生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

韓流キャラ

2010年08月23日 22時51分47秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月23日-3
韓流キャラ

 東京のdigtal 9chで、『快刀 ホン・ギルドン』をやっていたが、見た巻だった。9chは番組表に載っていない、どこ?。

 『太王四神記』のスジニ(イ・ジア)。なにはともあれ、面白いキャラ。
 『快刀 ホン・ギルドン』のホ・イノク(ソン・ユリ)。


美術修行2009年6月, 7月, 8月

2010年08月23日 00時03分41秒 | 美術/絵画
2010年8月23日-2
美術修行2009年6月, 7月, 8月

 2009年6月17日。64回2009 全道展/札幌市民ギャラリー。

 2009年6月17日。第39回 グルッペ・ゼーエン展/札幌時計台ギャラリーA・B室。

 2009年6月18日。田園都市のコンテンポラリーアート 雪と風の器 2009/帯広市民ギャラリー。

 
 2009年7月18日-8月30日の或る日。日本画の今 山本直彰展、いわさきちひろ美術展/平塚市美術館/JR平塚駅から。山本直彰展といわさきちひろ美術展とで800円。
 ちらしの文には、「いわゆる穏健な日本画の世界から離れ、現代美術のジャンルに属しています。現代に生きる人々の生と死といった深遠なテーマを大画面に表現したその作品群は、見るものに強い感銘を与えます。」とある。う~む。
 年譜に1995年からは膠を止めて、アートグルーに変えたとのこと。
 2009年「帰還 II」がやや良かった。帰還は、数mmのすきまあり。
 DOOR KK-6、IKAROS 20013、IKAROS 20014、少し良い。繊細さ、あるいは力強さか、何か欲しい。DOOR KK-6は縦の2か所に継ぎ目。IKAROS 20014、真ん中横の継ぎ目。
 PIETA 20071、一枚もの、かなり良い、惜しい。Memento mori、一枚もの、少し良い、惜しい。厚さ4cmくらいの側面には描いている。
 ドローイングが一面に、2枚に貼ってあるのを見て、思った。もし下絵に沿って描いていると、勢いがそがれるのではないか? 気合いを入れて一発勝負で筆を使えば、気はし〔解読不能〕が出てくるかも。

 2009年7月24日。心の中を見据えて・・・心象絵画/勝毎サロン(藤丸/帯広)。

 2009年8月1日-10月4日の或る日。伊藤公象 WORKS 1974-2009 秩序とカオス/東京都現代美術館。木の肉・土の刃、まん中あたりが良い。

 RUSCHA, EdwardのWesternについて紙片に書かれた解説に、
  「文字・言葉にとつて、その外皮である形象・映像は、実態のない記号を現実世界に定着するための単なる容器にすぎないはずである。だが、この外皮が絵画として芸術化されると、記号としての伝達性は希薄になっていく。……
 [ルッシェは、像と記号がいかに互いに排他的であるかを示した。一方を見れば、他方は絵画から消える。(英文を訳した)]」
とあった。

 中西夏之「洗濯バサミは撹拌行動を主張する」の紙片解説に、
  「読売アンデパンダン展……の展示では、洗濯バサミの大群がカンヴァスの枠を越え、周りに展示されていた下着や卵のオブジェにまで拡がっていたという。鑑賞者が床に散乱した洗濯バサミを何気なく拾って、洋服につけたまま帰ってしまうこともあったようだ。」
とあった。

 2009年8月1日-10月4日の或る日。平成21年度MOTコレクション第2期 展示 夏の遊び場 -しりとり、ままごと、なぞなぞ、ぶらんこ/東京都現代美術館。


美術修行2009年5月

2010年08月23日 00時02分40秒 | 美術/絵画
2010年8月23日-1
美術修行2009年5月

 2009年5月10日。09年山岳画展 山景探訪/NHK帯広ギャラリー。

 2009年5月15日。北海道立近代美術館所蔵 高橋博信浮世絵コレクション I部 ぶらり江戸めぐり/北海道立帯広美術館。

 2009年5月23日。第28回おびひろ市民芸術祭 帯広版画教会展/帯広市民ギャラリー。

 2009年5月23日。第28回おびひろ市民芸術祭 笛吹きピータン 音楽の庭 フルート・チェンバロ・ピアノコンサート/とかちプラザレインボウホール。

 
 2009年5月30日。元永定正展/三重県立美術館.最終日前日。
 9:40-。86歳。略歴に、「1955年 吉原治良の誘いを受け、具体美術協会に参加」。「ミッシェルタピエ氏に捧ぐ」とある。
 元永氏の口癖、「一寸先は光」。

