孔子は「仁」を重んじ「礼」を説いた儒教(Confucianism)の祖ですが、現代社会にも十分通用しますよね。
なんちゃって仏教徒の僕も、外国人から君の宗教は?と問われた場合むしろ、Confucian と答えたいくらいだ。
儒教は中国で国教化されるのですが、毛沢東の文化大革命で孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされてしまいました。
もちろん、現代はキリスト教の個人救済に基づく個人主義の時代ですから、上下や序列を重んじた儒教は時代遅れなのかもしれず、しかし僕の遺伝子には儒教の教えのほうがマッチする気がします。
社長に「ハ~イ、ジュンイチロウ、元気?調子は?」ってチューして肩を叩いて握手できます?
だから、邦人が自分の父親や息子を「彼」、って呼んでいるのを聞くとお尻がかゆい・・・。
で、次に「脳の中の私・・」では同じく中国春秋戦国の世、他の「諸子百家」として老子(Lao-tzi 写真:ラオチュウではない)を紹介、老子もすべては「無」だとし、それを「タオ」あるいは「道」とし、それが道教だと。
「道」はすべての物事の根源だそうで、無限大に広がり、どこにでもあるのですが、しかし漠然としてとらえようがない。
強いて言えば「無」なのだそうです。
仏教の「空」に似てますね。
「無知無欲」とは、知ることにとらわれない状態で、それが望ましいと。
弟子が知ることにとらわれると、いろいろつっこまれて答えに窮するから、その言い訳じゃないの?って???
中国の三大宗教といえば、仏教・儒教・道教らしいですが、近年見直されている道教(Tao-ism)は、「道」という文字からして首が始まりで之が終わりを意味するようです。
その太極思想には共感できますけど、仙人に不老不死や霊薬・丹だの、風水や易学だとか、さらに日本の陰陽になると、ちょっと・・・ね。
紀元前5世紀ころは、日本では諸説はありますがやっと弥生時代の始まり、その時代に、儒教が起こり、ソクラテスが弁明し、ピタゴラスが√2が無理数であるかどうか議論し・・・
なんちゃって仏教徒の僕も、外国人から君の宗教は?と問われた場合むしろ、Confucian と答えたいくらいだ。
儒教は中国で国教化されるのですが、毛沢東の文化大革命で孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされてしまいました。
もちろん、現代はキリスト教の個人救済に基づく個人主義の時代ですから、上下や序列を重んじた儒教は時代遅れなのかもしれず、しかし僕の遺伝子には儒教の教えのほうがマッチする気がします。
社長に「ハ~イ、ジュンイチロウ、元気?調子は?」ってチューして肩を叩いて握手できます?
だから、邦人が自分の父親や息子を「彼」、って呼んでいるのを聞くとお尻がかゆい・・・。
で、次に「脳の中の私・・」では同じく中国春秋戦国の世、他の「諸子百家」として老子(Lao-tzi 写真:ラオチュウではない)を紹介、老子もすべては「無」だとし、それを「タオ」あるいは「道」とし、それが道教だと。
「道」はすべての物事の根源だそうで、無限大に広がり、どこにでもあるのですが、しかし漠然としてとらえようがない。
強いて言えば「無」なのだそうです。
仏教の「空」に似てますね。
「無知無欲」とは、知ることにとらわれない状態で、それが望ましいと。
弟子が知ることにとらわれると、いろいろつっこまれて答えに窮するから、その言い訳じゃないの?って???
中国の三大宗教といえば、仏教・儒教・道教らしいですが、近年見直されている道教(Tao-ism)は、「道」という文字からして首が始まりで之が終わりを意味するようです。
その太極思想には共感できますけど、仙人に不老不死や霊薬・丹だの、風水や易学だとか、さらに日本の陰陽になると、ちょっと・・・ね。
紀元前5世紀ころは、日本では諸説はありますがやっと弥生時代の始まり、その時代に、儒教が起こり、ソクラテスが弁明し、ピタゴラスが√2が無理数であるかどうか議論し・・・