棋譜をパソコンに入力していると、いろいろ面白いことに出会います。
いや、面白くもなんとも無いことなんでしょうが、勝手な想像を膨らませて勝手に楽しんでいるのです。
例えば「御城碁」でありえないことが起きたら・・・
御城碁といえば江戸城の中の黒書院での年に一度の公式戦ですが、実際は少し違うようですね。
頭を丸めて僧の形をしますが、これには意味が二つあるらしい・・・
一つは囲碁の「本家」みたいな本因坊は信長・秀吉・家康と仕えた寂光時のお坊様だから囲碁4家は僧の家業?みたいということと、もう一つは僧体ならば身分を問われないので何処にでも出入りできる方便みたいなものらしい
ですから当時の高段者は御城碁に参加するためにも頭を丸めるのが必須条件だったのですが、太田雄三だけは頑として髷を切らなかった・・・したがって彼は公式戦みたいな御城碁には不参加
(囲碁の4家にはそれぞれ外家という番頭さんの家があったといいます。4家は本因坊・井上・安井・林で阪口・服部などが外家にあたります。外家もお城碁に参加しているから、きっと外家も坊主頭だったのでしょうね)
この話もなかなか面白いですね、雄三の気持ちがよく分かります
私なども、小学校から中学に上がる時「校則」とやらで、坊主頭を強制された
坊主が嫌で嫌で、春休みの間一日伸ばしにしていたのですが、、、入学式の前日に泣く泣く床屋に行った思い出があります
今にして思うと何で”理不尽”な要求に対して徹底抗戦しなかったのか、不思議と言うより悔しい感じですね
まあ、このくらいの思い出話を自分で楽しんでいるうちはまともですが
想像は飛躍していきます・・・
御城碁のことです
これは江戸城の黒書院で並べますが、文字通り並べるわけです
将軍の気まぐれで覗きに来るかも知れない行事です
実際には事前に組み合わせ・手合いが決まっていて寺社奉行の役宅で打ってありますから、当日はその通りに並べるだけです。
でもしかし、もしも下打ちの内容・結果が納得行かなくて、当日にその通りに並べるは嫌でもやらなくてはいけない辛い作業だったでしょうね
一局で二度負けるみたいな
寺社奉行邸にはお供と言うか介添え人を連れて行ったと思いますが、2人くらいだろうか・・・道知のエピソードで「形勢の悪い碁を粘って逆転」がありますが、、、、途中までの碁を本因坊家に伝えて云々とありますから連絡係がいたみたいですね、、、それに「本因坊家では棋譜を見て、もう無理な粘りは・・・」というくだりがありますから途中までの棋譜も伝わっている
ということは、今の番碁のタイトル戦みたいに控えの間みたいなところに着手が伝えられるシステムがあったのでしょうね
ところで先日「於 辻川」と言う記述について話しましたが、また「辻川」に出会いました。
この棋譜は寛政5年4月8日とあるが、その日には終わらずに水野体翁打ち掛けとあり、5月8日同所打ち掛け、更に6月5日辻野八次郎宅打ち継ぐとある
結果持碁ですから両者相当な長考の応酬だったのでしょう
手数は259手ですから長手数で時間がかかったのでは無いらしい
サテこれが酒井石見守七回忌追善供養というのだから・・・
サラサラと打って、故人を偲ぶという形にはならなかったようですね
これが碁打ちの本性というか、「追善供養」とは言いながら両者盤上に没入していたのでしょう・・・まさにこっちの方が本当の供養ですね
それにしても施主としては、場所を貸して飲食などの接待も必要でしたでしょう・・・マア、おそらくスポンサーは大名でしょうからイイカ
ところで3日目の「辻川八次郎」ですが、多分前に他の対局で「於 辻川」とあった同じ辻川さんでしょう。
記述からして・・・大名の屋敷ですとおそらく「殿」がついて、旗本とか奉行の役宅などですと「邸」がつくと思われるから、名前の前に何も付いていないところに注目
この記述は「宅」ですし、前の記述にはそれも無かった・・・と言うことは
囲碁界の関係者からある程度無理が利く人・例えば裕福な門人みたいな感じでしょうか?
