たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

秋のプリンス・エドワード島への旅_5日目

2014年03月15日 15時28分01秒 | プリンスエドワード島への旅



2012年10月17日(水)キングス地区

ようやく晴れ。起きた時は体がおもかったが、青空に気分があがってくる。
9時過ぎ、日本人ガイドのHさんとドライバーはRさんに変わっている。
昨日よりも気温は低いそうだ。
着込み方がちょっと足りなかったかな。

2号線をひた走って、エルマイラ、そしてイースト・ポイントを目指す。

2号線は島を横断している高速道路、といってものどかだ。
車窓の紅葉の色あざやかさと、どんどん流れて移ろい行く雲に感激しっぱなしだ。
だって、すごくきれいだ。穏やかな景色と雲をみて喜んでいるなんて、人によっては
すごく退屈なのに笑っちゃうなあ、とガイドさんと笑いあう。
そういう人でよかったとガイドさんも楽しんでいるようだ。

セント・ピーターズ村のガソリンスタンドでトイレ休憩。色々な日用品やパン、お菓子、手作りクッキーなど売っていてゼネラルストアのようだ。(写真家の)吉村さんおすすめの場所のひとつ。写真でみたような白い教会をいくつもみかけた。実にきれいだ。

グリニッジ国立公園へ。
風が吹きすさんですごく寒い。
全てCloseで誰もいない中、トレイルを少し歩いてみる。
ラズベリーの実がなっている。お花も咲いている。
こんなに寒いのに。空が高くってきれいだ。
ベリーやお花の写真をいっぱい撮った。
10月なのに、こんなに寒いのに、不思議でたまらない。
楽しくってたまらない。

セント・ピーターズ村に戻って、再びガソリンスタンドでトイレを借りる。
リンゴ2個とパンを買う。
ここから先トイレもしばらく行けない。

16号線、北海岸沿いの一番淋しい所をひた走る。北の海の厳しさを感じさせる色合いだ。
雲は遠く遠く流れている。
くもったり陽がさしこんだり、なんとも不思議だ。

エルマイラ駅舎あと。残念ながらClose。『赤毛のアン』の映画で、アンがマシューを待つブライト・リバー駅はここをモデルにしている。こんな所で待っていたんだなあと思うと、空想の中のことではあるが感慨深い。

お花(ハマナス)が咲いている。ハロウインパーティの準備も進んでいるようで、なんとも楽しい。大人が楽しんでいるそうだ。
風は芯から冷たい。
さらに北、イースト・ポイントへ。
海の色はきびしく、北の果て、北海道の稚内に来たようだ気分だ。
こんな寒い時に物好きなお仲間のおじちゃん、おばちゃんがいた。
(お互いにハーイ、っていう感じだった。)

水平線遠く彼方、何層もの色合い、すごくきれいだ。



車の中から撮っているのでぶれぶれですが、2号線、車窓からの景色です。


 ↓







16号線の北海岸の景色です。

 ↓




上の写真とこちらは、グリニッジ国立公園のラズベリーです。



*********

5日目はまだ続きます。


そろそろ

2014年03月15日 14時53分25秒 | 日記
ブログや手帳の記録を読み返してみると、わたし窒息しそうになりながらも、生活があるので
一生懸命がんばってきたんだなあと思います。

詳しくは書けませんが、非正規という雇用形態の中で、ずっとここにいたいかときかれるとそうでもない、わからない、でも生活があるし、次にどこに行けばいいのかがわからないので今すぐには動けない。長くいればいるだけ、周囲もわたし自身もいつしかそこにわたしのいることが当たり前のようになってしまい、根っこが生えてしまってなかなか抜けだせなくなってしまっていた。かといって正規雇用への転換が向こうからくるわけでもなく、上司は2-3年ごとに変わっていく中で、わたしが何をやっているのか、ちゃんとわかっている人はいなかった。オーバーワークの時期も見過ごされたまま、お互いにずるずるときてしまった。わたし自身、息苦しさを感じつつも、どたばたときてしまった。震災のあとは組織替えにうんざりしてぐらぐらになっていたのに、目の前の生活があるので、自分をだましだまし、やり続けてしまった。がんばってしまった。非正規の雇用形態がそれを可能にしてしまった。色んな意味で中途半端だった状態が今回のことになったと思う。こういう時は来るべくしてきた。ただ手順は間違っている。ここを確認するためのに行政の仕組みはあまりにも弱過ぎることがわかって愕然としている。すかすか、弱い立場の者は守られていないことがいやというほどわかった。でもまだ手立てはあるのでもう少しふんばってみる。泣き寝入りしている人がたくさんいるのが現状だそうだ。少しでも声をあげていきたい。ふらふら、中途半端な自分と向き合わなければならないのできついがあとひとふんばり・・・。


