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あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

信州紀行 軽井沢11 堀辰雄文学記念館2

2020-01-21 | 国内・長野

 

 

堀 辰雄(1904-1953)は

明治37年東京に生まれ
昭和初期に活躍した作家。

大正12年 19歳の時に
師である室生犀星に連れられて
 大正14年には滞在中に
芥川龍之介らとドライブで
 追分を訪れて
静かなこの地が気に入り
 毎年のように
この地を訪れるようになり
自然のなかで構想を練り
軽井沢を舞台とした数々の作品を残し
堀ほど軽井沢に
ゆかりの深い作家はいない。

旧軽井沢の別荘から 
昭和19年 疎開と療養を兼ねて
この追分に定住している。

昭和26年には家を新築し
亡くなるまで1年10ヶ月
療養の日々を送り
昭和28年5月28日
この家で48歳の生涯を閉じた。

1993(平成5)年4月 
堀 辰雄 終焉の地となった場所に
「堀辰雄文学記念館」が開館した。

 

 代表作
 ルウベンスの偽画(1927・S2年)
聖家族  (1930・S5年)
風立ちぬ (1936-1937・S11-12年)
菜穂子  (1941・S16年)
曠野   (1941・S16年)
大和路・信濃路(1943・S18年)

 

 


信州紀行 軽井沢10 堀辰雄文学記念館

2020-01-20 | 国内・長野


油屋の先「堀辰雄文学記念館」がある。

その門だが 
私邸には似つかぬ門だなと思う。

疑問の答は 脇の説明文にあった。

 

明治に入り 追分宿の
衰退については 触れたが
その後
「本陣門の移築
本陣は明治の末期頃、追分宿に近い
御代田町塩野地区の
内堀家表門として移築される。

内堀家では追分宿本陣の
門として大切に扱い、
門に覆屋をかけて約100年間の間、
内堀家の門として役目を果たしてきた。

内堀家においては、
本陣門が軽井沢町の
歴史遺産である事をご理解され、
平成17年に
内堀家(当主の内堀志通彦氏)より
軽井沢町へ寄贈された。」
とあった。

因みに 約1700万円の移築に要した。

 

なお 門の構造は

「材料は全て欅材 一間冠木付き門
・切妻造(桟瓦葺)・妻蟇股
・二軒繁垂木・背面控柱。

  棟札・・維持 天保二 辛卯仲秋二十四日
・大工 越後国 片桐伴と明記され建築年

と大工の棟梁名が分かる。
(追分郷土館に展示)」

 

 


信州紀行 軽井沢9 油屋

2020-01-17 | 国内・長野

 

本陣跡の東隣に「油屋」がある。

 

江戸時代 旅寵は大きなのが
5戸、中17戸、小さいものも多くあり、

脇本陣には甲州屋と油屋があった。

1872(明治5)年の
芸娼妓解放令以降は旅館となり、
堀辰雄・立原道造・室生犀星らに愛された。

特に、堀辰雄の小説「菜穂子」
「ふるさとびと」に登場する
“牡丹屋”という旅館は
この油屋がモデルとなっているという。


しかし 1937(昭和12)年11月
隣家からの失火に煽られ
ほぼ全焼してしまい、

現在の所に再建された。

その昭和12年は 
堀辰雄が「風立ちぬ」を
書き上げた年でもあった。

                         


現在 建物の1階には
ギャラリーやShopがあり

2階が素泊りの宿
『油やSTAY』になっている。

 

当日は休みで
館内には入れなかった。

 

 

近年になり旅館閉業で
解体の危機になったが、

2012(平成24)年 
NPO法人「油やプロジェクト」が発足し

修復・改装して再生した。

「信濃追分文化磁場油や」として
場所を提供している。

 

 


信州紀行 軽井沢8 本陣跡

2020-01-16 | 国内・長野

 

石垣の上に
「中仙道追分宿 旧本陣」
とあるが

現在建物は現存せず 
本陣跡としている。

 

