静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

何に疑いが晴れるのか

2012-09-15 17:18:31 | Weblog
親鸞聖人のみ教えが、本願成就文の教えである
ことは、異論の余地のないことです。

「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の
『信心歓喜乃至一念』等の文をもって依憑とす、
このほか未だ聞かず」(改邪鈔)
【意訳】
 それが弥陀の誓いの真実か、どうかの判定は、
釈尊の「本願成就文」をもって基準とすると聖人
は教えられた。だから「本願成就文」の教えの
ほか、私は親鸞聖人から聞いたことがない。


つまり、この覚如は「本願成就文」の教え以外に、
親鸞聖人から教えられたことがないとまで明言され
ています。

では「本願成就文」とは、どんな教えでしょうか。
それは、『大無量寿経』下巻に、漢字、四十字で
説かれている釈尊のお言葉です。

「諸有の衆生、其の名号を聞きて、
信心歓喜せんこと乃至一念せん。
至心に廻向せしめたまえり。
彼の国に生まれんと願ずれば、
即ち往生を得、不退転に住す。
唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん」
(要約)
どんな人も、その名号を聞く一念に絶対の幸福(信心
歓喜・正定聚不退転)に救う、ただ五逆と法謗の者は
除くと、弥陀は誓われている。

と、阿弥陀仏の救いを釈尊は明らかにしておられます。

阿弥陀仏の本願に、どうすれば救われるのか。
釈尊の「本願成就文」から、
「その名号を聞きて」
と、聞く一つで助かることがハッキリします。

この「本願成就文」の聞について、教えられているの
が、『教行信証』信巻の

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」

のお言葉です。

仏願(弥陀の本願)の生起・本末に疑心の晴れた(信)
のが「聞」ですから、「聞即信」といわれるのです。

ここからも分かりますように、
まず、阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、よく納得する
ことが大切なのです。
仏願の生起本末を聞いてもいない人に、疑心など起きよ
うもないですし、起きてもいない疑心に、晴れるという
こともまたないからです。

阿弥陀仏の本願の生起本末とは、
弥陀は、どんな者のために本願を建てられたのか。
どのようにして本願を建てられたのか。
その結果は、どうなったのか、
ということです。

では、
弥陀はどんな者のために本願を建てられたのでしょうか。

『歎異抄』第1章には、
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」のため、とあり、3章には、
いずれの行にても生死を離るることあるべからざる
「煩悩具足の我ら」のため、とある。

『御文章』2帖目8通には、
「十悪五逆の罪人」
「十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる
 我等如きの凡夫」のため、

2帖目9通には、
「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、地獄ならで
は赴くべき方もなき身」のため、

とある。

挙げれば枚挙にいとまがないが、これらは皆、
「地獄行きの極重悪人の我々のため」、ということでは
ないのか。

それが認められない、そこに疑いがあるならば、
それを「仏願の生起本末に疑心あり」というので、
いかに「救われました」と言ってはいても、
「疑心あることなし」の、聞即信の一念を突破した、
他力の世界と異なることは、明々白々であろう。

ところが今日、お聖教どおりに我々の実機を説けば、
そんなのは勝手な解釈だ、脅しだ、カルトだ、思考停止だ
などと、坊主からして食ってかかる始末。

何を言おうと言論の自由かもしれないが、
そんな坊主が、仏願の生起本末に「疑心ある」まま
「今救われた!」
「今救われる本願に疑い晴れました」
などと言ったところで、泥酔者の寝言であろう。
どんなに大見得切ってみせても、まともに取り合わない
のが普通である。