あげちうのブロマガ

それは異質が世界を破壊し逃げていく話

サブカルチャー的な、つまり利益性を主体にした物語を考える時、”敵”の存在は重要ではあるのだが。

しかし、「異世界」を認めない?時、その敵とは、本質的には単に「否定された人々」でしかない。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

 

アインシュタインの功罪、ではある。或いは?カール・マルクスも陥った「謙遜」かの先にあるバグに近い話だ、というのが自分の認識だ。アインシュタインは物理学者であり、要するに「目の前の物理しか見てない」訳だ、別に面白い漫画のネタは研究対象じゃない。その時、見ている世界は現実だけで、それ以上を追及対象にする理由も必要も無かった、結果、「神様は何処にいるんですか?」とか、そう言う話は返答しない訳で。

結果、「外宇宙からエイリアンが攻めてくる!」と言うそれを、ただ否定するだけに成ってしまう。この時、世間が如何に”それ”に対して感動しお金を払おうと、「漫画だから」良い意味でも悪い意味でも、そう否定され、それは「愚者の象徴」そんな感じになって、何かの境目をここに発生させてしまう事には。

「愚者ではない人々」は、お金を発生させられなくなる。

「愚者な人々」は、そうでない人々から否定の対象にさえなる。

そんな混沌の中で、それを強引に補正?していた昭和天皇もまた、ある種の理解を得られないまま亡くなってそして、平成は混沌と共に始まった、訳だが。

ともかく「一般大衆」にしたら、「騒乱」戦争、それの無い環境こそが理想、である。ただ?”それ”を形成する製品群は、それを維持する為の競争と言うか、クオリティ査定、それに常に晒され満たす必要はある。この事例だけでも、状況に境目はある、「異世界」そう言っていい環境の違い、それはある訳だ。日常にクオリティを、言えば”動乱”を持ち込もうとする意識は排除される、が。日常に格差を産もうとする製品に対しては否定していい。世界の「境目」を意識する事で、両者の世界は逆に、両者の混沌を避ける事が出来るようには。

この辺は仏教的な?三千大世界とか、そう言う感覚で考えた方が良い訳だけども。

「漫画」サブカルチャー的物語は、”そう言う各種の世界”に対して「幸運」を提供する事で、その返礼を現実にフィードバックする、のが基本的な需要である。日常の怠惰でぬるい生活を否定する意識を厄災の始まりと描いて、その元凶たる悪魔が倒され”地獄”に落ちる、時。或いは誰かは彼が望んだ競争と戦乱の世界、「高い品質しか残れない世界」そこへ行けるのかもしれない、訳で。「殺す」と言う意識をどういう物として見るか?かもしれないが、その世界から放逐する、という事が「殺す」と言う事なら、「上手く」処理できる時、両者の世界かに問題は無い。

・・・この先は、或いは冥府の話に成ってしまうから、それ以上は踏み込まない方が良いとは思うが。

今の相対性理論の中でも、「異世界はある」と言う理解を持つ事は無理でもない…訳だ。それをテキストに書いてない、だからと言う理由で否定する、それは愚かな事ではあるまいか、とは言うけど。

ともかく、商店街に欲しいのは、売れるモノ、ではある。

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