根っこを生やしてしまった所からの転換は簡単ではない。
まずは精算。その後でどうすればいいのかはわからない。
考え込み始めるとぐるぐると空回りするばかりで、ぬけだせなくなってしまいそうだ。

呑気なのかもしれないが、がんばりすぎてしまったので、いろんな意味で棚卸をまずしたい。
いろんなものがグチャグチャ状態。
少し風通しをよくした先にみえてくるものがあると、今は信じることにしようと思う。



しとしと雨

2014年03月13日 11時26分35秒 | 日記
詳しく書くことはできませんが、弱い立場の人を守る仕組みになっていないことを
思い知らされています。
理不尽な流れが通ろうとしています。
どうして通ってしまうのか、理解することができません。
間違っていることを、間違っていると主張できないのはなぜなんでしょう。
わたしにはわからない。

昨夜、ある自死遺族の会に短い時間ですが、参加させていただきました。
本当にいろんな方がいて、わたしにははかり知れないような苦しみを背負っている方もいて、
それでも人は生きて行くんだなと思いました。

わたしの2011年3月11日(2)

2014年03月12日 11時19分46秒 | 東日本大震災
昨日ブログに書きながら、3年前のことがあらためてまざまざと蘇ってきました。

最初に大きな揺れがきて、その後どれぐらいの間隔だったのか思い出せませんが、さらに大きく揺れ始めました。その揺れはしばらく続いたと思います。これはもうダメなのではないか、
一瞬そんな思いが頭の中をよぎった恐怖心を今も体がおぼえています。
(今一方的に切られようとしている)職場の建物の8階で震えあがっていました。
わたしの机は整理が悪くて書類であふれかえっていたのですが、全部落ちました。
キングファイルが並んでいる棚から、ばたばたと音をたててあっという間にファイルが全部落ちました。

いったん大きな揺れがおさまった時、職場の人たちと建物の外に出ました。
風の冷たい中、すぐ前にあるバス停の屋根の下で、続く揺れに震えあがっていました。
他のビルからも人がたくさん外に出ていました。
大通りを挟んだ向かい側に免震構造でしょうか、今にもバタンと倒れそうなほど揺れているビルがあって、恐ろしくてたまりませんでした。悲鳴を上げている人もいました。

1時間ほど外にいたでしょうか。
テレビがないので、16時過ぎぐらいだったと思いますが、インターネットで、最初の津波が
岩手県の海岸に襲いかかってくる映像をみました。
ワンセグテレビを持っている人がいて、宮城県仙台市の若林区で刻々とご遺体がみつかっている状況を教えてくれました。
でも東北がなにが起きたのか、その時はまだよくわかっていませんでした。

電車が止まって帰宅をあきらめた人たちと一緒に近くの中華料理屋さんに行きました。
外に出るとすでに大通りは歩き始めた人たちであふれかえっていました。
銀行のATMも使えるのではないかと言う人がいたので焦ってお金を引き出しに行きました。
日本沈没が現実のものになるのではないか、そんな会話を食事の席でしました。
本当に何が起こったのかわからず、不安と恐怖心でいっぱいでした。

建物に戻ってから、段ボールを引いたりして横になる方もいましたがわたしはできませんでした。
停電にならなかったので一晩中も暖房はついていたし、お手洗いも使えました。
わたしは受け取りませんでしたが、備蓄の水が入口で配布されていました。

眠れないまま一晩中、8階から大通りを見おろしていました。
大通りは歩く人々と身動きできなくなったバスや宅配便の車などであふれかえっていました。
午前2時ごろまで渋滞と人の波は続いていました。

わたしはインターネットをずっとみていて頭がクラクラしてきた3時頃、
しばらく目をつぶって眠れなくても机にもたれかかってじっと坐って休んでいました。
電車が動き始めていましたが、明るくなるのを待ち、同じ方面のおじさま二人に一緒に帰ってくれるよう頼み、3人で5時ぐらいだったと思いますが職場を出ました。
一人では心細くてどうしようもありませんでした。
電車の中でも緊急地震速報が出て携帯が一斉に鳴り、震えあがっていました。
無事に最寄り駅についた時の安ど感、
住宅街は何事もなかったかのようにしんとしていました。
7時頃、自分の部屋に辿り着いたとき、停電した形跡がありましたが、思ったほど物は散らばっていませんでした。
あとで整骨院の人などに話をきくと、一晩中停電していて単身者の住んでいるマンションやアパートが多いので大変なことになっていたそうです。

