─光る波の間─

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私的 名和晃平作品感想総括(一年分) +美術の歓び

2012-04-30 20:06:57 | 名和晃平( KOHEI NAWA )

美術を観る時、技術・方法に関心を持つことはとても純粋で当然の反応なのだと思う。

銀座、DOVERSTREETMARKETに設置されている名和晃平さんの作品 [WhitePulse]
作品に思いを飛ばすと必ず、「硬かったなぁ」 という感触が同時に思い出される。
見た時にイメージされる手触りは、’しっとり’ ’ふにゃ’ ’とろり’・・・
なのに触ると、’ゴツッ’とか、’ガチッ’という感じで、私の中ではギャップがありすぎた。
一瞬ギョッとして、ちょっと後ずさったくらいに。
内装という面から見れば様々なことに耐えうる強度があって当たり前なのだけど、
作品という面から接したら、ふつうの美術鑑賞では得られない感覚を得てしまった。
だって通常は「触ってはいけません」 なのだから。

だけどパブリックアート、それも内装として設置されているのだもの、
触っていけないことなどない(はず)。というか、触らないなんてもったいない!でしょう。
商品を見ないで(何度も言うけど)内装をスリスリしてるのは傍目にだいぶアヤシイとはさすがに思ったので、
触ったのはちょっとだったけれど、それから1ヶ月以上経っても、
”視覚と触覚のギャップがあんなにあるなんて…”と、思い出した回数だけ何度も驚いた。
そうしたらふと、昨年の仙台での講演で、

  「液体なら、液体が流れている、その状態が好き。」

という発言をされていたことが思い出されて繋がって、1つの考えが浮かんだ。

 ”箱にも入れることなく、ふるふるたゆたゆとした液体の状態のままに保つこと。
  それを視覚的に実現させようとした。とか?
  そういう意図が、[WhitePulse]にあったのかな?
  …もしかして、そんな試みも含まれていたんじゃないだろうか… ”

そして石膏を使用してるというお話だったけれど何故かそんな感じがしなくて、
とても「石膏のみ」とは思えなかったのだけど、本当に石膏しか使われてないの…?

ある人は「技術的なことに目が行くような作品は失敗だ」と言う。
たしかに様々な表現において技術はその土台なのだから、そっちばかり目立ってはイケナイんだろう。
たとえばクラシックバレエはどれだけ優れたテクニックがあっても、役柄の感情や、
物語が観客に伝わらないなら全く意味が無いのだし。
けど「アート」の語源、ラテン語の「アルス」は「技術」なのだと竹山聖さんに教えられたことを思い出して、
”あ…そっか!”と目からウロコが落ちた。何かを見て感情が動いて、”どうやって作ったの?”って思うのは、
とてもピュアな、<始まりの問い> だよねってあらためて思ったのだ。
たとえばレオナール・フジタの描く女性を観て、あの肌の色や質感に「どうやって…?」と
思わない人っている?(いるかもしれないけど)

それからBRUTUS『西洋美術総まとめ』では山口晃さんが、絵画の中の工夫・テクニックについて、
 「… 圧倒的な物質性 が現物に触れる醍醐味であり、そこを捨ておいて精神性ばかり取り上げるのは、
  却って貧しい心の在り様…」(p95
と仰っていた。ものすごく共感というか納得というか、膝を打って「それです!」と。。

そういうわけで最初に戻る。

[White Pulse] はなんと石膏だけではなく、1Fのものは部分的にアルミが使用されているということだった。
あれが… アルミ??? すごい。。また新たな驚き!
スペースシャトルの先端部分を作るのと同様の絞り加工という技術で、3Dで設計した後に、
その設計通りに作られた回転体だということで、今すぐもう一度見に触りに行きたい衝動に駆られてしまった。
(北嶋絞製作所:へら絞り参考ムービー→ http://www.kitajimashibori.co.jp/business_procedure.html

そして石膏部分については、回転させながら固めていくので形態が現象的になるそうで、
アルミ部分とは異なり、形が偶然につくられること、石膏が”自主的に”振舞うことをある程度許し、
流体は流体として造形する という方法を試みたということだった。
… ああ嬉しいなぁ!的外れな考えじゃなかったんだ。

少し前、このブログに 『Pulseーつながる』 という記事を載せた。
Pulseという単語からは、「不連続な点の連なり」というイメージを抱くのに、「回転」という連続した、
エンドレスなイメージの働きで作られてるのかって思うと、なんだかとてもおもしろい。
回転しながら、流れながら、”途中”で固まった [White Pulse] は、回転し続けていて発信し続けている。
完成してるけど未完。ずっと途上なんだ。
そして「回転/回転体」とは単に事実で、技法と形を語ったにすぎない言葉かもしれないけれど、
私は今とても気になる、とても、引っかかってくる言葉。 更に、ぐるぐる回るといえば…

