これから先はキモい事が書いてあるので読まないように。絶対に引いちゃうから、読んだら。
何かを期待することを止めたはずだった。それが僕の一応の答えだった。世間に対する向き合い方は諦念。そうしたつもりでいた。つまりはすべてに対する諦め。何かを期待するから、何かを得られなかったときのギャップに絶望…とは言わないまでも否定的なものは湧く。それが嫌だったから。それが嫌だったから、諦念することにした。はずだった。それは自分が変わることへの抵抗だったのかもしれない。自分のうじうじしたところは嫌いだけれども、それを変えることは望まない自家撞着な気持ち。
でもちょっとだけ自分が変わったら、周りの風景が変わった。それは僕の勘違いかもしれないけれど。例えばゼミに積極的に参加するようになったら、周りと打ち解け始めた。それは”普通”の人にとっては当たり前のことかもしれないけれど、僕にとってはこの上なく嬉しいことだった。ゼミに出るのが楽しみになった。だからこそ温泉も行ったし、タイにも行く。バイトまでして。
バイトにしても、嫌々やっていた頃は、バイト先の、バイト先の人の嫌なところばかり目に付いて、嫌で嫌で仕方なかった。毎日文句ばかりたれていた。それが今、積極的にかかわりを持とうとしただけで、すごしやすいバイト先になった。嫌に見える面も割り切れる、許せるようになってきた。それは今だけかもしれないけれど。でもそれでもそれだけで前に比べれば遥かに働きやすい現場になった。
だけれどそれはいつも何か、自分の期待したものを得られるとは限らない。それは分かっていたはずなんだけれども、十重に。けれどもお子ちゃまな僕はやっぱりそこで駄々をこね回してしまう。期待したものが得られないと。もちろん大人だから周りに悟られないように、そっと自分の中で駄々をこねくり回す。だから時々無性に悲しくなったりしてしまう。
だからこそ諦念を腹に据えてきた。それでうまくやってきた。何かは得られないけれど、代わりに何かを得られないときのギャップも無い。いじけることも無い。そう考えてきた、でもそれじゃ、駄目なんだと。そんな気がしている。それじゃ、楽しいことも無いや。あともうちょっと。あと、もうちょっと。
せっかくだからアンニュイと言っておこうよ。
シャバでバイトやっているのだから平気だよ!
頭の中がお花畑と言うか、でもこの問題意識は季節ものじゃないんだよ…それがまた痛い…
バイトは相変わらず親戚の旅館だし、そしてタイは行けなくなってしまったけれど、19日の飲み会は参加します。