このあと計画停電もあり、近くに知る人がいない心細さ、会社に行っている日中で普段買い物をしているお店は閉まってしまうので本当に食べる物が買えなくなるのではないかという恐怖心と不安、仕事は年度の切り替えで忙しかったし、どうにかなってしまいそうでした。押しつぶされそうでした。

直接被害を受けなかった地域の者ですらこうなのだから、東北の方々はどれほど大変だったか、想像の域を超えています。そして原発事故です。避難命令が出るとしたら自分は何をもって、何をあきらめて逃げるのだろう、考えてしまいました。
これ以来、物を減らしていく努力を続けています。
懐中電灯、携帯用トイレ、防寒シート、携帯ラジオ、ペットボトルを持たないと都心に行く電車に乗ることができなくなりました。

いつ来るかわからない次なる災害に備えてわたしたちは準備できているのだろうか。
原発をどうしていくんだろう。日本はこれからどこに向かっていくんだろう。
目先の行きあたりばったりなことはやめて、みんなであらためて考えていくことはできないものかと思います。

わたしの2011年3月11日

2014年03月11日 15時06分56秒 | 東日本大震災
手帳の記録からそのまま書いていきます。

3月11日(金) 
14時46分 
かなり揺れは続いた。繰り返し余震も起こる。電車が止まったので、帰宅をあきらめ、(職場の建物の中で)一晩中ネットで情報をみながら、眠れない夜を過ごす。


3月12日(土)
朝、帰宅。
地震情報が流れて一時電車がとまるが問題なく帰宅。ずっとテレビを見続ける。
気づいたらお風呂の中で寝てた。


3月13日(日)
整骨院で全身マッサージ。
平常心ではない。
やっと7時間眠った。まだ停電の影響はさほどなく、呑気にドトールで本を読んだり、英語を勉強したりした。


3月14日(月)
計画停電の発表により、電車の本数が少なくなる。
大混雑ですごいことになったので出社をあきらめる。
部屋でずっとテレビをみながら、ネットでメールをチェックして、仕事もできる範囲で行った。睡眠不足の影響もあり、疲れ果ててしまった。
原発への不安高まる。


3月15日(火)
おくれてPM出社。節電の電車への影響は軽減。ネットで情報を見続けながら仕事。ずっと揺れている感じがしてビルの中にいるのがおそろしくて仕方ない。原発への不安。帰宅困難者になる不安。自分の持っている物を全てあきらめなければならないかもしれないという不安。計画停電の心配。落ち着かない。


3月16日(水)
不安が続く。ずっと揺れていて、揺れていないのに揺れているみたいだ。あまりのすごさに言葉もない。帰宅後はずっとスキュンを続けながらニュースをみる。


3月17日(木)
夕方、大停電の怖れありのニュースに夕方5時前に仕事を切り上げて帰宅。大混雑の一歩手前でパニックに巻き込まれずにすんだ。最寄りの駅に戻ると計画停電中。信号も止まっているし、日没前に部屋にもどることができたが、心細くて不安高まる。食べる物の買い置きをしておいてよかった。Y先生とYさんに電話した。なんだか落ち着かない。いくつもの不安が重なるが、一番は原発だろうか。

3月18日(金)
落ち着いた一日だった。ネットで情報を見続けながら仕事する。帰宅困難者になるかもしれない。停電も心配。でも被災した人達のことを思えば辛抱しなければならない。ボランティアの受け入れが始まったら何かしたい。気づいたら風呂の中で眠っていた。危ない。


3月19日(土)
かかりつけの内科へ行く。& ジョブスタ。


3月20日(日)
美容院でカット。


3月21日(月)
連休中は計画停電は実施されず、少し落ち着いて買い物もできた。久しぶりに多めに眠れた。


3月22日(火)
15時20分-19時00分:計画停電
夕方大きな余震がくる。夜半も揺れる。11日の恐怖感が体に刻まれてしまった。
PTSDにあたるのだろうか。不安障害だろうか。軽度だがうつを伴って私の中に起こっている。
冷静に、冷静に。
人に話すことでいくらか緩和される。ガンバレ、わたし。
職場の部署替えのハシゴからおりたい。今そんなわけにはいかないが・・・。あまり眠れていないのできつい・・・。


