goo blog サービス終了のお知らせ 

あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

勝 海舟

2017-01-19 | 人物忌

 

 

1月19日 幕臣・政治家の 
勝 海舟 が亡くなっている。

 1823(文政6)年-1899(明治32)年 享年76歳

 

勝 海舟は 1823(文政6)年
本所(墨田区・両国公園内)で生まれ

1846(弘化4)年に 赤坂田町に引越するまで住んだ。

その間 蘭学を学び 
1850(嘉永3)年に田町で蘭学塾を開く。


その後 ペリー来航により
 幕府が広く意見を求めたことに 

海舟の意見書が取り立てられる。

 


 
幕臣として活躍中 
安政6年に氷川下(港区赤坂)に引っ越している。


この間 咸臨丸でアメリカへ
 渡米中に桜田門外の変が起きている。


1862(文久2)年には
坂本龍馬は 刺殺しようと訪ねてきたが
逆に説得され
即 門下生となってしまった。

慶応4年には 西郷隆盛と
江戸城無血開城の談判をしている。

1868(明治元)年 徳川慶喜に
従って静岡へ移り住み

1872(明治5)年 再び東京に戻った。

明治政府にも重用され
参謀兼海軍卿・元老院議官など務め
伯爵となっている。

 先日 坂本龍馬が暗殺される
5日前の手紙が発見され

その中に「新国家」なる言葉が記されていると
 ニュースになっていたが

 海舟を刺殺しようとした龍馬が
 翻意し 弟子入りしてしまうほど

 海舟の見識が のちの龍馬に影響を与え
 その言葉になったのではと思うが・・・。

 

 

 


大隈重信

2017-01-10 | 人物忌

 

 

1月10日 思想家・政治家・教育者で
早稲田大学の創設者
 大隈重信 が亡くなっている。

  1838(天保9)年―1922(大正11)年 享年78歳

 肥前国佐賀藩の藩士の子として誕生する。
7歳で藩校弘道館に入学するが 教育方針に反発し
のちに 改革運動を起こした。


また 国学 蘭学を熱心に学び
蘭学に関しては 後に教授となり
藩校弘道館で講義したほか

藩校英学塾で英語やアメリカの
文物・思想を学んでいる。


海外の思想・文化・教育に精通し
さらに語学にも堪能であったことから

明治政府が誕生すると外国事務局判事として
対外諸問題を担当したのをきっかけに

1873(明治6)年 参議兼大蔵卿の要職に
就くなど 政府の中枢で活躍した。

しかし 国家構想を巡り 財政上の問題や
閣僚との対立が原因で 
明治14年の政変で下野する。


その後 1882(明治15)年に
政党(立憲改進党)を結成し
また同年に「学門の独立」の精神を基として
東京専門学校(早稲田学校と別称された)を創設する。


1888(明治21)年には 政府の求めに応じて
外務大臣として政界に復帰した。


後に 総理大臣(第8代・第17代)となり
1916年(大正5)年 総理大臣 辞任によって
政治の世界を退いた。

この銅像は 杖をついている姿だが
1889(明治22)年に 暴漢に襲われ
爆発物を投げつけられ 右足を切断した。

 雉子橋邸跡(千代田区役所前の碑)

 


周恩来

2017-01-08 | 人物忌

 

 

1月8日 中華人民共和国の政治家
 周恩来 が亡くなっている。

  (1898-1976年 享年77歳)

中華人民共和国が 建国された1949年以来
死去するまで 一貫して
政務院総理・国務院総理(主首)を務めた。
毛沢東の信任を繋ぎとめ 文化大革命中も
失脚しなかったことなどから
「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。


日本とのかかわりでは 
周恩来が1917(大正6)年 19歳のとき
来日し日本語を学んだ学校が
千代田区の神保町愛全公園内にある。

 日中平和友好条約の締結20周年
ならびに周恩来生誕100周年を記念として
「周恩来ここに学ぶ  東亞高等予備学校跡」の
記念碑が建てられている。

東亜高等予備学校は
日本の学校に進学を希望する
中国人留学生が学んだ私設の学校だった。

また 1972年に 日本国首相の田中角栄(当時)と
日中共同声明に調印したことでも知られている。

 

 


田中角栄

2016-12-17 | 人物忌

 
文京区目白台の田中邸


12月16日は 内閣総理大臣だった
田中角栄が亡くなった日。

1918(大正7)年―1993(平成5)年 享年75歳

 

衆議院議員(16期)郵政大臣(第12代)
大蔵大臣(第67~69代)
通商産業大臣(第33代) 
内閣総理大臣(第64~65代)等を歴任した。

しかし ロッキード事件で逮捕・有罪となった。

このところ 小説「天才」のきっかけで
汚名返上 名誉回復の機運が高まっている。

そんな田中角栄に関することを
都内からピックアップしてみた。

 