でも大事な贔屓筋だったら何かしら敬称は付きそうだから門人筋だろうか
再度ネットで検索しましたがやはり「辻川」は不明
地名ででてくるところは関西ですから対局場ではないし
「辻川八次郎」氏は不明
検索でヒットする十数人の現代の辻川さんは当然関係ないだろうし、企業でもなし・・・
さてさて盤上の変化は現代プロ棋士の解説を読んでもなかなか理解し切れませんが、その分空想の世界で遊んでいます
いや、面白くもなんとも無いことなんでしょうが、勝手な想像を膨らませて勝手に楽しんでいるのです。
例えば「御城碁」でありえないことが起きたら・・・
御城碁といえば江戸城の中の黒書院での年に一度の公式戦ですが、実際は少し違うようですね。
頭を丸めて僧の形をしますが、これには意味が二つあるらしい・・・
一つは囲碁の「本家」みたいな本因坊は信長・秀吉・家康と仕えた寂光時のお坊様だから囲碁4家は僧の家業?みたいということと、もう一つは僧体ならば身分を問われないので何処にでも出入りできる方便みたいなものらしい
ですから当時の高段者は御城碁に参加するためにも頭を丸めるのが必須条件だったのですが、太田雄三だけは頑として髷を切らなかった・・・したがって彼は公式戦みたいな御城碁には不参加
(囲碁の4家にはそれぞれ外家という番頭さんの家があったといいます。4家は本因坊・井上・安井・林で阪口・服部などが外家にあたります。外家もお城碁に参加しているから、きっと外家も坊主頭だったのでしょうね)
この話もなかなか面白いですね、雄三の気持ちがよく分かります
私なども、小学校から中学に上がる時「校則」とやらで、坊主頭を強制された
坊主が嫌で嫌で、春休みの間一日伸ばしにしていたのですが、、、入学式の前日に泣く泣く床屋に行った思い出があります
今にして思うと何で”理不尽”な要求に対して徹底抗戦しなかったのか、不思議と言うより悔しい感じですね
まあ、このくらいの思い出話を自分で楽しんでいるうちはまともですが
想像は飛躍していきます・・・
御城碁のことです
これは江戸城の黒書院で並べますが、文字通り並べるわけです
将軍の気まぐれで覗きに来るかも知れない行事です
実際には事前に組み合わせ・手合いが決まっていて寺社奉行の役宅で打ってありますから、当日はその通りに並べるだけです。
でもしかし、もしも下打ちの内容・結果が納得行かなくて、当日にその通りに並べるは嫌でもやらなくてはいけない辛い作業だったでしょうね
一局で二度負けるみたいな
寺社奉行邸にはお供と言うか介添え人を連れて行ったと思いますが、2人くらいだろうか・・・道知のエピソードで「形勢の悪い碁を粘って逆転」がありますが、、、、途中までの碁を本因坊家に伝えて云々とありますから連絡係がいたみたいですね、、、それに「本因坊家では棋譜を見て、もう無理な粘りは・・・」というくだりがありますから途中までの棋譜も伝わっている
ということは、今の番碁のタイトル戦みたいに控えの間みたいなところに着手が伝えられるシステムがあったのでしょうね
ところで先日「於 辻川」と言う記述について話しましたが、また「辻川」に出会いました。
この棋譜は寛政5年4月8日とあるが、その日には終わらずに水野体翁打ち掛けとあり、5月8日同所打ち掛け、更に6月5日辻野八次郎宅打ち継ぐとある
結果持碁ですから両者相当な長考の応酬だったのでしょう
手数は259手ですから長手数で時間がかかったのでは無いらしい
サテこれが酒井石見守七回忌追善供養というのだから・・・
サラサラと打って、故人を偲ぶという形にはならなかったようですね
これが碁打ちの本性というか、「追善供養」とは言いながら両者盤上に没入していたのでしょう・・・まさにこっちの方が本当の供養ですね
それにしても施主としては、場所を貸して飲食などの接待も必要でしたでしょう・・・マア、おそらくスポンサーは大名でしょうからイイカ
ところで3日目の「辻川八次郎」ですが、多分前に他の対局で「於 辻川」とあった同じ辻川さんでしょう。
記述からして・・・大名の屋敷ですとおそらく「殿」がついて、旗本とか奉行の役宅などですと「邸」がつくと思われるから、名前の前に何も付いていないところに注目
この記述は「宅」ですし、前の記述にはそれも無かった・・・と言うことは
囲碁界の関係者からある程度無理が利く人・例えば裕福な門人みたいな感じでしょうか?
でも大事な贔屓筋だったら何かしら敬称は付きそうだから門人筋だろうか
再度ネットで検索しましたがやはり「辻川」は不明
地名ででてくるところは関西ですから対局場ではないし
「辻川八次郎」氏は不明
検索でヒットする十数人の現代の辻川さんは当然関係ないだろうし、企業でもなし・・・
さてさて盤上の変化は現代プロ棋士の解説を読んでもなかなか理解し切れませんが、その分空想の世界で遊んでいます