説明文によれば

「追分宿の本陣は
歴代土屋市左衛門を世襲した。

 追分が宿場の機能を持つのは
慶長7年(1602年)中山道の

伝馬制度を徳川家が
整備した以後である。

本陣文書に「定路次駄賃之覚
(慶長7年6月10日)」の
記録があり、

本陣が問屋を兼ね宿継、
伝馬人足の継立ても生業としていた。

本陣の建坪は238坪あり
中山道の宿場中、塩尻宿・上尾宿に

次ぐ大きな宿泊施設を
整えていた本陣である。」とある。

しかし 明治になって
明治11年 明治天皇の

北陸御巡幸により追分本陣が
行在所として使用されるが、

明治26年に信越線が
全線開通すると宿場の機能が
衰退してしまった。


街道に面して
「明治天皇行在所跡」の碑がある。

 

本陣脇の角に
「浅間山道路第一詣石」の
石標が立っている。

北に向かうこの道は 
沓掛宿の西の通称「うま道」と
呼ばれていた草津道と合流している。

 

 


信州紀行 軽井沢7 高札場 

2020-01-15 | 国内・長野

 

 

高札場は、江戸時代、
幕府からの法度、
掟書といった
通達事項を記した
高札を掲げた場所で、

古文書を参考にして 
昭和58年に復元されている。

 

説明文には

 「追分宿高札場

追分宿の高札場は、
問屋前の路中央にあった。

法度、掟書きなどを記した。

また、さらし首、重罪人の
罪状を記し、
高くかかげた板札を 高札という。


寛永10年(1633)の
古文書によると、広さ 9尺、
横一間、高さ三尺の
芝土手を築き、

高札場の柱は
5寸角のものを使用し、
駒よせ柱は 4寸角で、
高さ 6尺の規模であった。

昭和58年、
当時の古文書などから、
高札場を復元した。

ここに掲示してある高札は、
複製品で、現物は
追分宿郷土館に
保管展示されている。」

とある。

また 高札の下に 
通達事項内容のサンプル
「定」と「農商への布告」が
掲示されている。

 

 

 


信州紀行 軽井沢6 泉洞寺 

2020-01-14 | 国内・長野

 

 

 

碑の説明文には 

「浅間山 香華院 泉洞禅寺

宗派は 道元禅師開山の
福井永平寺、宝山禅師開山の
横浜鶴見総持寺を

両大本山とする 曹同宗に属し、
本尊は 聖観音菩薩。

慶長3年(1598)3月、
上州(群馬県長野原町)
常林寺5世心庵宗祥禅師
により開創。

禅師は 三州の人で元は武士、
俗名を 林主人といい、
天正3年(1575)
長篠の戦いに遭遇、

数多くの戦死者を
目のあたりにして
無常心をいだき、
長篠の曹洞宗医王寺にて
剃髪し 出家をさたという。

境内には 当地出身の
女流書家・稲垣黄鶴の
句碑、筆塚があり
他に慈母観音、
牡丹地蔵等がある。

詩人の 立原道造、
作家の 堀辰雄、
後藤明生 等も散策し、
当寺に関わる作品も
数多く残している。」

 

                                                  

泉洞寺は、寺名「仙洞寺」で
あったが江戸時代、
火災に遭遇したことから、

火災等の災難を除けるようにと
祈願して「仙洞寺」から、

水を持って寺を守る様にと
「泉洞寺」と改名している。

                       

境内の裏手には、
ここへよく散策に来ていた
堀辰雄が愛した如意輪観音の
半跏思惟像がある。

頬に手を置いていることから
別名「歯痛止めの仏さま」
とも呼ばれている。

 


信州紀行 軽井沢5 追分公民館

2020-01-10 | 国内・長野

 

 

旧街道の途中に 
現代的な建物がある。

地元住民と別荘会の
寄付により建設された
「追分公民館」である。         

 

 

プレートの説明文には

「平成7年(1995)建築 追分公民館

 立原道造と石本建築事務所の同僚であり、
追分に別荘のあった

武 基雄(1910-2005)が設計した。

町民が立原の卒業設計の芸術家コロニーをもとに
図面を頼んだが、
武は「それは難しい」と言いながら受けてくれた。

立原のレリーフ(加太肇江作)と
玄関の表札(稲垣黄鶴筆)もある。

軽井沢町」

 

 

*立原 道造(1914 - 1939)

東京に生まれ 第一高等学校で
堀辰雄、室生犀星と交流する。

帝国大学工学部建築学科中には
辰野賞を3度受賞している。

石本建築事務所に入所し、
その合間に詩集『萱草に寄す』や
『暁と夕の詩』に

収められたソネット(十四行詩)に
音楽性を託したことで、

近代文学史に名前をとどめることとなる。

しかし 結核のため24歳で夭折した。 

*武基雄は 早稲田大学卒業後、
石本喜久治建築事務所に勤め、

立原道造と同期であった。

                       