 増上寺からみる東京タワー


田中角栄が 1957(昭32)年
岸内閣の郵政大臣になった
当時
「展望台を備えたテレビ塔は
建築基準法の高さ制限に
抵触する。」
として東京都が「待った」をかけ
工事が中断していた。


そこで 田中大臣は 電波行政の采配から
「この塔は 高さ制限に該当する建築物ではない。
煙突や広告塔と同じで工作物として
解釈すればよい。」とした。


その解釈どおりとして 建設がすすめられ

1958(昭和33)年12月23日 
高さ333mの東京タワー
(正式名称:日本電波塔)が誕生した。

このことから 田中は
”東京タワーの生みの親” ともいわれている。

 また 田中角栄の都市伝説として
目白の田中邸から地元新潟県西山町の実家まで
わずか3回曲がるだけで着くというもの。

後日 テレビ局が実証したところ 本当のようだ。

 

 


田中邸に隣接して
「目白台運動公園」があるが

この場所は 田中角栄の遺産相続で
物納した分も含んでいるところ。

   

こちらは 1974(昭和49)年 
雑誌「文芸春秋」に
“田中角栄研究~その金脈と人脈”を
発表した立花隆氏の
文京区にある書庫兼仕事場。
 

この発表は 大きな反響を呼び 
田中首相退陣のきっかけを作ったとされる。

 

 

神楽坂には 田中角栄が
繁く通った芸妓置屋があった。
当時「神楽坂通り」は
”角栄通り”とも呼ばれたとか。

 

 


漱石と悪妻?

2016-12-10 | 人物忌

 

(NHKサイトから)

 



昨日 12月9日は 漱石忌だったが

今年 2016年は 漱石没後100年になるというので
テレビや本など 多くの企画が発表されている。


NHKドラマとして「夏目漱石の妻」を
9月から 4回を観る。
また 植松三十里の「猫と漱石と悪妻」も読んだ。

ともに 妻・鏡子を主人公として
漱石との夫婦生活が描かれており
どうしても 表舞台としての漱石に
スポットライトが 照らされているなか
裏から支える妻側の事情が知れ
五感をもって見聞きし読んだが・・・。

気難しい漱石より 
むしろ 悪妻と言われた鏡子のほうが
大らかで 男勝り 太っ腹な人物で 
二人は 正反対ではなかったかと思う。
それでも ケンカし 支えながらも
波乱万丈の20年余を連れ添っている。

鏡子は 
1963(昭38)年 86歳で亡くなった。

 

 


漱石忌

2016-12-09 | 人物忌

 

 

今日 12月9日は 
文豪 夏目漱石 が亡くなった「漱石忌」

 没後100年になる。

1867(慶應3) - 1916(大正5)年 享年49歳

墓は 都立雑司ヶ谷霊園(豊島区)に
戒名は「文献院古道漱石居士」

 終焉の地 新宿区早稲田南町には
1907(明治40)年から亡くなるまで

「漱石山房」として過ごした。
現在は「新宿区立漱石公園」になっている。

 この地で「三四郎」「それから」「こころ」
といった代表作が生まれている。

 また 芥川龍之介は 漱石との回想を 
短編小説「漱石山房の冬」
(1923・大12年)として綴っている。

 


2017(平成29)年は 
漱石生誕150周年に当たることから
現在 新宿区は「漱石山房記念館」(仮称)の
整備を進めている

 

 

 


松尾 芭蕉

2016-11-28 | 人物忌

 

            隅田川と小名木川に隣接する
「芭蕉庵史跡展望園」に座す芭蕉像

 

今日 11月28日は 
江戸時代前期の俳人 松尾芭蕉 が亡くなった日。

1644(寛永21)年―1694(元禄7) 享年51歳

俳諧の芸術性を極め高い句風を確立し 
後世には「俳聖」として

史上最高の俳諧師の一人であり
 世界的にも知られる。

 

    芭蕉稲荷神社(江東区常盤1)

 1917(大正6)年 地元の人たちにより祀られた。

この辺りに 芭蕉の住んだ芭蕉庵があったとされている。

庵の土地は 芭蕉の門人である杉山杉風の所有地で

1680(延宝8)年に移り住んでから
1694(元禄7)年まで ここを本拠地として活躍した。


弟子の河合曾良を伴い 
ここから旅たち 東北 北陸を巡り
岐阜の大垣まで旅した

紀行文「奥の細道」はあまりにも有名。

  

境内には 芭蕉庵跡の碑や芭蕉の句碑が立つ。

小名木川にかかる「萬年橋」脇 

 

 


樋口 一葉

2016-11-23 | 人物忌

 

 