3月23日(水)
12時20分-16時00分:計画停電
東京都の救援物資受付に買い集めた物を送った。個人でやるとたいしたことない。
でも今なにかしないではいられない。早く届くといいな。喜んでもらえるだろうか。
東北はよく一人旅で行っていた場所だ。秋田、岩手、青森、仙台。色々と処分してしまったけど、記憶に残る東北はどうなってしまったのだろう。
原発もおさまって、一日も早く平和がきてほしい。
なんでみんな何事もなかったかのようにしているのだろう。
そんなことないか・・・。


3月24日(木)
9時20分-13時00分、16時50分-20時30分;計画停電
自分の持っているもので何かできないだろうか。


3時25日(金)
6時20分-10時00分;計画停電
東京都の救援物資受付が27日で一旦終了というHPの情報に急いで荷造り。半分仕事になっていない。


3月26日(土)
18時20分-22時00分
こんな時に部署替えにつきあわなければならないのが歯がゆい。私にできることはないのだろうか。


3月27日(日)
免許証更新。寒いし遠かった。カウンセラーのY先生のお宅に行きたかったが残念。でも話をきいてもらって少し落ち着いた。
私が給料もらって消費する。それも大事なことなんだ。これからどうなっていくのかますますわからなくなってきた。私はどう生きていくべきなのだろう。新しいことを始める前に今持っているものを整理したい。ちょっとずつ、辛抱して・・・。
義捐金に4,000円だした。物資を合わせると、弟のY君が送ってくれた分ぐらいは還元できたかな。ありふれた日常に感謝。当たり前のことは当たり前じゃなかったんだ。祈り続けるのみ。
(3/28記)


3月30日(水)
昨夜会社にいる間に余震があってからまだずっと揺れている感じで、夜布団に入ってからは体が震えてしまってしばらく寝つけなかった。ずっとインターネットやニュースを見続けているた為、その映像が頭から離れなくなっている。PTSDっぽくなってるなあ。
見なきゃいいのに、でも知らん顔できない。不安、不安だけがつのる。不安神経症が強くなってつらい・・・。


************

がんばろう日本、がんばろう、がんばろうの掛け声への違和感を感じ続けた。
なにかおかしい、違っている。でも何がおかしいのか、その正体は今もわからない。
もうすでにがんばっている人たちに、がんばるしかない人たちに、これ以上なにをがんばれというのか・・・。

私にできることがあるのではないか。
突然近しいと人とお別れとなったその苦しみは乗り越えるものではない。
時間が解決するものでもない。ずっと一緒に生きていかなければならない。
自分が生きている限り終わりなんてない。その苦しみは経験した人にしかわからないと思う。
心の片隅でそう思い続けながら3年が過ぎた。
私は今自分の雇用すら守ることができないでいる。




姜尚中『続・悩む力』より_V・E・フランクル

2014年03月09日 21時23分48秒 | 本あれこれ
 フランクルは、ユダヤ人の精神医学者で、第二次世界大戦中はナチスによって強制収容所に入れられ、想像を絶する迫害を受けました。しかし、彼はそれをくぐり抜けて生き残り、大戦後は、自らの過酷な経験を生かして、人の心の闇と、生きることの意味を解き明かすことに、死力を尽くすことになるのです。

 悲劇に見舞われて不幸な状態にある人ほど、宇宙に存在する深い審理を垣間見ることができるということです。

 フランクルは、たとえそれが患者の思い込みであっても、そのまま彼らの想いを語らせました。つまり、フロイトの精神分析のように、あらかじめ解釈のモノサシを用意して、それによって患者の訴える物語を判断するのではなく、患者自身のなかにあるものをまるごと表出させ、その意識の変化をそのまま記述していったのです。その際に、彼らの言っていることが正しいか正しくないかは関係ありませんでした。
 なぜそのような方法をとったかといえば、悩んでいる人というのは、「自分の気持ちの変化」に大きな意味を見だしていて、そこにこだわっているからです。

(2012年6月20日集英社刊、55-57頁より引用しました。)

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フランクル著『それでも人生にイエスと言う』を読みたいと思っています。


私の状況、今すごくきついです。ほんとうは一秒でも早く逃げ出したい。
もう限界だとなんども思いました。
でも10年以上生活をかけて一生懸命働いてきたのです。
今逃げ出すわけにはいきません。
無駄なエネルギーを消耗するだけかもしれませんが、声に出していきたい。
いろいろと整理していたところ、完全なオーバーワークを物語る記録が出てきて、自分のことながら読んで涙が出てきてしまいました。


