goo blog サービス終了のお知らせ 

あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

信州紀行 須坂市42 女工

2019-12-23 | 国内・長野

 

 

写真は 
1911(明治44)年4月24日の
東行社の女工たちの運動会

 

工女たちにとって、
運動会は最大の楽しい行事であった。

運動会といっても遠足にちかいもので
臥竜山を舞台に一日楽しむもであった。

当時の新聞には
「花の下で花の如き、工女の遊山」と
報じている。

こうした女工たちは
県内外から集まっていた。

器械製糸が発展し
製糸工場の規模が大きくなると
それにつれ 職工の数が多く必要になり

各工場主は 地元だけでなく 
募集地域を新潟 
富山 群馬と他県まで広げた。

最盛期には 37の工場に
6,500人を超えるまでになった。

当時の工女の作業時間は 平均13時間
1923(大正12)年の調査で
全国の製糸工場では
最長14時間、平均13時間
最短11時間であった。


また 中には義務教育を
受けてない女子もおり

須坂生糸同業組合では
1919(大正8)年 
義務教育未了者の
教育を行っている。

山丸組では 独自に
「山丸組工女養成所」を設立し
教育と花嫁修業にあたっている。

この当時でも 
“金の卵” 状態での
福利厚生が行われていたようだ。

岡谷地域では
「ああ野麦峠」などの
女工哀史もあったが。

 


信州紀行 須坂市41 旧越家住宅

2019-12-20 | 国内・長野

 

 

春木町にある旧越家住宅へ

 

 

この建物 須坂の近代製糸業の
発展につくし

“製糸王”とも呼ばれた 
越 寿三郎(1864-1932)の本邸。

息子・泰蔵の婚礼に際し、
旧家の建物を購入し
改築したもの。

道路側の大壁造りの
2階屋が旧家部分で、

奥の平屋部分は
1910(明治43)年に増築された。

座敷は 3室続きで、
仕切り障子をはずすと
36畳の広間になる。

冠婚葬祭のほか、
客よびに使われた。


主屋の背後には、
重厚な切妻造りの土蔵が2棟建つ。

須坂でいち早く電話を架設し、
番号が1番であったことから

別名「山丸一番館」とも呼ばれた。

かつて この一帯は、
越寿三郎の創業した山丸組の敷地で、

住宅の南側に 山丸組本店があり、
製糸工場や回遊式の庭園があった。

山丸組は須坂町だけでなく、
現在の さいたま市や
愛知県安城市にも工場を持ち、

最盛期には 8000人の従業員を
擁する国内屈指の製糸企業であった。


1919(大正8)年 
来訪の米国絹業視察団も、
この広間で 歓待されている。

1998(平成10)年 
須坂市が屋敷を譲り受け、

現在 地域のふれあい
学習施設として、
多目的な活用を図っている。


・登録有形文化財(2003H15年)
・経済産業省「近代化産業遺産」
  (2007H19年)」

 


 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市40 宇治乃園茶店

2019-12-19 | 国内・長野

 

 

春木町の角に
御茶屋の老舗「宇治乃園茶店」がある。

典型的な町屋造りのT字型家屋。

                

説明文には

「天保年間、佐藤本家
第8代長左衛門より分家し、
はじめは農業をしていたが、
2代崇蔵の代に
お茶の商売を始めたようで、
明治15年7月、
崇蔵が戸長役場へ届けた
「茶小売営業」の文書がある。



  

また

「建物の多くも当時からのもので、
しっくい大壁造りの3階には、
火災時の構えであったと
いわれる望楼がある。


その下に掲げられた茶店にふさわしい

緑色文字の「御茶所」の看板は覆いで、
これを開くと浮彫の金色文字の
「御茶所」の本看板が現れる。

以前は、えびす講など
人出の多い時に披露した。」

ともある。

 


信州紀行 須坂市39 三街道

2019-12-18 | 国内・長野

 

 

