静かな劇場 

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56年前の宗務総長の憂い

2012-09-13 12:05:20 | Weblog
昭和31年、真宗大谷派の総長が、寺院の現状を嘆き、
何とかしなければならないという思いを宗門白書で述
べています。
しかし、それから56年が経過した今、真宗大谷派は
どうなったでしょう?
当時の総長の予想を遥かに上回る、憂うべき状況にあ
るように思われます。


■ 昭和31年4月3日 宗務総長 宮谷法含

ー、宗門の実情

いまの宗門は、5年後に宗祖聖人の七百回御遠忌を
迎えようとしている。しかも、御遠忌を迎えて、われ
らは一体何を為すべきかの一 途が明らかでない。

宗門全体が足なみをそろえて進むべき態勢が整うて
いるとは思われない。このままでは御遠忌が却って
聖人の御恩徳を汚しはせぬかとの声をも聞き胸をも
打たれる次第である。

この憂うべき宗門の混迷は、どこに原因するのか。
宗門が仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他
に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからで
はないか。

今日宗門はながい間の仏教的因習によつて、その
形態を保つているにすぎない現状である。

寺院には青年の参詣は少なく、従って青壮年との溝
は日に日に深められてきているではないか。

厳しく思想が対立し、政治的経済的な不安のうずま
く実際社会に、教化者は、決然として真宗の教法を
伝道する仏法者としての自信を喪失しているではない
か。

寺院経済は逼迫し、あやしげな新興宗教は、門信徒
の中に容赦なくその手をのばしてきている。

教田の荒廃してゆく様は、まさに一目瞭然であるが、
われらは果してこの実情を、本当に憂慮し、反省して
いるであろうか。

まだ何とかなるという安易をむさぼる惰性に腰かけ
ているのではないか。

大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいな
がら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を
覚える宗門になつてきているのである。

極言するならば、われわれ、宗門人は七百年間、
宗祖上人の遺徳の上に安逸をむさぼつて来たのである。

いまや御遠忌を迎えんとしてわれら宗門人は、全身
を挙げて深い懺悔をもたねばならない。

単に御遠忌のにぎにぎしさを夢みることによつて、
この現状を糊塗するようなことがあるならば、宗門は
疑いもなく、歴史から冷やかに嘲笑を浴びるであろう。

宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発
すべき関頭にきている。懺悔の基礎となるものは仏道
を求めてやまぬ菩提心である。

混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、生々溌溂たる
真宗教団の形成を可能にするものは、この懺悔と求道
の実践よりほかにない。

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これが56年前の宗務総長の反省、ならびに警鐘です。

しかし、この20年後には、あの「お東騒動」がおき
ています。

ためしに「お東騒動」でググッてみましょう。
いかに大谷派の坊主が、難しい理屈を振り回し、御門徒の
教化そっちのけで、権力闘争をやってきたかが分かります。
それでも大谷派の坊主が言うには、〃大谷家を権力の座
から追い落とした栄光の歴史〃なのだそうです。
狐と狸の化かし合いとは、決して考えないようです。

私たちからすれば、
〃栄光〃でも〃化かし合い〃でも、どっちでもいいですが、
坊主たちが覇権を争っている間、馬鹿を見たのは100万
の御門徒でしょう。

物心両面で寺を支えてきたのに、一体、何を教えてもらっ
たのか?教えてもらったとして、それは『御文章』の教え
どおりだったのか?
後生を不問とした近代教学を独自に立て、一貫して後生の
一大事の解決を説く『御文章』を、所依の聖教からはずす
くらい嫌ったのですから、いわずもがなです。
「後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
     世渡る僧と なるぞかなしき」
まさに、源信僧都の母君のお嘆きのとおり、
御門徒こそ、いい面の皮だったのではないでしょうか。

そんな浄土真宗の流れを変えようと奮闘している親鸞学徒
を、カルトとしか見ない、件の坊主(大谷派では重宝され
ているようである。あちら側からすれば利用価値は高いだ
ろうから)が、親鸞学徒に、

「今救うという本願に気づいていない」

などと説教するに至っては、もう返す言葉も無い。
言いたい放題。ここは「先に言ったもの勝ち」の世界なの
だろうか?と思う。

今救う、今救うと、何とかの一つ覚えみたいに言うが、
仏願の生起本末に疑心の無くなったのが、聞即信の一念で
あろう。疑い晴れる一念の前に、そもそも仏願の生起とは
何か、この坊主は分かってのことなのだろうか?

「仏願の生起」の理解もあやしい坊主に、疑い晴れるの
晴れないのなど、問題になりようもなかろう。
幼稚園の女の子に、出産時の注意をしているような
ものである。
だとすれば、この坊主は、全くトンチンカンなことで
「今救われる本願」と言いまくっていることになる。

まるで闇夜に鉄砲ではないか。
どうせ何を言っても分かるまい、地獄なし、極楽なしと
タカをくくってのことだろうが、「語るに落ちる」とは
このことで、言えば言うほど、親鸞学徒なら、この坊主
の腹底が、信仰のほどが透けて見える。
気づかないのは哀れ、ご本人だけなのである。

その他、彼らの悪口雑言は、親鸞聖人の教えとは何の関係
もないので、スルーでいいだろう。彼らだけで盛り上がっ
ていればいいのである。

56年前の総長は、まだ
「宗門が仏道を求める真剣さを失い」とか、
「基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心」とか
「懺悔と求道の実践よりほかにない」
と、仏法者らしい矜持を持っていたようだが、
今日の坊主たちのように、善の勧めを不要と退け、
「自力」を廃したつもりで「無力」に陥り、
「今の救いです、今救われてください」
「ただです。そのままです。無条件です」
を、一つ覚えで繰り返すなら、宗務総長の危惧するとおり、
「宗門は内部から枯渇し、崩壊して、時代の前に無力無能
の形骸を曝すことになるであろう」
同感である。