あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

千住製絨所跡

2020-12-17 | 散策

 

前回 井上省三で
千住製絨所に触れたが
その工場跡の赤煉瓦塀が残っている。

説明文には

「 荒川区登録有形文化財(歴史資料)

旧千住製絨所(せいじゅうしょ)煉瓦塀

この煉瓦塀は、明治12年(1879)に
創業を開始した官営工場、
千住製絨所の敷地を取り囲んでいた
東側の塀です。
塀の長さは北側 9.9m、南側 8.4mで、
正門の袖柱の一部と、
塀を保護するために設けられた
車止めの一部が残っています。
建設年代は、明治44年(1911)
から大正3年(1914)頃と
推定されます。

千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、
殖産興業、富国強兵政策の一貫として
軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化
のために設けられた施設です。
軍服用絨を製造するだけでなく、
民間工場に技術を伝授する役割も
果たしていました。

初代所長はドイツで毛織物の
技術を学んだ井上省三です。

荒川総合スポーツセンターの
西側に井上省三の胸像が
保存されています。

当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに
建設されましたが、次第に周辺の
田園地帯を取り込んで拡張を重ね、
大正時代には、敷地面積は
3万2406坪になりました。

千住間道を南限とし、
現在の荒川総合スポーツセンター、
南千住野球場、南千住警察署、
都営住宅、都立荒川工業高校、
東京都水道局東部第二支所などが
旧敷地に該当します。

千住製絨所の登場は、
南千住地域に大きな影響を与えました。
明治時代、汐入の二つの
紡績工場(南千住8丁目)、
石浜神社付近のガス会社
(南千住3丁目)など大規模な
工場が進出し、
また隅田川貨物駅なども設置され、
南千住は工業と商業の町へと
変貌していきました。

内務省、農商務省、陸軍省
と所管が代わり、
戦後、昭和24年(1949)には、
大和毛織株式会社に
払い下げられましたが、
同36年(1961)に工場が閉鎖され、
80年余りの羊毛工場の歴史に
幕を閉じました。

構内にあった工場の建物等は
現存していないため、
この煉瓦塀が千住製絨所に
関する数少ない建造物であり、
歴史的価値の高い文化財です。

(枠文は略)

平成22年10月 
   荒川区教育委員会 」

 

当時の風景が説明文にある。


 「千住製絨所正門」
昭和初期ころの千住製絨所正門を撮影。
画面左側が現存する煉瓦塀と考えられる。


「大日本千住製絨裏面之図」
 明治時代 江崎礼二/撮影

創建当初の千住製絨所の北東から撮影。

荷物運搬用として荒川(現隅田川)から
引いた堀があった。


東京真画名所図解「千住ラシャ製造場」
 明治17年から明治22年
 井上安治/画

創建当初の千住製絨所を
南東から描いた。

松原大門の松並木と水辺の
植物ハンノキの奥にある、

水田に囲まれた千住製絨所の様子。

 

 



コメントを投稿