春木町南の交差点脇に
「三街道の分岐点」の碑がある。

三街道とは 

谷街道(北から西へ・先に触れ話題とした)
大笹街道(南へ・鳥居峠を経由して上州に至る街道)
山田道(東へ・万座峠を経て草津に至る街道)

 を指すが

このように須坂宿は

三街道が交差する交通の要衝として

物資の集積場となり商業的にも栄え

須坂藩の藩庁 御殿が設けられた

須坂陣屋の陣屋町としても発展した。

更に 明治から昭和初期にかけては

製糸業により大きく繁栄した。

 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市38 小田切家

2019-12-17 | 国内・長野

 

 

春木町にある「旧小田切家住宅」

 

 

説明文には

「旧小田切家住宅

旧小田切家は 
通称「西糀屋」とも呼ばれ、
糀、油、蚕糸、呉服商などを

営む豪商で幕末まで町年寄りや
須坂藩御用達を勤めていました。

江戸期の建物は 
明治3年の須坂騒動により
そのほとんどが打ち壊されたという。

現在の建物の多くは、
日本で最初の製糸結社である
「東行社」の創立、銀行の
設立や水道の敷設に協力するなど、
須坂の発展に大きく貢献した
小田切辰之助(1839-1904)が
明治時代に建たもので、
ぼたもち石の基礎に
白壁の土蔵等が一体として残っており、
明治から昭和初期にかけての
長野県及び須坂の製糸業繁栄の
歴史を今に伝える
重要な遺産として平成三十年
「長野県宝」に指定されています。」

 

 

 

                       

屋敷内には 
裏川用水の段差を利用した
水車跡が残る水車小屋があるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市37 陣屋稲荷

2019-12-13 | 国内・長野

 

 

常磐町に「陣屋稲荷神社」がある。

 説明文には

「陣屋稲荷
須坂藩の屋敷神として、
藩主 堀公(2代直升、6代直寛、
9代直晧の時の3説あり)が
京都伏見稲荷神社御祭神の
分霊をいただき、
館の戌亥(北西)隅に祀る。

建立時期は、
鳥居前の灯篭に
享和2年(1802年)の記載が
あることから、それ以前と思われる。


今でも社務所の床下には
当時の石垣が残り、
屋根には堀家の家紋である
亀甲卍が入った巴瓦や
鬼面鬼瓦がある。


明治6年常盤町が発足した時、
町の祭神として譲り受けた。」
とある。


この神社の奥は
坂藩主屋敷で足軽屋敷なども
あったことから
「陣屋稲荷」とも
呼ばれているとのこと。

 

 

 


信州紀行 須坂市36 浮世小路

2019-12-12 | 国内・長野

 

 

浮世小路 上中町交差点方面

道幅2m程度の
この小路「浮世小路」という。

生糸の町として栄えた
明治末から大正期にあった花街で

「太鼓橋の向こうは浮世の世界!」
ともいわれ板塀に格子戸のある
料亭、置屋、髪結い、
銭湯があったという。


今は人影も三味線の音色もなく
跡地は駐車場などに代わり
栄えた当時の面影は
全く無くなっている。

 


昭和60年の資料によれば
当時の様子がうかがい知れる。

「“浮世小路”は、中町1丁目、
入口に太光楼があるので、
俗に太光楼小路とも
呼ばれ親しまれてきた。

須坂が生糸の町として
栄華に酔っていた
明治末期から大正期にかけて
形成された花街である。

道幅は車がやっとの2m余り。
夜ごと人々が袖すり交わした。

板塀に格子戸のある料亭や
芸者衆の置屋、髪結い、
銭湯があった。

牧羊、能登源、住吉屋などが
軒を連ねた。
今は料亭「とよ松」だけだが、

見番役の料理組合や稲荷社もあり、
昔日の面影がただよう。
三味線の響く小路である。

生糸に一攫千金を夢みた
生糸の若旦那や番頭衆が、
きれいどころひく
三味線の音に酔いしれ、

端唄に興じたところである。

現在、須坂市の芸者衆は
12~13人だが、
当時は70~80人にのぼったという。


三味線など鳴り物ができる
“お姐さん”は2~3人に減った。・・・」

とある。

 


