農村に生まれ育った私は、子どもの頃から家の手伝いをよくやった。
というか、楽しそうなことを遊びとして行っていただけだが…。
4世代9人家族の我が家は、当時では 珍しくはなかったが、親父一人の現金収入では暮らしも容易ではなかった。
基本的に食料は自給に頼っていた。
肉はめったに口にすることはなく、週に一度バイクで訪れる銚子の魚屋さんから買う旬の魚が唯一の定番だった。
さて、田舎は貧しく、隙間風が吹き込む様なボロ屋に住んでいたが、屋敷はけっこう広く、主屋以外にも木小屋、豚小屋、牛小屋、鶏小屋、納屋、風呂場、便所等々が建っていた。
自給するには様々な施設が必要なのだ。
牛小屋に一頭の乳牛がいたのは、私が物心のついた頃からである。
祖父が毎日一回搾乳するのを、傍でじっと見ていた記憶がある。
チュー! チュー!と勢いよく手で搾り出される乳がみるみるうちにバケツに満たされていった。
牛の顔は、なんだかとっても気持ちよさそうに見えたものだ。
私が手伝ったのは、稲藁を祖父が押し切りで細かく切った後、配合飼料と水を入れて、木の餌樽の中で混ぜ合わせる作業だった。
混ぜ合わせる平べったい棒が意外と重く、祖父が手を貸してくれたり、「少しづつ混ぜていけばいいんだよ…」と教えてくれたりした。
その様子をすぐ前で見ている牛さんは、もう我慢できないという感じでヨダレを流したり、「モオッ!」と声を出したりしている。
やっと餌にありつけると、がむしゃらに食べるのであった。
日中、暇そうにしている牛に、「これ食べる?」ってトウモロコシの皮を差し出したら、美味しそうに食べたこともある。
また、ときには牛小屋の天井に登って弟たちと遊んだこともある。
あんまり楽しそうに騒ぐ私たちの声に応えて、牛さんも「モオッー!」と鳴いてくれたりもした。
こんな日常を何年か繰り返したある日、朝からただならぬ雰囲気が我が家を包んでいた。
牛小屋には見たことのない大人が何人か来て、何やら祖父と話している。
牛は、何度も「モオーモオッ!!」と鳴いている。
そう、我が家の乳牛は業者に引き取られていくのであった。
トラックに乗せられる時、一際大きな声で鳴いたが後は静かに荷台に入って行った。
私は駆け寄って牛の顔を見た。
何か言葉をかけたのかどうかは覚えていない。
しかし、私ははっきり見えた。
牛の目から涙がこぼれていたのを…。
私は、祖父に聞いた。
「どうして、牛を売っちゃったの!?」
それまでにも、豚やウサギが大きく育ったら業者に売っていたことを知っていたからだ。
祖父は、悲しそうな顔を笑顔に変えて、「もう、牛乳が出なくなったんだよ…」と言った。
その後のことは色々聞きたかったが、私は敢えて聞かなかった様に記憶している。
(「江戸川教育文化センター」ブログ:2015/6/9より関係者の許可を得て転載)
ーS.Sー