孤独な感じです。
妹はお別れの前、だれからも見捨てられたような感があってもうわけがわからなくなっていたのか、もっともっと孤独な中にいたのか、ふと考えてしまいました。
でもなにも死ぬことはなかった、歯を食いしばって生きていてほしかった。
いくらそう思ってもどうしようもない。
その分私が生きるしかない。がんばり過ぎかもしれないが、人から見ると息苦しいかもしれないが、乗りきって行くために、もう少しふんばるしか今はないのです。
ふんばった先にきっとみえてくるものがあると信じてこのまま進んでいこうと思います。

いつの間にか春の気配

2014年03月08日 16時55分18秒 | 祈り



「なつかしいものは なあに・・・?

 とどかないものは なあに・・・?

 それでも 忘れられないものは なあに


 それは 通り過ぎた 子供の日の 幸せ」


「ただようものは なあに・・・?

 うつろうものは なあに・・・?

 それでも 忘れられないものは なあに


 それは まだ出会えない 幸せの予感」


「心をしばっている糸を

 ほんのすこし ゆるめてください

 耳をふさいだ手を

 ほんのいっとき はなしてみてください

 ほら ここはもう妖精たちの住む世界」


永田萌画集『妖精の季節(とき)』(1980年発行 サンリオ)より引用しました。


ボタンをかけ違えたまま突っ走ってきた10時間労働の息苦しい日々は、たぶん事実上終わりました。
あまりにも突然な残念な終わり方です。
契約はもう少し先までありますが、流れは変わらなさそうです。
その先は、なにかしないかぎり1円も稼ぐことはできません。
大いなる不安と背中あわせですが、今すぐ焦る必要はありません。
失業手当もあるので長期戦でいこうと思います。
昨日の夜、仕事帰りの人たちの姿をみかけるとつらくなりました。
あんなにがんばってきたのに、と思うとつらくなりました。
誕生日だったのに自分でも気づきませんでした。

長い間深呼吸することを忘れていました。
お惣菜を駆けこみで買う生活を続けてきて、簡単な野菜スープをつくることすら忘れていました。
がんばりすぎました。
自分に無理させすぎました。
二人分ぐらい働きながら、職場では全く表に出さずに、卒業論文を書きました、カウンセリングスクールに夜間通いました、国家試験に合格しました。
お休みの時間があっても、神様は許してくれるでしょう。
ここらで一度棚おろしをしたいと思います。


事実関係を知るためには今からがスタートです。
色々な意味で違和感がありました。迷いがありました。ふらふらしていました。
手続きを進めていくために、そういう自分と向き合い、人に話していかなければならないのはきつい作業です。
でも、ふらふらしながらも一生懸命やってきたことは事実でそこは揺るぎません。


違和感があると顔にでてしまう。
自分に嘘をつけないので苦しかったなあとあらためて思います。

もう少し先落ち着いてきたらボランティアから入っていければと漠然と思ってはいますが、
具体的には何もイメージできません。私の力を必要としてくれる場所はあるでしょうか。
今はわかりません。



21年前の自分もほんとうに情けなかった。
でもふんばってふんばって、妹の分まで生きようとしてきました。
情けない自分をさらけ出すことになりますが、こうして生きていることが大切なので、
過去の日記をまた書こうと思います。


「1995年3月14日(火)

おだやかに毎日は過ぎて行く。
まだまだ風は冷たいが、もうすぐ春。
新しい部屋の空気を満喫している。
ひととおり片付けも終わって、落ち着いた雰囲気になった。
さすがに長くいると飽きてはくるが、帰ってくるのが嬉しい。
陽当たりのいい窓。
周囲の音もあまり気にならないし、開放的でくつろげる。
どんどんこの空気が好きになってくる。
わたし自身にも春が訪れるような気にさせられてしまうではないか。
編集プロダクションへの就職が決まった。
作文と面接がパスしてしまって、素直に嬉しいというよりは信じられない気持ちと不安の方がまさっている。まさか採用されるとは思わなかったので、たいした考えもなく応募して、あまりにあっさり決まってしまったので戸惑っている。
ほんとにわたしでいいのだろうか。
少人数だし、この年齢で新しいことを始めるにはそれなりの気構えが必要なわけで、呑み込みのおそいわたしとしては不安だらけである。
今あれこれ考えても仕方ないけどね。
やるしかない。
先よく眠ることだ。
Mちゃんのことを思うと、なかなか苦しいが
休んでエネルギーをたくわえていくことだ。
フロイトのレポートも書かなければならないし、なかなかに忙しい。
いつもそばに感じる。「おねえちゃん、がんばれ」っていってくれてるような気がする。
心の中にあの娘がいる限り、がんばれる筈だ。
二人分生きること-それしかもうしてあげられることがない。
気負うことなく、肩の力を抜いて自然体で前に進んでいこうよ」