信州紀行 須坂市35 牛の乳

2019-12-11 | 国内・長野

 

 

館内に「牛の乳」という
鏝絵の看板が展示されている。

市内南原町で酪農を営む
坂本屋(坂田家)の看板として

明治時代後半に南原町の左官職人
関野彦三郎により制作された。

「鏝絵」は 左官が壁を塗る
コテで絵を描いたもので

漆喰装飾の一技法で「左官絵」
「鏝掛け」「蔵飾り」とも言われる。


小さなコテを焼いて
それによって紙または
板を焦がして描く。


焼き絵、鉄筆ともいう。


木で心柱を作り その外側に
荒土や白土にすさ糊を混ぜた

材料で作るのが
こて絵の源流になっている。


漆喰は、貝殻と木炭を
重ねて焼いた灰で作る。 

歴史的には江戸時代以前にも
みられるが 
江戸時代中期から
徐々に盛んになり
伊豆松崎生まれの入江長八
(通称:伊豆の長八1815~1889)が

コテ絵として芸術の域まで昇華させた。

 

以後 この技法が全国の
左官職人の間に広がって

腕のある左官職人たちは
漆喰で家壁に絵や家紋を
描いては技量試しをしたとされる。

 

                       

  こちらは 魚の“鏝絵” 
    「花岡魚店」(劇場通り)

 

 


信州紀行 須坂市34 旧上高井郡役場

2019-12-10 | 国内・長野

 

 

車寄せとテラスがポイントになっている。 

 

常磐町にどっしりと構えた
大正ロマン風の建物がある。

ここ常磐町は 江戸時代には
須坂藩主の館が置かれ 

明治以降も官庁の建物が建設されて 
須坂行政の中心地になっていた。

上高井郡役所は 
1890(明治23)年
「府県制・郡制」の公布により開庁し

その後 1917(大正6)年 
須坂町が土地を提供し、
長野県が建築した。


今は 県内に唯一残る
郡役所の建物になっている。

1926(大正15)年まで
上高井郡役所として使用され、

その後「上高井郡連合事務所」
「長野県経済部出張所」

1942(昭和17)年からは
「上高井地方事務所」として

長野地方事務所に統合に
なってからは
須坂保健所として利用された。


2006(平成18)年 須坂市に譲渡され、
市内に残る貴重な文化遺産として
耐震補強を含む全面改修工事を行った。

2007(平成19)年竣工し、
3月28日須坂市民の交流と
各種歴史資料の収集・展示を
行う施設としてオープンした。


建物は 木造2階建て、
寄棟造り、瓦葺。

上げ下げ窓を持つ洋風建築で、
薄緑色に塗られた外壁は
ドイツ下見という板張りの工法。


正面玄関の車寄せ上には
テラスを備え
その上部には
切妻破風(ペジメント)が
見られるなどバロック様式の
特徴を色濃く伝えている。

 

           

2階多目的ホール
6角形の幾何学模様の天井が印象的

 


信州紀行 須坂市33 鐘楼

2019-12-09 | 国内・長野

 

 

奥田神社脇にある「鐘楼」

 

説明文には 

「時の鐘の「鐘楼」
須坂藩時の鐘は、
第8代藩主堀直郷(ほりなおさと)公が
天明2年(1782)に造り、

第9代藩主堀直皓
(ほりなおてる)公が鋳なおして、

鐘楼を館の北西隅の現在の
浮世小路入口付近に建てたと
伝えられています。

大正初年、鐘楼は現在地に
移されましたが、部材の程度から、
建設当時のものと考えられます。

なお、160年余り時を告げた鐘は、
第二次世界大戦で
供出されてしまいましたが、

平成12年10月に
新たな鐘が寄贈され、
半世紀ぶりに
「時の鐘」は復活しました。」


とある。

昭和50年
須坂市指定有形文化財に指定

 

