最近、苛立ちは有る様だ。
環境の変化も大きい、かもしれない。
ここはもう、コミケ会場じゃないのだ。
世界を違えば倫理観も変わる、しかしだからと言って、それは正論なのか。
ショートサーキット出張版読み上げ動画6613
疑問もある。
「エヴァンゲリオン世代の頭の悪さは何とか成らんのか」
それじゃ崩壊するって言ってんのに、なんでそっちに行くんだ?
出来ないと解った事を何時まで追い掛けるつもりだ、自殺したいなら迷惑掛からない所でやってくれ、他を巻き込むな。
…とか、私的な表現としては、どうにもこうにも。
原理としては、場合によってはファミコンの大成功、それに通じる「実際には発生してた破綻」その果てに有る様、かもしれず。ともかく、「才能が無い」と言う言葉への否定感と、反発と、その先に有る崩壊?だ。実は守られていた立場で、守っていた存在を攻撃し、破壊した?後に、それが環境の致命傷だった事に気づく、そう言う。「正義を!」その視点で進む先にある、それは見ていられない崩壊ではあり。
良く解る?のが、「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」ではあるが、これも視点では無力さはある。
「家族を大事に」という、そのテーマの先に有る、”家族ぐるみの崩壊”ではあり。マクギリスにしろ、自身の兄に成る人物を、結局は殺し損ねた、”死んだ事を確認しなかった”か、出来なかった末にある破滅ではあって。鉄華団も、本来なら家族を護る上では最善の選択だった筈だ、マクギリスがギャラルホルンのリーダーに成れば?もう”彼ら”から睨まれる必要は無くなる。とは言え博打でもあり、立場もあるクーデリアは巻き込めない。結果、マクギリスの失敗と共に、彼らも破綻していく事に。
「ってなったら困るだろう」
と言うのが、昭和期の創作、そのメインストリームと言うべきだ、けども。
そう見ていたか?と言うと、何だか違う気もする。
現状のシステム、それとの異相もある。昭和期は結局、「昭和天皇とその仲間達」と言う、実際はそう言う絵だった訳で、全てを”一枚の絵で”描こうとした感じはある。自分と同じく、昭和天皇に「自分は王の権威だ」世界の創作その頂点である(・・・)と言う理解、それは無かっただろう、自覚も不可能だったとは思う。今のインターネットか、或いはコミックマーケット会場の様に、”それ”で上手く行くと思っていた、が。何故か、これもまた、利益は発生しなかった、発生するのは自分の、昭和天皇の?アイディアに通じる、そこにしかない。
混沌を残したまま、昭和は終わって平成、放り出された世代は、環境が破綻している事に、ふと気づく訳だが。
「ガンダム」の真意、と言うのも、自分の再整備?したそれとは、実際には異なっているのかもしれない。ガンダムも今は、複数の”世界”を跨いだ物に成っていて、つまり、「一枚の絵では無い」訳だ、何枚も重なっている。Aの絵には無い要素はBの絵にあり、それは逆も真なりで、”何か”はそれらの絵を行き来し、自身の要求を満たそうとする訳だが。動き続ける理由、だろうか、状況は常に変化していく、世界とは一枚の絵じゃない、とか。
「それは違う」その先へ、それは走っていく感じ。
世界が多層として問題を解決している、”それ”へ挑む、そこに、平成の正義と熱意はあって…それは今も、消えては居ない訳だが。
「大衆は神である」としたら、動物とは?と言う時、その「人とは認められないモノ」と言う、”そう言う領域”である、と言うのはある。「曼荼羅」の理解もそうだが、現実もまた「世界の一つ」に過ぎず、多層構造の一枚でしかなく、”この”世界に無いモノは、余所の世界には有り、それを求めるならそこへ行かねばならない、つまりこの「世界から出ていかねばならない」という、そう言う限度はある訳だけど。
”それ”を「落ちこぼれ」と評したのだろうか、問題はそこだろうか?
「絵が描ける程度で、何を偉そうに」
シンプルな反発、創作者の全否定?でも、それにはそれでも、正義は有る訳で。
…そう言う視点では、ニコニコ動画に、未来はあるのだろうか?
価値の”不当な供給元”を絶つ事で、その世界に発生する脅威、それは大きく削減した、しかし。結果でそれまでの「供給に依存していた」その世界は、飢餓の危機感に見舞われる事に成る。打開の為に、主人公は奔走する、その果てには。
その世界には愚直な存在しか居なかったが、現実は、果たして。