日本のアンソロジストたち――大伴家持伝(9) 安積親王への挽歌
恭仁京への遷都の大事業がスタートして5年目の744年(天平十六)、聖武天皇は突然に難波宮に行幸された。恭仁京で留守の任にあたったのは知太政官事・鈴鹿王と参議・藤原仲麻呂であった。聖武天皇の唯一人の皇子・安積親王も、父につき従って同行していたが、「脚の病(脚気?)」を発症して途中から急遽、恭仁京に引き返した。そして、その二日後に親王は急死した。享年17歳、あまりにあっけない最期であった。皇子は当時、聖武天皇の唯一の男皇子であったが、その生母が身分の低い「夫人」にすぎなかったため立太子できず、藤原不比等の孫で光明皇后の皇女の阿部内親王が女性皇太子になっていた。ただ、安積親王の母方の親戚には、いまや左大臣となった橘諸兄がおり、反藤原の諸氏は秘かにこの親王の即位に期待をよせていた。
難波宮でこの凶報を聞いた聖武天皇と橘諸兄には激しい衝撃であった。家持の属する旧族にとっても、痛恨の事件であった。安積親王の存在を快く思わぬ藤原仲麻呂の謀殺の嫌疑もあり、家持は慄然としたのであろう。ひたすら親王への追慕の日々を過ごした。彼は二度にわたり安積親王を追悼する挽歌(それぞれ長歌一首と反歌二首)を作った。つぎの歌は、それぞれの反歌中の一首である。
○あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも(巻三)
(山のくまぐままで照りかがやかせて咲き盛っている花が、にわかに散ってしまったような、わが大君よ。)
華麗ではかない花になぞらえて、徳高い親王の早逝を悼むとともに、その死によってその周辺まで一挙に暗闇となってしまったように感じたのである。
○大伴の 名負ふ靫(ゆき)帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ(巻三)
(靫負の大伴と名の知られているその靫を身につけて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心を、今はいったいどこによせたらよいのか。)
大伴氏は、天孫降臨以来、「大いなる伴(供)」として、天皇を護衛する筆頭の豪族であった。家門対する誇りの高い家持の一族は、安積親王の将来に大きな期待を寄せていたのである。
聖武天皇は、745年(天平十七)、官人、僧侶らの意見が平城還都に一致したことをうけ、都を旧来の平城京に復した。その翌年、家持は宮内少輔に昇進し、越中守に任ぜられ、赴任することになるのである。
恭仁京への遷都の大事業がスタートして5年目の744年(天平十六)、聖武天皇は突然に難波宮に行幸された。恭仁京で留守の任にあたったのは知太政官事・鈴鹿王と参議・藤原仲麻呂であった。聖武天皇の唯一人の皇子・安積親王も、父につき従って同行していたが、「脚の病(脚気?)」を発症して途中から急遽、恭仁京に引き返した。そして、その二日後に親王は急死した。享年17歳、あまりにあっけない最期であった。皇子は当時、聖武天皇の唯一の男皇子であったが、その生母が身分の低い「夫人」にすぎなかったため立太子できず、藤原不比等の孫で光明皇后の皇女の阿部内親王が女性皇太子になっていた。ただ、安積親王の母方の親戚には、いまや左大臣となった橘諸兄がおり、反藤原の諸氏は秘かにこの親王の即位に期待をよせていた。
難波宮でこの凶報を聞いた聖武天皇と橘諸兄には激しい衝撃であった。家持の属する旧族にとっても、痛恨の事件であった。安積親王の存在を快く思わぬ藤原仲麻呂の謀殺の嫌疑もあり、家持は慄然としたのであろう。ひたすら親王への追慕の日々を過ごした。彼は二度にわたり安積親王を追悼する挽歌(それぞれ長歌一首と反歌二首)を作った。つぎの歌は、それぞれの反歌中の一首である。
○あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも(巻三)
(山のくまぐままで照りかがやかせて咲き盛っている花が、にわかに散ってしまったような、わが大君よ。)
華麗ではかない花になぞらえて、徳高い親王の早逝を悼むとともに、その死によってその周辺まで一挙に暗闇となってしまったように感じたのである。
○大伴の 名負ふ靫(ゆき)帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ(巻三)
(靫負の大伴と名の知られているその靫を身につけて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心を、今はいったいどこによせたらよいのか。)
大伴氏は、天孫降臨以来、「大いなる伴(供)」として、天皇を護衛する筆頭の豪族であった。家門対する誇りの高い家持の一族は、安積親王の将来に大きな期待を寄せていたのである。
聖武天皇は、745年(天平十七)、官人、僧侶らの意見が平城還都に一致したことをうけ、都を旧来の平城京に復した。その翌年、家持は宮内少輔に昇進し、越中守に任ぜられ、赴任することになるのである。
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