医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

「罪と罰」に見た美学5

2007年07月21日 06時38分05秒 | Weblog
 指摘されてなるほどと思います。

 まるで映画「パルプ・フィクション」みたいだな。

 それぞれの登場人物が、それぞれ強烈な個性をもち、一見してばらばらで、それぞれのストーリーがあり、作者の意図や思想をあたかも超えたような配置を取りながらも、一つの小説として成り立っていくのです。

 実際の世の中だってそんなものです。

 通常、小説というものはせいぜいが、ヘテロフォニーかホモフォニーであり、あらかじめ用意された登場人物が、作者の意図通りに、統一感を保ちながら、予定調和で進行し、作者の思想の語り部として存在するものです。

 主役がいて、和音と合いの手を奏でるコーラス担当の脇役がいて、AメロBメロ、サビ、みたいなお決まりのパターンがあって、作者の思惑通りにフィナーレを迎えます。

 ドス氏の登場人物にいたっては、そう単純には参りません。

 さらにはヘーゲル的な絶対精神の歴史的発達や、正・反・合でアウフヘーベンされる弁証法も見られますし、カント的二律背反や、それらドイツ観念論ばかりかエンゲルスやマルクス的唯物論も織り込まれていきます。

 まったく、別の人格が、ばらばらに、それぞれが主役であり、思想も思考もおよそ見当違いなのですが、協和しているのですからこれを魔法と呼ばずして・・・。

 また彼の常軌を逸した緻密なプロット(plot:構成、筋立て)の特色のひとつとして、「カーニバル性」が指摘されます。

 これは、カラマーゾフでの修道院でのデタラメや、本書でのマルメラードフ氏のお通夜のハチャメチャなシーンで体験できます。

 道化役、茶化し、論理逸脱、ちぐはぐ、無遠慮、罵詈雑言、悪態、野次、怒号が入り乱れ、どんどん盛り上がって・・・

 神聖なもの、悲しい出来事が、笑われ、醜態をさらし、おとしめられ、収拾がつかなくなって・・・

 ところがそれらのカーニバルが急に終わりを告げ、結果として高尚なものが、カーニバル前より崇高化されて残るものという意見です。

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