医師日記

「美」にまつわる独り言です
水沼雅斉(みずぬま まさなり)

「罪と罰」に見た美学12

2007年07月28日 22時23分18秒 | Weblog
 そのためロシア正教会は、コンスタンティノープルの東方正教会に接近して同調をはかるようになったそうです。

 その結果ニコンは、古来の伝統的なロシア教会に対して批判的な態度をとることになりました。

 彼は、ロシアにおける典礼の方法を、ギリシアをはじめとする他の東方正教会の典礼に従うようにし、たとえば十字を切る指の肢位も、2本指で行っていたものを3本指で行うようにしたり、またハレルヤも2回唱えていたものを3回唱えるように変更したそうです。

 ニコンのこの改革に対しては、当然ながら激しい抵抗が起こりました。

 特に「分離派(ラスコーリニキ)」とよばれた旧勢力の信者たちが、狂信的といえるほどの抵抗を示し、これらの一連のロシア正教の「ギリシア正教会化」に反対したそうです。

 ロシア皇帝たちは、改革者ニコンのほうを支持し、で、迫害、拷問が行われ、分離派の多くがウクライナ・シベリア・ロシア極東地域などに逃れました。

 結局最終的には最後の皇帝ニコライ2世は、分離派などロシア正教会以外の宗派も認めたことになったようですが・・・。

 現在でも、分離派の人口は100万-1000万と言われますので、これは結構な数字ですね。

 数世紀前に散在した分離派の子孫は、今も当局と隔離した状態で暮らしているそうですし、だからこそその数字にも大きな開きが見られるようです。

 現在でもロシア正教会の改革以前の古い礼拝様式を保持しているらしいです。

 話は本書に戻って、老婆の遺品のイヤリングを拾い、金に換えて飲んでしまい、そのことが発覚して逮捕され、やってもいない老婆殺しを自白してしまう、ペンキ職人のミコールカが分離派教徒です。

 ポルフィーリを通しての、ドストエフスキー氏の説明によれば、分離派教徒は罪の意識に突き動かされるのを好み、マゾヒスティックに苦しみを求めて自ら罪を引き受けた、かのように書かれているのです。

 ダヴィンチ・コードのオプス・デイを思い出します。

 そしてラスコーリニコフの夢による回想で、馬を虐待するのも名前がミコールカ・・・。

 ここに何か、隠された暗号はあるのでしょうか?

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