今日 11月23日 

小説家・歌人として明治期に活躍した

樋口一葉 が亡くなった日。

1872~1896年 結核のため 享年24歳

その終焉の地は 

文京区西方(旧・丸山福山町)白山通り沿いにある。

 1894(明27)年 10カ月住んだ

台東区(旧・下谷区竜泉)を

引き上げ この地に移っている。

うなぎ屋の離れで 6畳2間と4畳半の3間

庭には がけの湧水で 造られた池があったという。


ここの隣り合わせの銘酒屋の女性をモデルに

名作『にごりえ』が 生まれた。

また 『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』
『十三夜』など 代表作が数々ある。


石碑には “池の上の家” があったことがわかる。

なお 碑は 平塚らいてう の筆による。

 


徳川 慶喜

2016-11-22 | 人物忌

 

                 



今日 11月22日 江戸幕府・最後の将軍

 徳川 慶喜 が亡くなっている。

1837(天保8)年―1913(大2)年 享年76歳

終焉の地は 文京区春日にあり
  現在は 国際仏教学大学院大学の敷地になっており
大銀杏が その名残として残されている。

慶喜は 水戸徳川藩主斉昭の七男として
小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。


一橋家の家督を継ぎ
1866(慶応)2年 第15代将軍に就任する。


翌年 大政を奉還したが 
鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後
恭順の意を表し 水戸にて謹慎の後 駿府に隠棲した。


1897(明30)年 東京に戻り
1901(明34)年 この地に移り住んだ。


慶喜は のちに公爵 勲一等旭日大綬章を授けられ
 1913(大2)年 急性肺炎のため この地で没した。

 

 墓地は 1968年(昭和43)年 
明治100年を記念して整備された。

  

左の円墳が慶喜の墓 右は妻・美賀子の墳墓

歴代の将軍は 港区芝の増上寺か
寛永寺に埋葬されているが 

慶喜は 上野谷中霊園に埋葬されている。

これには 訳があって 
謹慎生活後 明治天皇から
華族の最高位である公爵を授かり

明治天皇に感謝の意を表すため
自分の葬儀を仏式でなく
神式で行うよう 遺言を残したため

一般皇族と同じような円墳が建てられたという。

 


徳田 秋声

2016-11-18 | 人物忌

 

 
今日 11月18日 
小説家 徳田秋声が亡くなっている。

 1872(明4)─1943(昭18)年 享年71歳

泉鏡花 室生犀星と金沢の三文豪のひとり
徳田秋聲(1871~1943)は
尾崎紅葉の門下を経て 
田山花袋 島崎藤村らとともに明治末期
日本の自然主義文学における
代表的作家として文壇に名乗りを上げた。


その後 明治・大正・昭和と三代にわたり
常に文壇の第一線で活躍した。

作品「縮図」は 
川端康成から「小説の名人」と称賛され
技巧の高さとともに
つねに弱者への視点を忘れぬ
庶民の生活に密着した作風を特徴としている。


私生活では その分け隔てのない人柄が
多くの文壇人に愛されたほか
映画やダンスをも好んだという。

  主な作品に
「新所帯」「足跡」「黴(かび)」「爛(ただれ)」
「仮装人物」「あらくれ」「縮図」

 

 文京区内に通算40年間住み
亡くなった旧宅には38年間も住み続けた。

「生きのびて又夏草の目に沁みる」秋声 

 

 

 


弘田 龍太郎

2016-11-17 | 人物忌


 

  台東区谷中「全生庵」に眠る。

今日 11月17日 
作曲家 弘田龍太郎 が亡くなっている。
 
1892(明25)- 1952(昭27)年 享年60歳

 高知県安芸市土居に生まれた。
父は 教育者で 高知県議会議長を務めた弘田正郎。
母 総野(房)は一絃琴の名手で 龍太郎の音楽的才能は
母から受け継がれたものと いわれている。


1910(明43)年東京音楽学校(現・東京芸術大学)に
入学し 本居長世に師事。

1914(大3)年 卒業と同時に母校の助手を勤めたが
1917(大6)年 作曲部が新設され再入学
修了後は 同校講師 助教授となる。

本格的な作曲活動は この頃から始まる。

宮城道雄を中心とした新日本音楽運動にも参加し
琴・三味線を主体とした当時の舞踊界に
洋風の伴奏を取り入れた。


その後 北原白秋を中心とした
童謡運動「赤い鳥運動」にも参加する。

「春よ来い」「叱られて」などの名曲を次々と発表し
童謡・歌手作家としての地位を確立した。
晩年は 幼児教育に携わり
放送や講習会 リズム遊びの指導にあたった。

 作曲の中には 今でも我々が
口ずさむことができるものが多い。

 「靴が鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」
「お山のお猿」「叱られて」「春よこい」「金魚の昼寝」

 他に 歌曲「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」
「千曲川旅情のうた」

その他 オペラ 仏教音楽 映画音楽 などもある。

 

 