須坂藩時代に朝夕鐘の音で時を告げ
移転頃までは昼夜2時間毎に
鐘を撞いて時刻を知らせたが、

当時「当てにならない常盤町の鐘」と
揶揄されていたともあったとか。

 

 


信州紀行 須坂市32 奥田神社

2019-12-06 | 国内・長野

 

常磐町に奥田神社がある。

 

説明文には 
 「奥田神社 由緒
祭神は、直重大明神、
直虎大明神の二柱を祭る。


初代須坂藩主堀直重公は、
慶長3年14才、
初めて徳川秀忠に出仕、

同5年、上杉景勝討伐、
従軍の功によって、

下総国香取郡矢作
(千葉県佐原市)に
弐千石を賜る。


慶長15年信州高井郡の内に
加増あって、八千石となる。

慶長19年大阪冬の陣、
元和元年夏の陣に、
いずれも抜群の殊勲あって凱旋、

四千五十石加増されて、
信州須坂13ヶ村

および下総国矢作の地、
総計壱万弐千五十石余を領す。

よって、元和元年8月、
領内初巡視並びに
陣屋築造のため入国、

普願寺に、仮陣屋を設け、
家臣を留めて矢作に帰り、

元和3年6月、
下総国に於いて病歿す。


墓所は、
佐原市香取町新福寺にある。


13代藩主堀直虎公は、
文久元年10月、26才の時、
兄直武の後をうけて封を襲ぐ。

時に、河野、野口等の
権臣跋扈して領内疲弊の極に達す。

茲に於いて家督するや、
大英断を以て、

野口等40余名を追放して、
藩政を改革し、

又、人民の貧苦を救うため、
1年間の納税を免除し、

拝借金全部を惠与するなど、
仁政を施した。

又、直虎公は夙に洋学を志し、
旧来の兵制の恃むに足らぬを察して、

全藩洋式に改め、英式を採用、
甲冑弓槍を売却して、
銃器や洋服を購入した。


慶応3年、32才の若さをもって、
幕府の要職、

若年寄兼外国奉行の要職につき、
藩政に参与された。

時、恰も、幕末に際し、
尊王攘夷開国の世論が沸騰し、
議論定まらず、

騒然たる国情の中にあって、
公は毅然として、
尊皇の大義により、

将軍徳川慶喜に断乎、
恭順の意をすすめたるに、
その議は容れるところとならず、

遂に、公は憤然として、
江戸城に於て自刃し、
その赤誠を表明、

以て、維新開花の礎石と
なられたのである。

時に、慶応4年1月17日のことである。

直虎公の墓は赤坂の種徳寺にあり、
臥竜山に霊廟が建てられている。

文久より慶応年間に
渉った其の治教徳政を歓迎し、

明治13年11月奥田神社を建立した。 
宗教法人奥田神社」 

とある。

ここでちょっと疑問が
須坂藩主は「堀家」だが 
何故「奥田」神社なのか?

答えは 初代藩主堀直重の祖は、
尾張国奥田庄の土豪であったので
明治維新後、14代藩主堀直明は、
本姓の「奥田」に戻した。

これにより堀家を祀る「奥田神社」
となったという。

 

 

 


信州紀行 須坂市31 蝶の民俗館

2019-12-05 | 国内・長野

 

ゲストハウスの隣に民家があるが

説明文には 

「今井家・蝶の民俗館
ゆかしさ漂う店と門構え。

屋敷割の間口七間に五間の
平入総二階の土蔵造りの店。

母屋は曲家風に奥深い、
通路空間の門が店の妻と上隣の
小田切家の妻と組まれている。

須坂の町家は、店屋の脇門を潜って、
改めて母屋の玄関に入る今井家は、
安政生まれの祖父勝治郎氏の代から、
屋号「十一屋」金物店を営み、
昭和18年、企業整備令で閉店。

