り申し上げます






やはり「のぶなが」さんですね! (明智憲三郎)
2014-07-04 10:21:24
 やはりTmさんはamazonカスタマーレビューでハンドルネーム「のぶなが」と名乗り、「本能寺の変 431年目の嘘」というブログを開設して、「反431」キャンペーンを展開している方ですね。amazonカスタマーレビューのコメントに6月27日追記で「主殺し」の話を書き込んだので最終確認できました。
 そして、ここにひとつの仮説があります。あなたが某大学の某准教授だという仮説です。
 その方は常々「吉田兼見の日記の書き換えには何ら意図はない、その証拠に意味のない書き換えが多い」と主張しており、自著にもその主張を書いています。5年前に拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を読んだ際に気に食わなかったのが唯一その点です。「兼見の日記書き換えは自分や朝廷と光秀との関係を隠す為」と書かれていたからです。
 そのため「本能寺の変研究に新たな一石を投じるもの」と題して満点の評価点を付け、「以前にも光秀の子孫を称する方による光秀冤罪論を主張した書籍があり、それは明らかに過去の作品から多くを引用した物ものであったが、本書はそれとは一線を画した研究書(著者曰く「歴史捜査」)だと言える。光秀による謀叛の決意が秘められた「愛宕百韻」に対する新たな問題提起と、秀吉による情報操作の為の『惟任謀叛(退治)記』への注目、そして信長小姓の中、唯一の変の生存者にして情報提供者であったろう彌介の存在の指摘という著者の主張は、従来の研究の盲点を突いたものではなかろうか。著者はまた「神君伊賀越え」にも異論を呈し穴山梅雪の死の真相と家康の行動に秘められた思惑にも迫っている。他にも従来より知られている多くの史料、諸説に再検討が加えられており、著者が従来の研究(書)の類を入念に検証された努力の跡が窺える。ただ惜しむべきは、一部に過去の研究と同じ轍を踏んだ憶測交じり(史料を曲解した)主張があることも否めない。その意味では「歴史捜査」というのは適切な表現かも知れない。とは言え本書の出版は、本能寺の変研究に新たな一石を投じることになるのではなかろうか」と高い評価をしました。唯一、吉田兼見日記の件を「憶測交じり」と評したのです。
 ところが、昨年出版された『本能寺の変 431年目の真実』では吉田兼見の書き換えについて説明が強化されていて、第9章「吉田兼見の偽証」200頁で「もちろん兼見は都合の悪いことを書き換えて偽証を行なったのだ。書き換えねばならない肝心な個所は限られており、そこは細心の注意で書き直したに違いない。それ以外の大部分についてを正確に書き写す必要は全くない。別本を見て当日の記憶がよみがえれば文章を忠実に書き写すのではなく、記憶に従って書き直せばよい。おそらく兼見はそうしたのだろう。その結果、正本と別本にはあまり意味のない様々な記述の差が生じたのだ」と書かれていたのです。「意味がない書き換えが多いから、書き換えには意図がない」という主張の根拠が崩されていたのです。
 これはまずいと気付いた某准教授はamazonカスタマーレビューに「反431」の書き込みをしました。 『「子孫」という身内による思い込みの捜査報告書です』と題し『前著(「四二七年目の」)に対しては「本能寺の変研究に新たな一石を投じるもの」と評させていただくと共に、「過去の研究と同じ轍を踏んだ憶測交じり(史料を曲解した)主張があることも否めない」とさせていただきましたが、残念ながら本著ににおいてもそれは解決されておらず、むしろその傾向は高まっていると言わざるを得ません』という書き出しで、土岐氏は関係ない、歴史小説だ、被害者の身内には捜査権がない、など難癖ともいえる批判を書きました。本題である吉田兼見の日記に触れて争点になることを避けたため、これしか書きようがなかったわけです。
 さらに「本能寺の変 431年目の嘘」というブログを開設して様々なことを書きましたが、本題の吉田兼見の日記の事は一言も書きませんでした。ここに脚光があたるのを避けて、とにかく「431」の悪評を書き立てて「潰す」という強い意志です。過去に八切止夫氏を潰したように。もっともさすがにブログ名の「嘘」という誹謗中傷は気が引けたので現在は「信長考記」と改名しました。
 この仮説であれば「のぶなが」さんの「四二七」に対するamazonでの評価がかくも「431」で急変した理由がすんなり理解できますし、難癖ともいえる決め付けに終始していることも理解できます。
 「431」を潰すことが本能寺の変研究の進歩に益するのであれば喜んで潰されますが、どう考えても逆としか思えません。5年前の『四二七』で本能寺の変研究書としては初めて石谷頼辰や土岐氏に脚光を当てました。あの時に研究者の方々に受け止めていただいていれば、先日の長宗我部元親書状が「石谷家文書」から発見された意義が正しく理解されたものと残念でなりません。
 今やるべきことは「431」を潰すことなのでしょうか。よくよくお考えいただきたいと思います。
 
素人ですが (Tm.)
2014-07-04 16:38:06
>そして、ここにひとつの仮説があります。あなたが某大学の某准教授だという仮説です。

すいません、自分はまったくの素人です。ただ明智さんよりは多く、他の研究者の方のそれを読んでいるとの自負はあります。
そして御著を拝読する以前から同様のことを某掲示板などに書き込んでまいりました。差の際、秀吉の「惟任謀反記」による喧伝、「明智軍記」による汚染なども指摘しております。
それは10年以上前のことであり、いまその多くは見られませんし、パソコンのクラッシュなどてデータの多くが失われてしまいましたが、一部のサイトの掲示板にその断片をみることができます。もしかしたら明智さんは、当時それらを読まれていたのではないでしょうか?
いま思えば稚拙かつ思い込みも多く恥ずかしい次第ですが、それらを踏まえ期待を込めて前著を評価させていただきました。
ただそのうえで危惧していたのが余りに思い入れが強く感じられたことであり、冷静な判断力を欠くことにならなければ好いと思っていたのですが、今回まさにそれが的中していまいました。

