いつも爽やかな応対に、ありがとうございます。
今日新聞を読みました。
昨年7月の「白蓮グループ大会」で先生は、
「〃白蓮〃には、別名があります。それは、【勝利の女王】という名前です」
「一番、大変な泥の中から、一番・清らかな花を咲かせるのが白蓮です」と大事な指導をされました。
一人も残らず全員が「勝利の女王」です。
ほんとにそうですね。いつも、ほんとに・本当に、頭が下がります。
11月18日の日には、みなさんといっしょに、私も大勝利の実証をもって・本部へ池田先生にご報告にとおもっています。
〇〇さん、いっしょに大勝利して、みなさんで本部に行こうね。辛かったでしょう。もう、大丈夫ですよ。(*^▽^*)/
今日新聞を読みました。
昨年7月の「白蓮グループ大会」で先生は、
「〃白蓮〃には、別名があります。それは、【勝利の女王】という名前です」
「一番、大変な泥の中から、一番・清らかな花を咲かせるのが白蓮です」と大事な指導をされました。
一人も残らず全員が「勝利の女王」です。
ほんとにそうですね。いつも、ほんとに・本当に、頭が下がります。
11月18日の日には、みなさんといっしょに、私も大勝利の実証をもって・本部へ池田先生にご報告にとおもっています。
〇〇さん、いっしょに大勝利して、みなさんで本部に行こうね。辛かったでしょう。もう、大丈夫ですよ。(*^▽^*)/
私は疑問だ。面に点は無限にとれると言うが, それはどうだろうか。
そもそも点は可視的でないし, 分けることも出来ない。にも拘わらず, 面から無限に捉えられると言うのはおかしくないか。いや, おかしい。何故, 分けることが可能なのか。
それは紛れもなく, 0(点)を偽装した1(存在)だからである。
【0∞1】
0は質であり事だ。つまり存在の1とて切り離すことの出来ない事であり, 1ですら質的な変化の前には絶対に保存出来ない。
ならば, 面から捉えられる疑惑つきの点とは, 質的な変化の中に絶対に保存できない粒(物)のことではなかろうか。
因果とは, 粒と無数の軌道を表す法則性。中道とは, 因果の破綻に伴う己意志の解放と, 俯瞰者としての自我の確立, 物に対する執着の終焉と柔軟な捉え方(認識), そして, これらを機軸とする物事の確立である。
結局, 私は点が膨張した不可分の面を観ているのだ。
《‥ああ‥物語は美しい。酷く滑稽なほどに‥》
【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。
原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。
ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。
即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。
《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》
【知・法の根本】
如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。
宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。