あげちうのブロマガ

不意に財布の中が寂しい

「お金が無い」と言う切迫感は、不意に無視できない何かとしてある。

ただ、自分の思想的な「という訳で」は、そのまま広告代理店への批判に成っていく。

 

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」は、興行収入的には6位まで後退した、らしい。広告を殆ど打たない、という戦略?の結果としては広告代理店にとっては吉報、というか…そういう物、だろうか。自分も最近やたらに広告代理店批判、に成っている、その理由みたいなモノだとすると、映画の来場者数も公表数は怪しい、とか言い出す…それに是非は有る。

優秀さ、で計れば、「不良」は要らないのだ。

その時、そこに「不良の捨て場」そう言うのが出来る。

この現実がある限りは、「マフィア」そう言う存在も消えないし、広告代理店も存在感を残し続ける事には成る。優秀な作家の作品は広告を打たなくても売れる!というそれは、でも彼ら「不良」その切り捨て、という絵は少し出てくる。その「少し」に食いつくのが彼等でもあって、ネットで炎上する案件の様に、どれだけ些細でも「切り捨て」それは、正論を覆す場合が多い。

もちろん、逆も真なり、ではあるのだが。

特権持ちの”彼ら”が切り捨てているのなら?その負債は彼ら自身へ載っていく、事には成る訳で。

この辺も、結果でしか解らない。「お金が無い」切迫感はリアリティ、だろうか。「切り捨て」のある支配体制では、その内部での「内需拡大」それはほぼ無理だ、いつ自分が切られるか解らない環境を良いという人は少ない。切り捨ての無い、基本的人権は護られた社会に対してしか「利益」それは発生しない現実はある。その時、自然減を補うモノとして「創作」その隆盛は大事な話だ、が。もちろんだが「切り捨て」それを容認した思想によって生まれる作品に、「価値」は微妙に発生しない。

その時、社会は「自然減を補う物」を失う事には成る。社会は衰退を始め環境は悪化し、それがますます利益性を喪失していく事にはなる。その時?その原因になった物が損害を受けない、という事は考えにくい。

…実際には、想定以上に、或いはウクライナ並みに、「お金」には面倒が発生しているのだろうか。

末端の”現場”ではアプローチが続いている、感じはある。「面白そう」と言うイメージだけは残しつつ、そう言う方向でどうやって「現状」を肯定させ利益を、それはでも、今も上手く行ってない感じは、ある。ストレスは重いというべきか、売れる作品は自身らを否定する、自身らの作品は利益を呼ばない。「特権」を堅持しつつも逆にそれが理由で、事態は衰えていく、様な?

「中華思想の皇帝」と化したゼレンスキー大統領に全責任を丸投げする事で、何かの回避はまだ出来る、として。

それが「民主主義の未来」の話に成ってしまうようなそれの、是非ではある。

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