竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

五月の頌歌

2010-05-12 08:59:24 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・古今集耕読
五月の頌歌          (6)

 題しらず       よみ人しらず
時鳥(ほととぎす)鳴くや五月(さつき)の 菖蒲草(あやめぐさ) あやめも知らぬ 恋もするかな  
 時鳥が鳴く五月に咲きほこる菖蒲草、その菖蒲ではないが、この世の筋道(あやめ)もわからなくなるほど、私は恋に焦がれている。 

 古今集では五巻に収められている恋歌の最初の歌である。初恋に焦がれた若者の心情を吐露するのが趣意であろうが、この歌の魅力は、むしろ「あやめ」の語をひき出すための上三句の修辞(序詞)にある。
 「人生が愉しく感じられる五月の季節とその季節を代表するほととぎすと菖蒲草との風物を詠みこんでいて、清新で明るい。そのために、下句の恋の悩みも、憂鬱なものでなく、溌剌として、すがすがしい味わいの歌となっている。」(窪田章一郎)

 近代詩人の木下杢太郎は、自作の詩「五月の頌歌」で、「さう云う五月が街に来た」というリフレインを効かせて、明治末期の都会風俗を通してしゃれた季節の感覚、初夏のさわやかな心地よさを歌って、当時の人の共感を得たが、「よみ人しらず」のこの歌も古今集時代の人々に広く愛唱されていたに違いない

 四季の移り変わりに富んだ美しい風土に育まれた私たち日本人は誰も、五月の初夏の季節感とその風物によって、そぞろ人恋しい気分になる。馬齢を重ねた老人にしてしかり。青春のただ中にある若人は、世間体をはばかって律儀にじっとしておれない気分になる。
 思えば五十年もの昔、故郷を離れて学生生活をスタートした五月のある日、私はただひとり、郊外の日本庭園に遊び、都会に住むたくさんの垢抜けした女性に出会った。折から池のほとりは、菖蒲の花盛りであった。それは、端正な花茎には不似合いな乱れがましさであった。その時、柄にもなく一首の歌が生まれた。私の歌の処女作である。
 おのがじし ますぐ伸びたる 花菖蒲
 しどけなきごと 花びら垂れたり

コメントを投稿