稲垣黄鶴(1903-2007)は 
追分宿三浦屋の
子孫「はま」として生まれ

岩田鶴皐に師事して女流書家となって
書道界の重鎮として活躍する。

1985年 軽井沢名誉町民となる。

   

加太肇江
(かぶとちょうこう・1932-)彫刻家

 


信州紀行 軽井沢4 桝形の茶屋

2020-01-09 | 国内・長野

 

  桝形の茶屋

 

分去れ 国道18号との
合流地点にある
「桝形の茶屋」が現存している。

 

説明文には

「史跡追分桝形の茶屋

寛永12年徳川家光の代、
諸大名の参勤交代の
制度が実施され、
ここを往来する諸侯のため、
宿内に問屋、本陣、脇本陣を
設置し、宿の西入口、
この辺に桝形の道と土手
(高さ約2.5m)を
築いて宿愛の警備取締りをした。

今、その面影を見ることは
できないが当時桝形の地域内に
あって茶屋つがるや(桝形の茶屋)
の建築にその昔を
しのぶことができる。」
とある。

 

    つがるやの漆喰看板


信州紀行 軽井沢3 追分宿2

2020-01-08 | 国内・長野

 

 (軽井沢追分宿郷土館
 リーフレットから)

             

 この「浅間山眺望」を見て
小諸馬子唄の歌詞を思い起こすが

江差追分をはじめとする
“追分節”の
発祥の地でもあるという。

♫小諸出てみよ 浅間の山に
 今朝も煙が 三筋立つ                                        

  黒(あお)よ泣くなよ 
   もう家ゃ近い 森の中から
   灯が見える ♪

 

 

 

宿場の長さは
東西5町42間(665m)

今は普通の住宅街の通りに

 

 

宿場の半ばにある「昇進橋」

なかなか縁起の良い名の橋
元は「精進場橋」と言われていたが

追分宿の商業繁栄を願って
「昇進橋」と改名されたという。

また かつては 土橋であったが
平成7年にコンクリートの橋に
付け替えられた。

 

 


信州紀行 軽井沢2 追分宿

2020-01-07 | 国内・長野

 

 

 

軽井沢には 
「軽井沢」「沓掛」「追分」と
三宿あり

追分宿は 中山道69次のうち
江戸から 20番目 40里
約160kmの宿場になる。

参勤交代以降繁栄し
元禄時代には 旅籠屋 71軒
茶屋 18軒、商店 28軒を数え

飯盛女も 最盛期には
200~270人も いたとされる。

 

*飯盛女は
近世日本の宿場に
存在した私娼である。

宿場女郎ともいう。

江戸時代、
娼婦は 江戸の吉原遊廓ほか

為政者が定めた遊廓の中ので
営業が許されていたが

飯盛り女に限っては
「宿場の奉公人」という名目で

半ば 黙認されていた。
      (ウィキペディア)



信州紀行 軽井沢1 追分の分去れ

2020-01-06 | 国内・長野

 

 

左手 追分宿への入口 

 

須坂からの移動途中 
いつも通り過ぎてしまう
軽井沢を訪れてみた。

下調べなしのことなので
ここが ”追分宿の分去れ”
と思ってしまったが
この手前が
実際のところであった。
(下写真)

 

                       

(軽井沢追分宿郷土館資料から)

海野宿(北国街道・東御市)と
和田宿(中山道・長和村)
に向かう分岐点

 

中山道六十九次の20番目の
宿場であり
北国街道との分岐点の
追分宿として栄えた。

 

 

 


信州紀行 須坂市46 笠鉾会館

2019-12-27 | 国内・長野

 

 芝宮から 細い参道の先に 「笠鉾会館」がある。

 

こちらは上中町の笠鉾
明治32~33年頃に
松代町より購入されている。

須坂市の有形民俗文化財にも指定され、
全国でも珍しい2段の
笠鉾11基と屋台4台が
保存展示されている。

会館は 入館無料。


 

                   

 京都文化への憧れから
つくられた、笠鉾 山車が

かつての須坂の繁栄や 
当時の町衆の心意気が伺われる。

 

  

  