>5年前の『四二七』で本能寺の変研究書としては初めて
>石谷頼辰や土岐氏に脚光を当てました。あの時に
>研究者の方々に受け止めていただいていれば、先日の
>長宗我部元親書状が「石谷家文書」から発見された意義が
>正しく理解されたものと残念でなりません。

明智さんが指摘されたのは「土岐一揆」なる幻想であり、従来の研究においても四国問題を否定している訳ではなく、多分、その言葉を聞いた研究者の方々が失笑されている様が思い浮かびます。
「愛宕百韻」の「とき」に「土岐」を連想させた最初の文献は何あろう「明智軍記」です。「惟任謀反記」はその様な解釈までは指摘していません。その事実に目を背けないで下さい。
その点、やはり明智さんは光秀の子孫という意識が強すぎ、自覚のないまま光秀を神格化していると言わざるを得ません。

「石谷家文書」については報道で伝え聞いた程度で詳細は不明ですが疑問に思う点があります。
もしかしたら現物は写しであり、日次に誤りがあるのではないかと思います。

「兼見卿記」についても、最近明らかにされた別本と正本の関係をご存知ですか?決して、光秀の敗北を受けてわざわざ書き直したものではないのです。だからこそ別本は破棄されずに残っている訳で、書き換えに必要以上の意味を求める行為は、要らぬ妄想を膨らますだけです。

今回、明智さんが、一介の素人である自分を某大学の某准教授と誤認されたことにも、思い込みの激しさが現れていると言わざるを得ません。
確かに素人ですね! (明智憲三郎)
2014-07-05 18:22:59
>すいません、自分はまったくの素人です。
 確かにそのようですね。一流の学者が匿名性を利用して一方的な決め付けの非礼な言辞をブログなどに書き込むはずはありませんでしたね。「本能寺の変 431年目の嘘」とはよくもまあ言ったもので、これは研究者の姿勢ではないです。一種の「クレーマー」でしょうか。

>明智さんが指摘されたのは「土岐一揆」なる幻想
>であり、従来の研究においても四国問題を否定し
>ている訳ではなく、多分、その言葉を聞いた研究者
>の方々が失笑されている様が思い浮かびます。
 勝手な決め付けですね。今回の書状の発見は『元親記』の記述が裏付けられたということです。光秀が長宗我部救済を進めていたこと、元親と光秀とをつなぐキーマンが斎藤利三とその兄で同じ土岐一族の石谷頼辰であったこと、彼の妹が元親の正室という深いつながりがあったということ、つまり単なるメンツ問題ではないということです。斎藤利三が「明智が謀反を差し急いだ」という『元親記』の記述の信憑性も高まりました。偶発説・発作説には不利な証拠が増えたことになります。今後、偶発説・発作説を信じる研究者が『石谷家文書』の信憑性を崩そうと躍起になることでしょう。Tmさんの「もしかしたら現物は写しであり、日次に誤りがあるのではないかと思います」もその一環ということですね。

>「愛宕百韻」の「とき」に「土岐」を連想させた
>最初の文献は何あろう「明智軍記」です。
>「惟任謀反記」はその様な解釈までは指摘して
>いません。その事実に目を背けないで下さい。
 「土岐」と「時」を読み替えた例は三十六歌仙の源重之の和歌で有名です。『惟任退治記』は公家・僧侶など文化レベルの高い層に読んで聞かせるために書かれており、かつ土岐守護が追放されたのも記憶に新しいことなので特別な注釈が不要だったのです。『明智軍記』は本能寺の変の百年以上もあとに書かれ、しかも一般庶民に販売する目的で出版されたものです。既に土岐守護の存在を直接知る世代はおらず、和歌の素養もない人々に理解させるには解説を付けざるを得ません。この状況は現代も全く同じです。和歌の知識も土岐氏の知識もありません。そのため「時」は「土岐」ではないといった思い込みが起きてしまうわけです。

>その点、やはり明智さんは光秀の子孫という意識
>が強すぎ、自覚のないまま光秀を神格化している
>と言わざるを得ません。
 勝手な決め付けですね。「本能寺の変 431年目の嘘」を主張したいamazon「のぶなが」さんはこのような言辞を弄するのが常套手段のようですが、お止めいただくように勧告します。

>「兼見卿記」についても、最近明らかにされた別本
>と正本の関係をご存知ですか?決して、光秀の
>敗北を受けてわざわざ書き直したものではない
>のです。だからこそ別本は破棄されずに残っている
>訳で、書き換えに必要以上の意味を求める行為は、
>要らぬ妄想を膨らますだけです。
 いよいよ本題が出てきましたね。でも、前のメールに私がこの件について既に書いているのは全く読んでいないのですね。それともおとぼけですか?あなたが准教授のファンか近しい人であることは確かなようですね。この主張を隠して、あれこれ難癖のような理由を探して苦労されたわけですから。前のメールに書いたように「意味のない書き換えがあるからといって、意味のある書き換えがない」という証明にはなりません。二つを見比べれば朝廷や自分と光秀との親密な関係を消す書き換えを行っているのは一目瞭然です。この点については正にamazon「のぶなが」さんの書いた通り「過去の研究と同じ」で多くの研究者の判断と一緒です。私の「要らぬ妄想」ではないのです。

 以上、これまでコメント投稿には対応させていただいてきましたが、Tmさん=amazon「のぶなが」さんの目的が誹謗中傷して「431」の評判を落とすことにあることが確認できましたので、以後のコメント投稿への私の対応義務はないことにいたします。

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