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あげちうのブロマガ

良識に支配された秩序という停滞

「良識がある」と言う事の是非ではある、それは無言の強制を人々に強いる枷ではある。

…しかし、その反発が「クマを殺すな!」とか、環境保護団体のそれと言うのは、果たして。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

体制に立ち向かう少数、的な定番ネタの、その表裏ではあり

 

いわゆる「不良」昭和の表現だろうか、”それ”をどうするべき?と、そう言う話に成りつつある、様な気もする状況。「ゴジラ-1.0」が、割と高い評価を受けていて…伝え聞く内容も、割と悪くない。

「ゴジラ-1.0」
主題 戦後に残った物がある。
情景 ゴジラ襲来パニック。
描写 戦後と言う時代で。
注意 ゴジラは人間を狙ってくる。
主張 それは戦後に残った物を宿したから。
矛盾 それでも、ゴジラは負ける。

「それは、東京の銀座くらい吹き飛ばされてもしょうがないよね」とか、それは少し思う感じ。良くも悪くもアートスケールでの数値が高い=高い集客力と評価、そして利益という?その「映画が求めるモノ」に届く一つの指標である、様な?そう言う結果になった…とは言えそう。売れたい!のなら、この評価値で高い数値を目指すべき、なのだ。”そこ”に届くなら、それは手段を問わない。そして、それは創作であれば”全て”に今、言える事には成る。

ようやくか、世界は長い不景気、何かの暗黒から脱出できたのだ、とさえ、実は言える結果ではある訳だが。

これを”良識”として考えた時、つまり?ここで数値が低い作品しか作れないなら、それは劣等、という扱いには成る、訳だ。それを理解しない、というのもまた、「不良」好ましくない人物、そう言う事にはなって。マクロの一部としては…全体主義に殺される個、というか、そう言う絵でさえある。

…ただその時、”それ”のする行動が絵画に絵の具をぶちまけたり、クマを殺すなと電話したりする、それに成ったりする時、その人々は良識を失っている訳で…正当な?そんな相手をする必要はあるのか?そこに少し、疑問も出てくる、そんな感覚もある。

”これ”が膨らんでいくと、要するにその人々を社会から排除しろ、そう成って。社会の”外”が無い時、その人々は既に生活出来なくなる、訳だが。「”不良”なんか殺せばいい」極論は末端でそう言う声になる時、そこにあるのは何だろう?少し不安には、成る。

表現?そう言う感覚かでは、ゼレンスキー大統領もハマスも、既に「単なる狂人」と言う事で、”それ”に従う人々も似たような、という事には成る訳だ、「大賀さん」紛争解決機構その決定に従わないから。”それ”が何かを圧していく時、そこに居る存在が「単なる猫」の様なそれだとしても、それは要らないので捨てる事には、なる。

感覚論では、「牢陽帝」その状態が、そこに至るモノを防いでいる、のだが。

だから、か。矛盾の様な話が、どうしてもそこで尽きない議題を繰り返している感じではあり。

「単なる猫だ」としても、その行動の帰結は猫のそれの様に、時にはかなり迷惑で損害と共にある。ある種の暴走を想像はする、反抗的な奴は狂人だから排除していい。それは漫画の中でなくても大概は、邪悪な悪役ではある訳だが。

…しかし、「クマを殺すな」の電話は、あまりにも、そんな気には成る。

視野が狭くなっている、だろうか?

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