写真は春のプリンス・エドワード島、お化けの森です。



「東北の縄文文化から学ぶこと」

2014年03月05日 16時16分09秒 | 東日本大震災
2012年10月6日 慶応義塾大学 日吉キャンパス公開講座

「東北の縄文文化から学ぶこと」安藤広道


レジメと私自身のメモ書きから、わかりづらいですが書いてみたいと思います。


1.東北の縄文文化の特徴

a.慶応義塾大学の考古学研究と東北の縄文遺跡。

b.東北の縄文文化の変遷。

・前期〰中期:遺跡数の増加。大規模な集落遺跡の発達。長方形大型住居跡をもつ集落遺跡。

  縄文文化は東北の特徴。
  早期:定住生活の確立。人口の増加。気候が温暖化。食料資源が豊かになる。
  前期〰中期:大規模集落。
        長方形大型住居(東北の特徴)、
         仲間意識の反映、
         集会所の役割をしていたと考えられる。


  寒冷化、
  青森三内丸山遺跡、
  公共施設の充実、土偶、美しい装飾の土器
  共同意識の発達、厳しい中で生活を維持するため祭りが大きな意味をもつようになった。

  中期の終わり:村が小さくなる、寒冷化で大きな村は維持できなくなる。


・後期:遺跡数の減少。環状列石をもつ集落遺跡。土偶などの祭祀的遺物の発達。

  少しあたたかくなるが寒冷化が続いている。

  環状列石、石のモニュメント:お墓でもあり、祭祀の場所でもあった。
  
  環状土離、土を盛り上げてつくったモニュメント、
  
  共同作業によって仲間意識を高める。
  土偶がさらに発達、お祭りの道具。
  

・晩期:遺跡数のさらなる減少
  
  さらに寒冷化が加速、
  遺跡の減少&大きな遺跡がなくなる。
  小さな村が分散
  土偶、同じ様式が広い地域で定着していた。
  高度な技術の祭祀物、
  個々の村で同じような祭りを行うことでつながりを維持しようとした。
  
  漆の技術の発達、
    重ね塗りの技術(現代と同じレベル)
    塗料として使うために手間がかかる
    複雑な技術、高度、現代まで続いている。

  
2.東北の縄文文化から学ぶこと

a.気候の変動と生活の変化の関係。

b.縄文文化は本当に「豊かな狩猟採集民文化」なのか。

c.苦難から生み出される創造力?

 寒冷化が進んだ時に豊かな創造力が発達したと考えられる。
 厳しい条件の中で生き抜いていくために高い技術をもって、仲間意識を高めていった。

 支え合う社会の仕組みの確立、
 ↓
 現代の我々が学ぶべきこと
 災害時、社会の機能が停止した時に世界中で起こり得る。
 危機を乗り切っていくために、人間が本来もっている力。


 東北の縄文文化はそうした歴史の証人。

 生活条件の悪化の中で造りだされた造形物(モニュメント・土偶)は、現代の我々に感動を与 えてくれる。
 人類の宝として残そうとしている人々がいる。
 支え合う社会を維持するために造り出された技術(漆)は現代にも生きている。
 苦難は時には創造力を豊かにする。
 子孫にとって財産になっていく力を持ち得る。
 ↓
 我々が学ぶべきこと

3.被災地にとって縄文文化の遺跡とは?

a.なぜ「文化財レスキュー」が必要なのか。
b.住宅地の高所移転と遺跡の発掘調査。
c.被災地にとって文化財はどのような意味を持つのか。

 
 被災地の高所移転、まずは遺跡の発掘調査をこれから行う。

 遺跡は歴史の証人、将来に引きついでいく意味はある。
 新しくつくられていく街にとって、その場所を深く知ることは愛着をもつことにつながる。 人々が遺跡を語り合うことでコミュニティが形成されていく。
 深く知ることで語りたくなり、土地に対する帰属意識が高まる。