建物は明治初期のもので、
ケヤキ材が使われ、
今もくるいはない。

現在「蝶の民俗館」として
絶滅に近い珍稀種や
世界の蝶の標本を展示している。」
とある。


この「蝶の民俗館」は 
蝶と人間のかかわりを
長年研究してきた 今井 彰氏が

その研究の成果を
自宅の土蔵で展示している。

収納されている世界の蝶の標本は
1400種類、約3500匹で
常設展示はその10分の1とか。

閉館日でした。

  

 


信州紀行 須坂市30 ゲストハウス

2019-12-04 | 国内・長野

 

 

  築130年の小さな古民家をゲストハウスに

 

須坂にもゲストハウスがあった。

日本のゲストハウスは 
ウキペディアによれば

決まった定義はないが
旅行者のための安価な
宿泊施設をこう呼ぶことが多く

ユースホステルに似た運営形式であり
相部屋が基本となる施設もあり

外国人の利用が多いとされる]

特徴として 4つあげており

  1. 交流スペースが存在
  2. 一泊素泊まり一人から
  3. ドミトリー(相部屋)が存在
  4. トイレとシャワーなど水回りが共有

2020年東京オリンピックの
外国人観光客を見込んで

2015年ごろから 都内を中心に
ゲストハウスが急増している[

ゲストハウスは 低廉な料金で
気軽に泊まれる宿として
利用し易く
また 宿泊者同士や地域の方との
交流が楽しめることから
近年利用者が増えている。

今では 地元の人と旅人をつなぐ
ゲストハウスとして
須坂になくてはならない
存在になっているという。

 

 

 


信州紀行 須坂市29 遠藤酒造場

2019-12-03 | 国内・長野

 

 旧大笹街道(国道406号線)沿い

中央公民館入口交差点脇に

「遠藤酒造場」がある。

 

説明文には

「須坂藩大手門へ続く道の脇
奥付門で物見の建物であった。

また、10代藩主直興夫人寛寿院
12代直武の夫人
寛栄院の居間でもあった。

現在店舗として
使われている長屋門は、
その奥付門と推定されている。

門は切妻作り、
瓦葺き棟の鬼瓦や鎧瓦には、
堀家の家紋の亀甲卍が見られる。

物見門は大扉が観音開き、
錠を止める乳金も立派であったが
昭和35年に取り壊された。

裏川用水を引き込み製糸業を営んだ。
大手通り黒門のあったあたりに
芝石の橋があったが、

道の拡幅のとき取り除かれてしまった。」
とある。

 

この酒店 全国的にも有名で

1864(元治元)年 
創業のこの酒店 
国内外で有名で
国際コンクールW金賞・
全国新酒鑑評会3年連続金賞受賞している。

また 常に約30種類の日本酒を
無料試飲できるそうだ。


当方は下戸でした・・・

 

 

 


信州紀行 須坂市28 ふれあい館・しらふじ

2019-12-02 | 国内・長野

 

 

旧大笹街道(国道406号線)沿い

ぼたもち石積みの重厚な土蔵と
大壁造りの長屋門の建物がある。

 

この館は
「須坂市ふれあい館・しらふじ」

 

説明文には

「この建物は、須坂藩大手西北隅を
固める位置にあり、
藩の要職を務めた浦野家が、
明治初期に新築した家屋敷である。

周囲は築地塀が廻り、
北西隅には「ぼたもち石積み」の
石垣に
土蔵がそびえる。

屋敷内の中仕切りの門は
風流で、客を庭内に招き入れる。

母屋は武家屋敷の洋式を踏襲し、
藩政時代の風情がある。

明治43年、下八町の丸田医師が取得。

重厚な洋風診察室や2階建て病棟を増築し、

昭和の初期まで開業していた。(以下略)」


平成15年 
国の登録有形文化財に登録されている。

 

 敷地内に洋風の棟もあって時代の変遷が分かる。

 


平成14年からは
貴重な歴史的資産として保存するとともに

「ふれあいの館・しらふじ」として
市民のまちづくり活動や交流の施設として活用されている。

 


屋敷内の中仕切りの門には

「白藤園」の額が掲げられている。

奥には 施設名の由来にもなっている
樹齢百年余の古木「しらふじ」が見える。