あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

エンジニア 百瀬晋六 

2021-01-21 | 人物忌


(BS朝日「昭和偉人伝」から)

 

1月21日は 
 エンジニア 百瀬晋六 がなくなった日

百瀬晋六は  
飛行機屋から自動車屋になって
富士重工業のブランド車
”スバル360”  の生みの親


1919(T8)年 
 長野県塩尻市の造酒家の家に生まれる
 旧制松本高等学校を経て
1939(S14)年
 東京帝国大学
 工学部航空学科入学 原動機を専攻

1942(S17)年 
 中島飛行機入社

 その直後  招集 海軍技術士官として
 海軍航空技術廠に配属

 翌年 中島飛行機に派遣
 偵察機「彩雲」用「誉」
 エンジンの改造に従事

1944(S19)年
 除隊し 中島飛行機に復帰

「彩雲」の試作機が完成した時点で終戦

  終戦後 中島コンツェルンの
  財閥解体に伴い 伊勢崎工場を継承した

  富士自動車工業に転じて
  バスボディ架装設計にあたる

1949(S24)年 
   航空機技術を生かした
  フレームレス構造
  リアエンジンバス「ふじ号」を開発し

 日本のバス設計に大きな影響を与え
 後身の富士重工業が

 その後大手バスボディメーカーとして
 発展する礎を築く


1958(S33)年 
 高度な技術を組み込んだ
 先進的な「スバル360」の市販化を実現

 富士重工の四輪自動車メーカー
   としての地位確立に貢献

 2代目レガシィの歴史的な
   商業的成功を見届けて

1997(H9)年1月21日
  逝去 享年77

2004(H16)年
 日本自動車殿堂入り


百瀬が目標とした軽自動車は
大人4人乗り 悪路でも時速60km

昭和33年3月3日デビューし
売出し価格は
425000円だった。

先輩のスバル360に同乗して
遠方までドライブしたことを
思い起こす。

 

 



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
スバル360 (池 千之助)
2021-01-26 18:29:10
あかない日記さん、こんばんは!

スバル360の生みの親が、
長野県塩尻市出身とは、驚きました。

この「スバル360」と云う車は、
私にとって、生涯忘れられない車になっています。

高一の時、父親の妹分の叔母さんから
「これからは車の時代になるから」と
早目に運転免許を取った方が良いと言われ、
車の運転について何にもわからないまま、
その叔母に連れられて、夏休みになって16歳になったもので、
自動車教習所へ行くことになりました。

当時は、普通免許は18歳からでしたので、
16歳は軽自動車免許が受験出来るとの事でした。

その時の教習車が、このスバル360で、
とても懐かしい車になっています。

でも、教習所では、最初、足元のペダルが
どれがアクセルかブレーキかクラッチか分からず、
教官に脚を蹴っ飛ばされながら教わったもんでした。

また、ギアもローからセカンド、トップへの切り替えなど、
今考えれば、予備知識も何もないまま、
よく通ったものだと思っています。

まだ16歳の青二才でしたので、
教官も「事故を起こさないように……!」と
より厳しく教えてくれたものだと思います。

当時、この軽自動車の免許を取ったお陰で、
18歳になって、普通免許を取る時には、
もの凄く楽になっていました。

また、年月とともに、道交法改正が行なわれて、
今ではこの軽免許が自動大型二輪の免許を持つようになっています。

要は、ハーレーダビットソンも運転出来るのですが、
とても無理な話で、笑っちゃいます。

今回は懐かしい車の紹介で嬉しく
当時の事を思い出しました。
有難うございます。

返信する
池 様 (管理人)
2021-01-29 15:42:15
コメント
ありがとうございます。

「スバル360」が教習所の
教習車であったこと

また16歳で軽自動車 18歳で普通車
の免許を取得されたことも驚きです。

当方も高校時代に原付二種を取得し
普通車は社会人になってからでした。

今年は高齢者講習を受講することになっています。 

年を重ね 免許返上も考える時が
近いもしれません。


返信する

コメントを投稿