 遺跡をめぐって議論することそのものに意味がある。
 遺跡は未来の財産になる。決して足かせではない。
 苦難に立ち向かう時の人々の力、創造力を私たちにおしえてくれる。






 
 

 

  

3月の始まり_雨の日に

2014年03月02日 14時34分51秒 | 祈り
今日もしとしと雨が降っているので気持ちが少し落ち着きます。
雪にはなりませんでしたね。
私が生まれた日、3月なのに朝から雪が降っていたと子どもの頃父から繰り返しきかされました。私を産んでくれた人はもうこの世にはいない。そんな事実がまだ信じられず、つらつらと考えていると涙がにじんできます。

21年前、妹の突然のお別れから、必死に自分をたてなおうそうともがいている私がいます。。


「1995年3月7日(火)

My Birthday,fine,何事もなく終わろうとしている。
あまり力まないことだ。ゆっくりといこうよ。
考えることは考えなければならないが、
落ち込んだところで何にも上手くいかない。
全てはLet it be.
風のように流れるままに、なすがままに、
ひとつの所にとどまることなく生きたい。
花の香りがほのかにただよっている。
ストックかな・・・。
窓辺からはたっぷりの陽射し。
近づく春の足音。
鉢植えをいくつか置いて、切り花を飾って
ささやかに楽しんでいる。
ここは周りも静かだし、なんかすごくいいなあ。
相性悪くないと思う。
年を重ねていくことは素敵なことだと思える自分でありたい。
気負わないでサ、自然体でいこう。
何かが訪れる時はきっと向こうからやってくる。
疲れた時は、じっと休んでいればいいじゃないか。」


私が一生懸命生きていることが大切な役割。
体験を発信して私たちに教えてくださいよと乳幼児精神保健学会のW先生は仰ってくださった。
セミナーに参加し続けて、自然に自分の体験を語ってみようと思える時が訪れたら声に出してみようと思う。

先ずは今正しいことがきちんと通って行くようにふんばること。
そこから先のことは落ち着いたら考えればいい。
とても貴重な体験をしているのだと思う。
おかしいと思い続けてきたことを発言していける機会になればいいのだが・・・。


秋のプリンス・エドワード島への旅日記はもう少し先にまた再開します。
夢のように美しい写真もまだまだありますのでお待ちください。


あしなが育英会の「仙台レインボーハウス」完成式が1日に行われたとのニュースをヤフーでみました。
東日本大震災で親を亡くした子供たちのための施設です。
なんどか寄付をしました。
しばらくとまってしまっているのでまた再開しようと思います。



春の始まりの雨の日に思う

2014年03月01日 15時42分39秒 | 日記
いつの間にか梅の花が開き始めていました。
寒かったり、あったかだったりしながら季節は流れていますね。
昨日も緊張し続けて胃の痛みがとまらないまま、今までどおり仕事をし続けました。
意図的に仕事量を減らされているのでこれはかなりきついことですが、ここで屈するわけにはいきません。
今まで大手に理不尽に泣き寝入りさせられた人たちがたくさんいるのではないか。
その人たちの怒りや悔しさも背負ってふんばるのが私の今の役割だと思ってふんばっています。
どうなっていくのか、まだわからないので気が抜けません。
休日のこんな雨の日は気持ちが少し落ち着きます。



総合労働相談センターでもらった労働基準法のあらましから抜粋です。

「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準

(雇止めの予告)

第2条

 使用者は、有期労働契約(当該契約を3回以上更新し、又は雇入れの日から起算して1年を超えて継続勤務している者に係るものに限り、あらかじめ当該契約を更新しない旨明示されているものを除く。次条第2項において同じ。)
を更新しないこととしようとする場合には、少なくとも当該契約の期間の満了する日の30日前までに、その予告をしなければならない。

(雇止めの理由の明示)

第3条

 前条の場合において、使用者は、労働者が更新しないこととする理由について証明書を請求したときは、遅滞なくこれを交付しなければならない。

 有期労働契約が更新されなかった場合において、使用者は労働者が更新しなかった理由について証明書を請求したときは、遅滞なくこれを交付しなければならない。

第4条

 使用者は、有期労働契約(当該契約を1回以上更新し、かつ、雇入れの日から起算して1年を超えて継続勤務している者に係るものに限る。)を更新しようとする場合においては、当該契約の実態及び当該労働者の希望に応じて、契約期間をできる限り長くするよう努めなければならない。