  ループ / 循環

そう、イ・ブル展のトークイベントで語られたこのキーワード。
でも同じところを回っているのではなく、螺旋になっているようなイメージを持つ。
上から見たら同じ所でも、横から見たら前とは別の地点に到達しているっていうイメージだ。
もう、今はほんとに自分の中だけの予感なのだけれど……(黙)


(店内の詳しい様子はDOVERSTREETMARKETへ)


物心ついたころから理由もなく、絵、芸術表現の類が好きだった。
少々は自分でも描いたし、観るのももちろん大好きで、小学校のときは図書室から
美術図鑑のギリシャ・ローマ時代とルネッサンス時代ばかり、借りてた。
成長とともに好みもだんだん変化して、ハマる時代も様式も変化していったけれど、
現代美術はほんとに、なかなか落ちてこなくて、せっかく同じ時代に生きてるのに…と、
自分自身を残念に感じることもあった。 ・・だから今すごく、楽しいって感じてる。
今とこれからを創ってる人々の表現行動に芯からワクワクする。
予兆めいたものは何年も前からあったなぁとは、振り返って解ること。
自分の中の時代進行が、ようやく現代に追いついたって感じがしてる。

私は名和さんが 「個人の物語を表現するのは止めた」 以降の作品しか見ていない。
それで、その”以降”の作品を見る時の、この感覚の揺さぶられ方は何なのだろう?といつも考えてた。
(というか、”考えさせられていた”という方が感覚的に近いのだけど)
あれだけ「感情」を削ぎ落した表現をしていながら、なんで最も奥底の感性のコアに触れてくるんだろ?
思い出したり写真や記事を見るたび、これなんなんだろうって不思議にすら感じていたけど、
ある時フッと、それが自然の美しさや凄まじさに触れた時の感覚にとても近いということに気づいた。

自然は、当然だけどわざわざこちらの感情を動かそうとしているわけではなく、
人の情念から完全に離れている現象だ。
だけど非常に圧倒的であり、「私」という個を忘れさせると同時に強く認識させる、その感覚と重なるのだ。
とはいうものの、
「アニミズム?でも剥製を使ったものはともかく、例えば [LIQUID] のどこにそれを見出せるんだろ?」
という疑問が今度は立ち上がり、また別の悶々が始まってしまい。。
(突き詰めれば同じ粒・分子の振舞いではあるんだけれど…)

この悶々が解消されたのが3月20日。イ・ブル展での名和さんのプレゼンによってだった。
実際に名和さんご自身から、ごく僅かな情報しか知らなかった初期の作品の意図、
現在の表現に至るまでの経緯、”個人的な”経験が語られたことで、コンセプトや素材など、
どう広がって繋がっていったのか、大河のような流れが突然目の前に現れたように感じて、すごく興奮した。

そしてもう一つ浮かび上がってくる感覚→言葉は 「絶対的な孤独」 。
それは寂しいのでも悲しいのでもなく、ただ 「孤独がある」 ということ。

‥もしも。1つだけ名和さんの作品を身近にすることができるなら、
そのときはあのSynthesis展の 「グレーの[Dot-Synthesis]の部屋ごと」 がいいなと思ってる。
あの空間はまるで坐禅堂にいるような感じがして、とても静謐でニュートラルになっていって、
杉本博司さんの [海景] を観るときと似たような感覚に包まれたのだ。
多くの人が出入りしていたけど、まるで自分一人だけでそこにいるみたいだった。
私的空間として想像するとそこは、茶室を一回り大きくした位の広さで入り口も茶室と同様、
そして壁面4面に座位に合わせた[Dot]が設置されている。 まさに”神聖(神性)なるもの”
(と書くと意味が狭まってしまう気がするけど他に適切な言葉が浮かばない)との 「接続の入り口」
自分の内側の最も静かなる場所へ(コアへ)すとんと降りていける、瞑想そのものだ。。

名和さんの作品には、オシャレ、スタイリッシュという感想が多いようだけど、
私は作品そのものに対してそれらの言葉が浮かんだことは無かったな。。
ドライ、クール(冷静という意味で)とは感じるし、神聖さ云々抜きに純粋に感覚を楽しみながら観て
全然いいと思うし私もそうやって観るのが大好きだ。(むしろ最初はそこからなのだし)
けどスタイリッシュっていうと単に世間の流行みたいな、"空気読んで"作ったみたいに思えてしまうから。
そんなに、狭っ苦しく制作された作品ではないでしょう?

でもこんなふうに感じたり考えたりしたことに、自分自身が縛られないようにしたい。
イ・ブルさんが仰ったように、自分の認識が覆ることを怖れず柔軟に。
きっと、そうしてた方が楽しいから!


  自己にさえ囚われないでいい 自己表現の時代は終わった


… 強い風が、体の中を吹き抜けていった。





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アーティストHP→ http://www.kohei-nawa.net/http://sandwich-cpca.net/



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