不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

私の少年時代ー2(草野球)

2021年05月07日 | 日記

私が小学生の頃は、(当時の呼び方で、町の中のひとかたまりの地域を指す。)中の子どもたちが集まって遊ぶのが常だった。

年長者がリーダーになって、遊び方も遊びの種類も代々下の者に伝わっていた。

私の時代の男の子は、野球が遊びの中心だった。

 

野球といっても、当時の田舎は貧しく、グローブ等の道具が十分にそろっていたわけではない。

各自が持っているわけではなく、グローブは攻防の度に限られた数を使いまわしていた。

当然、何も持ってない子もいた。

だから、ボールは素手でも受けられる小さめのソフトボールを使っていたのだ。

 

そして、一番の問題は野球をする場所である。

唯一のグラウンドである学校まで行くのは遠いし、競争率も高くほぼ使えない。

そこで、私たちは野球のできそうな適当な広場を探すのだ。

 

当時の田舎は、貧しくても庭は広い。

農作業に使うためだ。

だから、真っ先に向かうのは野球に適した庭だが、大抵そこには怖い顔をした主がいる。

うっかり球が軒先の窓や植木の盆栽などに当ったりしたら、それこそどんなに怒鳴られるか分かったものでない。

せいぜい、そこでできるのはキャッチボールくらいだ。

 

ところが、一ヶ所うってつけの場所を見つけた。

我が家の裏の畑脇にあった道が嵩上げされ、畑に続く空き地とつながってけっこうな広場となったのだ。

スペースの関係上、ダイヤモンドはかなり細長い菱形にした。

ピッチャーとファーストが兼ねられる程の位置である。

外野も右と左はほとんどなく、センターのみが極端に長い変則的な野球場であった。

 

その結果、自ずと打球をセンター方向へ飛ばすバッティングが身についたが、時々は振り遅れてライト側の民家に撃ち入れ、恐る恐るボールを取りに行ったりもした。

そんな時は、一発スリーアウト・チェンジ!の特別ルール適用となる。

レフト側に飛ばすと、昼なお暗い墓地の中にボールは消える。

しかし、ここは誰かに怒られるわけではないからワンアウトとした。

ところが、なかなかボールが見つからず、そのまま日没サスペンドゲームとなることもしばしばだった。

 

この特別野球場も、畑に蒔かれた農作物の種が芽を出す頃になると、私たちはより慎重にならなければならなかった。

場合によっては、しばらく野球は中止せざるをえないこともあった。

 

そんな時には、少し遠出をして野球のできそうなところを探すのだ。

白羽の矢が立ったのは、となりのお寺の境内だ。

ここの和尚もそこそこ怖いが、背に腹は変えられない。

追放されるまではやりきった。

 

野球場探しといえば、秋の田んぼの収穫後は絶好の形をした野球場だった。

何といっても広くて、外野には稲わらを掛けたオダが取り囲んでいる。

地面は刈り取った稲の跡が残り平らではなく、ゴロは容易に処理できず面白くない。

そこで、ゴロを撃ったらアウトというルールを決めて、全ては打ち上げるだけのバッティングにするのだ。

外野のオダを越えて、隣の田んぼまで飛んだらホームランだ。

 

刈り取った稲の匂いは本当にいいもんだ。

草を刈った後のあの匂いである。

 

畑脇のホームグランドも同じだが、私たちの野球場にはいつも草の香りが漂っていた。

まさに、あれこそ本当の草野球だったと思う。

 

今でも、あのいい匂いが漂うとあの頃を思い出す。

 

 

-S.S-


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私の少年時代ー1(牛の目の涙) | トップ | 私の少年時代ー3(紙芝居) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日記」カテゴリの最新記事