 また、労働契約に関する基本的なルールを規定する「労働契約法」では、有期労働契約について、以下の3つのルールが設けられています。

Ⅰ 無期労働契約への転換

 有期労働契約が反復更新されて通算5年を超えたときは、労働者の申込みにより、期間の定めのない労働契約(無期労働契約)に転換できるルールです。

Ⅱ「雇止め法理」の法定化 

 最高裁判例で確立した「雇止め法理」が、そのままの内容で法律に規定されました。一定の場合には、使用者による雇止めが認められないことになるルールです。

Ⅲ 不合理な労働条件の禁止

 有期契約労働者と無期契約労働者との間で、期間の定めがあることによる不合理な労働条件の相違を設けることを禁止するルールです。

Ⅱ:平成24年8月10日施行
ⅠとⅢ:平成25年4月1日施行」


 このように法律が改正されていることを今回のことがあるまで全くわかっていませんでした。有期雇用契約には、間接雇用も含まれており、実態としてそこの職場に長く就労している場合には、実質そこの職場の労働者と法的にはみなされるそうです。
知ることは本当に大切。
法律によって行政の窓口が違っており、それぞれに足を運ばなければならないので大変ですが、窓口で心ある人たちと会えるとは思ってもいませんでした。
ここに行ってしまったら二度と職場に行くことはできないのではないか、そう腹をすえて訪れた窓口で、何時間も話をしました。
いろいろと教えてくれて、最後には涙まで流して、ここの窓口では限界がある、雇用を守ることはできないので雇用を守るためには自分で動くしかないと背中を押してくれました。

行政の窓口でこういう方と会えるとは全く思っていませんでした。
たぶん色々な事例を今までみてこられて、ご自身の苦い経験もあって、わたしの大変さを理解し、理不尽さに負けないよう励ましてもらえたのだと思います。
怒りを我慢して自分の中にためこまないようにーこんなアドバイスもしてくださいました。

別の窓口でお会いした方も、雇止めは大変なことですよ、と当事者の私より怒りをもって
、書類作成にのろのろあたふたとしている私を手伝ってくれました。こんなことは苦手できついです、と言ったらみんな苦手だよ、と言って足りないところをいろいろとフォローしてくれました。


悪い方向性ばかりでもないんですね。
どうなっていくのか不透明で不安ですが、短期間で色々なことがわかって、大きな収穫がありました。
日本、まだ大丈夫かな。

一部の人だけが利益を享受するような仕組みはもうたくさん。
ささやかでいい、助けあってみんなが幸せだと思えるような社会に少しずつでも変わっていってほしい。
そのために今私は泣き寝入りしません。



中野麻美著『労働ダンピングー雇用の多様化の果てに』(2006年発行、岩波新書より抜粋、3-4頁)


「1986年に施行された労働者派遣法は、職業安定法では違法とされた労働者供給事業の一部を、派遣元が雇用責任を全うし、派遣労働者の権利をきちんと保障することが可能な「労働者派遣」というスタイルとして合法化した。この労働スタイルは、労働者の派遣とその条件を取り決めた労働者派遣契約が、業者間の“商取引契約”であるのに派遣労働者の雇用や労働条件を実質的に決める機能があるところに特徴がある。それが、働き手には大きなリスクとなる半面、ユーザーである派遣先には、必要に応じて受け入れたり排除したりでき、また労働条件もダンピング出来るといった、”使い勝手のよさ”となる。この使い勝手のよさが、正社員の派遣労働者に入れ替えさせるインパクトを与える。そのため、労働者派遣は、市場原理が働いても派遣で働く労働者にあまり不利益にならないよう、また正規常用代替(安定的な雇用と賃金が保障された正規常用雇用が派遣労働者に置き換えられていくこと)を促進させないよう、労働者派遣を受け入れられる場合を厳しく制限し、派遣対象業務は政令で定める専門性の確立された業務などに限定した。ところが、この政令指定業務自体がその後次第に緩和されたことに加え、ついに1999年改正派遣法では政令指定業務以外の仕事でも原則自由に派遣できるようになった。こうして規制の箍(たが)が外されると、一気に労働者派遣への需要が高まり、請負や委託を偽装した違法派遣も拡大したが、それとともにダンピング競争が加速した。」


10年前に慶応義塾大学を卒業した際の卒業論文のタイトルは『女性の職業感と生活観に関する考察』というものでした。膨大な量の論文を私に書かせたのは、”怒り”だと指導していただいた先生が仰られました。もう少し先に論文を少しずつ書いていきたいと思っています。

日記も書きたいですが頁をあらためます。