現在も 毎年7月21日から
25日にかけて 祇園祭が行われる。

21日の「天王おろし(神輿)」と
「笠鉾行列」によって幕が開け

笠鉾が町の中を巡行し
須坂の夏の風物詩になっている。

           

                     *

ここで 須坂の見学を終える。

立ち寄り的な訪れだったので

全部を見ることができなかったが

歴史的な遺産や話題が多いのに驚く。

また あらためて 訪れてみたい

 

 *********

 

今年最後になります。

1年間 ご訪問いただき

ありがとうございました。

 

皆さまには よきお年を

お迎えいただきますよう。

 

 

 


信州紀行 須坂市45 太鼓橋

2019-12-26 | 国内・長野

 

 

    境内側から

 

鳥居をくぐって
本殿へ向かって

ひょうたん池に架かる
石の太鼓橋がある。


どう見ても簡単には
渡れそうにない。

神様がお渡りになる
道としてあるので

人は渡れないように
なっているのだそうだ。

太鼓橋は全国に数多くあるが
ここまで凄い太鼓橋は
全国でも珍しいそうで、

エッセイストの永六輔さんが
「渡れない橋」として
紹介したこともあるそうだ。

太鼓橋の大きさは
高さ幅とも約3m、
長さ4.36m、
半径1.81mあるという。

 

 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市44 芝宮・墨坂神社

2019-12-25 | 国内・長野

 

 

 説明によると

本殿の主神は
墨坂大神で奈良榛原から
勧請したといわれる。

建御名方命を合祀している。

創立年月は 不明であるが
「延喜式」には
延喜7年(907)の頁に記載あり。

芝宮は、市川が今の
市内の地を乱流していた時、

須田氏が大日方地籍で瀬替えをして、
今のように流れを替え、
荒れていた宮地を
整備したと
いわれる
(「勧進帳」承応元年
(1652)神社神宮 山岸図書太夫)。


代々の藩主に崇敬され
厚く保護され、旧須坂町の中心的神社。


弥栄社のご祭礼は
須坂を代表する夏祭り。


「墨坂」の社名については
社論があるが明治になって

八幡社と共に
両社とも墨坂社・県社となる。


宮前の駅へ通ずる道が
開けたのは大正11年。


その道が更に高橋町に向かって
開かれたのは昭和52年。


このとき、丁字路の
突き当たりにあった

信濃電気(越寿三郎創業・
中部電力の前身)の営業所は
八幡に移転、
跡に記念碑が
建てられている。

 

 


信州紀行 須坂市43 須坂小唄

2019-12-24 | 国内・長野

 

  

「須坂小唄」

1 山の上から チョイと出たお月
 誰を待つのか またれるか
 ヤ カッタカタノタ
     ソリャ カッタカタノタ

2 誰も待たない 待たれもしない
 可愛いお前に 逢いたさに
  ヤ カッタカタノタ
      ソリャ カッタカタノタ

3 可愛い私は 須坂の町に 
 須坂恋しか あのお月
 ヤ カッタカタノタ
     ソリャ カッタカタノタ

4 お月や工場を チョイと来てのぞく
  誰に思いを かけたやら
 ヤ カッタカタノタ
     ソリャ カッタカタノタ

 
 (以下5~9 略) 


説明によれば

「須坂小唄」は、
1923(大正12)年に
市内の製糸会社(山丸組)の工場歌として

作詞:野口雨情 
作曲:中山晋平 によりつくられ 

唄は佐藤千夜子が 
加えて 藤間流の踊りが添えられた。

当時は 製糸業が栄え 
工場から“カッタカッタ”の音が
町内に響き渡り活気に満ちていた。

その後 市民の唄となり 
現在は 盆踊りに唄われている。

なお 囃子の
「カッ タカタノタ  ソリャ 
カッタカタノ タ」は、
糸枠の回る音

須坂の製糸業が
全盛の大正時代には、
工女たちは 須坂全体で
6千人を超えていました。

工女の多くは
寄宿舎生活をしていました。

長い一日の労働が終わると、
上町・仲町などの菓子屋・
小間物屋・下駄屋・呉服店などへ
買い物に出かけ、
工女相手の店として発展しました。

また 東京や横浜から生糸の
買い付け商人が殺到し、
料理屋や芸姑屋が繁盛しました。

 

「須坂小唄」(国会図書館)