荒川区南千住6丁目
11月1日は
幕末志士 橋本左内 が亡くなった日
橋本左内は 幕末の越前福井藩士
1834(天保5)年3月
福井藩奥外科医の子として生まれる。
1848(嘉永元)年6月
15歳の時「啓発録」を著す。
1854(安政元)年3月
江戸に遊学。
坪井信良、杉田成卿に蘭学を学ぶ。
緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、
藤田東湖や西郷隆盛ら他藩士と
交友を結ぶ。
1857(安政4)年
藩主松平慶永(春嶽)の側近として
藩政改革を行う。
また 松平慶永の意を受け、
一橋慶喜の将軍擁立のため活動を始め
他藩士や幕閣の間を奔走する。
1858(安政5)年
井伊直弼が大老に就任し一橋派を
弾圧する安政の大獄で。
慶永は隠居・閉門、左内内は謹慎。
数度の尋問を受ける。
1859(安政6)年
一藩士が将軍継嗣に
関わったことが問題とされ、
小伝馬町の牢屋敷において斬刑となり、
小塚原回向院へ埋葬される。
25歳の若さであった。
何故 套堂(さやどう)がここに?
説明文に
「橋本左内の墓旧套堂復元と
福井県との交流を記念して
「橋本左内の墓旧套堂」
(区登録有形文化財〔歴史資料〕)は、
もと回向院(南千住5丁目)の
境内入口にあったものです。
平成18年、同院の境内整備の際、
荒川区に寄贈されることになり、
同21年、ここに復元・保存されました。
南千住には、この套堂ばかりではなく、
福井県ゆかりの史跡や
幕末の史跡が多く所在しています。
回向院境内北側に新たに設けられた
史跡エリアには、
福井藩士橋本左内の墓、
小浜藩士梅田雲浜の墓があり、
また、同院内には、
小浜藩医杉田玄白らの
「ターヘルアナトミア」の翻訳と
「解体新書」の刊行を記念して
つくられた観臓記念碑があります。
これらは、地域の人びとにとって
身近なものであり、福井県にとっても
重要な史跡となっています。
多くの方々のご協力を得て、
この地に復元が叶った今、
「橋本左内の墓旧套堂」は
地域の歴史を伝えるモニュメントとして、
また荒川区と福井県との交流の場として、
新たなスタートを切ることになりました。
平成21年3月26日 荒川区 」
説明文の写真
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