竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

俊成と定家

2012-04-20 08:12:57 | 日記
 日本人のこころの歌 (20)
    ―私家版・古代和歌文学史

  俊成と定家(新古今集二)

 藤原俊成とその子・定家とは、古代から中世にかけて、時代の転換期に生きた大歌人であった。俊成は、91歳で亡くなり、定家は80歳過ぎまで生きていたから、ともに当時としては希有な長寿であった。
 俊成は、後白河上皇の時、皇后宮大夫になり、皇后が皇太后になっても引き続きその大夫として、結局57歳からの6年間は、同じ役所の長官であった。定家は歌人として後鳥羽上皇に認められ、長く侍従職として仕えた。
 俊成・定家の家柄は、藤原氏の中でも「御子左家」という和歌の名家であり、俊成は後白河法皇から第七勅撰集「千載集」撰進の院宣を受けた。
俊成は、63歳の時、大病を患い、退官するや出家して釈阿入道となり、以後30年近く、歌道に勤しんだ。その間に詠んだ歌は、若い頃に提唱した「幽玄体」という、実生活とのつながりの薄い理念化された表現を離れて、喜怒哀楽を虚飾なく率直に吐露した、抒情的ものが多くなった。その点では長年交遊のあった西行の歌に近づいている。西行は、俊成より3歳若かったが、74歳で他界した。
 定家はその日記「明月記」に「紅旗征戎吾が事に非ず」と記しているように、芸術至上主義者として歌道にひたすら精進した。彼は歌こそ自己を超越できる絶対的な「美」として造型しようとした。「歌ことば」は美を生みだす根源の力を持つものと考えた。彼は、偏狭と言えるほどに、学究的・唯美的姿勢を崩さなかった。
 それだけに彼は少なくとも歌に関しては傲慢であった。俊成の「幽玄」に対して「有心」という美的理念を掲げ、優美な情景、洗練された情趣の表現に命を削った。
 後鳥羽院は、その歌論書「御口伝」の中で、定家の歌については一通りのほめ方にとどめているが、俊成と西行の歌は手放しで賞讃している。後鳥羽院にとって、歌の理想の詠歌法は、対象や事象に接した時、自分の感じたことをそのままストレートに詠い出すことであった。その姿勢は、晩年の俊成や西行の歌には十分伺えるが、定家の歌には見出せないものであった。

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