あかない日記

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リトアニア・カウナス 45 杉原千畝 4 ヤド・バシェム賞 

2018-04-14 | バルト三国紀行

 

 


 

 杉原氏は 1947(昭22)年 帰国し、
外務省を追われるように退職し、

その後は 民間会社に勤めるなどし、
ひっそりと余生を送っていた。 

 “チウネ” の名前は外国人にとって
発音しずらいと思い
自らを “センポ” と名乗っていたという。


戦後 そのため難を逃れ、
生き延びたユダヤ人難民たちが、

命の恩人「センポ」さんを、
日本で探し出そうと試みたが、

“センポ”に該当する者はいないと
外務省は回答していたため、

長年見つけ出せなかったという。

しかし1964(昭39)年 イスラエル・宗教大臣
(この人も“命のビザ”の発給を受けていた)により
杉原氏の所在が突き止められて、
1969(昭44)年 イスラエル政府から叙勲を受ける。

さらに 1985(昭60)年 イスラエル政府から
「ヤド・バシェム賞」
(諸国民の中の正義の人賞)が贈られた。

その宛名も “SEMPO” だった。

杉原千畝は 「東洋のシンドラー」と呼ばれるが、
当のシンドラーは ユダヤ人を
自分の商売に使っていたことから、

純粋にユダヤ難民を救済したかどうかわからない。
しかし、結果として 千人以上の人を救っている。

杉原氏の行為は、
人として当たり前のことをしようと
決断していることは
シンドラーとは別の意味で
尊く重い価値ある行為だとの評価もある。

そのシンドラーとは
第二次世界大戦時にナチスドイツによる
ユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が
東欧のドイツ占領地で進む中、
ドイツ人実業家シンドラーが
1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を
自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという
名目で絶滅収容所送りを阻止し、
その命を救った。

その実話が スティーブン・スピルバーグ監督により
映画「シンドラーのリスト」(1993年)が
公開され有名になった。

 

 (写真は、Abs朝日「昭和偉人伝」から)
 


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