あげちうのブロマガ

右に行けと指示した先にある岩

いま一番の懸念は、「テレビの視線」ではある、隣接しているかの、それを見ている視線は否定的だ。

そして、”それ”を出来ない訳じゃないしかし。それは許可されない、それの反動も深刻なのかも。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力

「ねえ、この道で合ってる?」意識し始めた問いに、自身の過失を感じつつ。

 

「艦これ」の現実の様に、不意にか「テレビ」その状況かを意識する、そんな状況の様な気はする。テレビが報じない領域では、テレビの統制を無視した制作が行われている、それは利益性がある。ただ、それをテレビは志向できない、というストレスの中に居る訳だ。或いは過去の失策の数々ですっかり委縮してしまった、という”それ”かもしれない。テレビは、少し大きな事をしようとすればすぐに、誰かが死んでしまうそして、何もしなくても死んでしまうそんな奈落の中に居る。

気がする。

昭和の頃、テレビとテレビゲームの主導権争いで、テレビゲームの方に勝者を渡しておけば良かった、というのがまあ、今の理解ではある。ただ、その狭間で発生した「岡田有希子」と言うアイドルの自殺は、テレビゲームも強いショックかを受けて、或いは委縮してしまった。テレビゲームが圧さなければ、盾にされた彼女は死ななくて済んだかもしれない、訳だ、「盾にしていた」のはテレビの方だが。実際には、人間に神の如くの対処か責任を求めると死んでしまう、現実はある。「鬱」と言う状態は或いはその一つ手前ではある。何かの依存を受ける先で、対処不可能な要求を超えられない果てに、それは存在を否定されてしまう。

テレビゲームは良くも悪くも最後、そこに有るのは「物理」だ。時速100kmで走る車がハンドルを誤り岩に衝突した時?過失は岩には無い。テレビはそうは成らない、マスメディアの影響力、その怖さだ、「右が正しい!」その先に岩があったら、その先の事故は誰の責任なのか?である。

という訳で、昭和の頃は”それ”を、テレビの過失の責任を、昭和天皇が引き受けてくれた。太平洋戦争の後でもある、その問題に対しても、昭和天皇は過去の実例を知っている、やむを得ない話、だ。が?その後は?ではある。本来なら、最後の責任をテレビゲームに渡しておくべきだった、しかし。テレビは昭和天皇の椅子に、或いは固執してしまった。

その結果だ、ミニ4駆の大会で、電池は使っちゃいけませんという、そんな番組ばかりが横行する事にはなる。その場の、走らないミニ4駆を眺めるだけ?という感じの「何が面白いの?」と言うそれ以外には問題は起きない、もちろんその後、スポンサーの遊離等々大問題は目白押しだがそれでも、その先で誰かが死んでいくのを、テレビは実感せずに済む。

テレビは今、利益性を目指す事が出来ない。”その先で”人が死んでいくからだ。しかしそれは、より多くの悲劇を産む事になって。世界は或いは今、奈落の中に居るのだが。

バカバカしい話ではある、のだが。

”神”に依存してしまった、そんな時代とその後、ではある。秦の始皇帝の悪夢それは、今でも相変わらずの悪夢として、何かの理想に常に付きまとう物としてある訳だが。

テレビに対して、テレビゲーム…インターネットは。「ゴミだ」として、それを廃棄して良いか否か、ではある。

「炎上」と言うそれは、むしろ危険の「事前の発露」かもしれず、”それ”を回避する知恵、みたいなのをインターネットは求められた経緯はまあ、ある。その先で、それは「問題ない利益性」それを形成する事に成功した、のだが。それは「テレビゲーム」と言うコンピュータ特有の能力、その帰結ではある、どれだけ熱を入れようが、コンピュータは気にしない、自身が破壊される事さえも、だ。「面白い」の先で”それ”は物理と接続し、人間には不可能な神判者と成りえる、訳だが。”それ”をテレビは物理的に持っていない現実はある。「同じ事は出来ない」訳だ、その上で、「犠牲は出ない」出ても問題視されない、という部分をクリアする時、アートスケール的には50点を超えられない。

それは利益に成らない、のだった。テレビは今、以前の様なCM効果、それを持てずにいる。

神が、神を呪っている。

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