渋沢栄一と教育

2016-11-13 | 人物忌

渋沢栄一は 教育にも力を入れている。

 

商法講習所跡(銀座松坂屋付近)


森有礼と共に
「商法講習所」(現・一橋大学)の
設立携わる。

 

 
1900(明33)年 大倉喜八郎と
 赤坂葵町 (現在のホテルオークラ隣接地)に

「大倉商業学校」
(現・東京経済大学)の設立に協力。



 
1919(大正8)年 「二松学舎
(現・二松学舎大学・千代田区) の
第3代舎長に就任した。


さらに「学校法人国士館」
(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり

井上馨に乞われ
「同志社大学」(創立者・新島襄)への
寄付金の取り纏めに関わった。


また 男尊女卑の影響が残っていた
女子の教育の必要性を考え

伊藤博文 勝海舟らと共に
「女子教育奨励会」を設立している。

 

 衆議院議長公邸(千代田区・永田町)の
石垣に埋められているプレート


1889(明22)年 
伊藤博文 岩崎弥之助らとともに

女子教育のため「東京女学館」を創立した

 

また 医療にも貢献している。
1874(明7)年から養育院
(現・東京都老人医療センター・板橋区)の運営に関与し

1876(明9)年に養育院事務長に任命されたが
1890(明23)年養育院は東京市営となり 院長に就任した。
以来亡くなるまで約50年間院長を続けている。

 

 


渋沢 栄一

2016-11-11 | 人物忌

  

 

 

11月11日は 渋沢栄一が亡くなった日

1840(天保11)~1931(昭6)年 享年91歳

 江戸幕末から大正初期にかけての日本の武士 官僚 実業家

第一国立銀行 や 東京証券取引所

東京ガス 帝国ホテル キリンビールなどの多種多様な

企業の設立・経営にかかわり

「日本資本主義の父」とも言われた。

その銅像が 中央区日本橋 日本橋川沿いの

常盤橋公園に建つ(朝倉文夫作)。

 

埼玉県深谷市血洗島に生まれ 22歳で江戸へ出て
お玉ヶ池にあった玄武館で剣術修行をして
その後 一橋家の用人となり 慶喜の家臣となる。

一橋家の家政の改善などに実力を発揮し
次第に認められていく。

27歳の時 15代将軍となった徳川慶喜の実弟・
後の水戸藩主・徳川昭武に随行し
パリの万国博覧会を見学するほか
欧州諸国の実情を見聞し 
先進諸国の社会の内情に 広く通ずることになる。

明治維新となったあと「商法会所」を静岡に設立
その後 明治政府に招かれ
大蔵省の一員として 新しい国づくりに深く関わった。

1873(明6)年 大蔵省を辞した後は
一民間経済人として 第一国立銀行を拠点に
株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れた。

また「道徳経済合一説」を説き続け
生涯に約500もの企業に関わったといわれている。

 


滝沢 馬琴

2016-11-06 | 人物忌

 

                                         生誕の地 江東区・深川

11月6日 江戸時代後期に活躍した
戯作者 滝沢馬琴(曲亭馬琴)が亡くなっている。

1767(明和4)~1848(寛永元)年 享年82歳

馬琴の作品数は 200数十種にも及ぶが 
中でも「南総里見八犬伝」は
全98巻106冊の長編である。

馬琴は晩年失明するが 
長男の妻に文字を教えながらの

口述筆記により八犬伝を完成したという。

 

説明板の下には「南総里見八犬伝」を
積み上げた形のモニュメントも見える。

 

 
 こちらは 1793(寛政5)年 
27歳で 当時飯田町中坂と呼ばれた地(千代田区)
の履物商伊勢屋に婿入りし
58歳で神田同朋町に移るまで
ここに住んでいた邸宅跡には
 都指定の井戸が残る。

 

 

 


幸田 文

2016-10-31 | 人物忌

 

 

10月31日 随筆家・小説家の 

幸田 文 が亡くなっている。
(1904(明37)─1990(平2)年)

 明治の文豪 幸田露伴 の次女で 

父 露伴 を看取ったのちに

40代で 遅咲きの文壇デビューしている。

  主な作品は

「終焉」「さヾなみの日記」「流れる」「闘」と

「おとうと」は 何回か映画にもなっている。


露伴と住んだ文京区・表町
善光寺坂の途中に
旧居(蝸牛庵)現 青木邸がある。

 因みに 幸田文の一人娘 

青木玉1929╶)
祖父幸田露伴 母文と三人で暮した
十年余を「小石川の家」として刊行し 

「二階の祖父の書斎に座れば
まるで木の枝の上に居るような感じで

廊下のガラス戸を開ければ
枝先がさわれそうだ。」

と綴っている。

 また 本の表紙にはこのムクノキが描かれている。
(安藤光雄画)

 

  椋木の右側 白壁が幸田邸