 常設展示室(3)の2007年度収蔵作品の舘勝生(1964-2009)「June.7.2007」が爽やかで色もある。

 11:15 芸術情報室にて、「現代美術と日常」という李禹煥へのインタヴュー記事を、芸術批評誌『リア』no.11(2005.9月)に発見。「アートは知識人のやることであり、常に疑問符を提示すること、それが「発言」することなのです。」(7頁)とあった。

 永見隆幸「ギャラリストの決断力と実行力」に、

  「普通の商品は、ある程度普遍性を獲得しているものならば、手間暇かけたものはよく売れる。然るに芸術作品は心を動かすものなので日常の生活空間にあると存在感が大きすぎて困ることがある。良いものほど訴える力が大きいのでその傾向はますます強くなる。売り絵などは心を動かされてないから邪魔にならないので飾りとして売れる。」

 では、感動するような映画を放送するテレビ、あるいはレンタル作品の映像を見るモニターはどうなのか。一時的なもので、いずれ日常に戻るから、ということなのか。
 あるいは、(あるとして)心を揺さぶられる詩集を読む場合はどうなのか。本であれば、読むのを止める、さらには閉じればよい。
 つまりは、絵画は視覚に訴えるものなので、室内に置けばおのずと目に入る。それは、視覚空間からの刺激として落ち着かない要因となるかもしれない。
 やはり癒し系、たとえば緑が基調のもの。希望が湧くようにするには、黄色系か。
 あるいは、画面の前に開閉式カーテンをつけるというのはどうか。

 
 2009年5月30日。芥川紗織展/一宮市三岸節子記念美術館/500円。池田龍雄氏の講演「芥川紗織とその時代」を聴いた、面白かった。染色は退色するのか。
 トゲトゲの鉄線のような輪郭の、河原温の作品二つ。
 三岸節子「自画像」、ほほえましい。「さいたさいたさくらがさいた」93歳、尋常ではない、鬼気あり。
 
 2009年5月30日。上村松園・松篁・淳之 三代展/ジェイアール名古屋タカシマヤ10階特設会場/800円。「焔」を当初のように、蜘蛛の網の糸を今の銀色で描くと、現物の黒っぽい網よりも頼りなく、迫力がない。あるいは模写すると、筆の勢いが無くなるのか、あるいは、気合い(これはなんだろう?)が入っていないのか。

「進化は事実である」仮説/備忘録

2010年08月22日 01時19分08秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月22日-2
「進化は事実である」仮説/備忘録

 備忘録。
 石川(2005:166)は、ハワイ諸島におけるショウジョウバエ属の多様性を、「進化の要因とメカニズムを探るためにこそ、〔進化という事実についての〕ゆるぎない証拠は必要である」ことを実感させてくれる好例だとしている。この166頁で述べている文章は、どういう論理的構造なのかが、わからない。どうも、結局、石川の意図とは反対に、ショウジョウバエ類がハワイ諸島で生物相独占的に種類が多いということは、進化の証拠にはならないことがもどかしいのか、と受け取ってしまう。いずれにしろ、創造科学との関係で論議しているのだが、論理的筋道がごちゃごちゃしていて、何かを言いたいことの根拠立てがわからなかった。
 ジョージア州コブ郡の或る学区の教育委員会は、高校の生物学の教科書にステッカーを貼るようにという通達を出したが、そのステッカーには、石川(2005:164)によれば、

  「進化は生物の起源に関する理論(theory)ではあるが、事実(fact)ではない。」

とあったそうである(おそらく、進化理論は種の『起源』に関する理論ではない)。事実という認定にも、種類と程度があるから、どのあたりで事実と認めるかは様々だが、人類によって、新種が生成したということは観測されていない(と思う)から、進化(という現象)は事実とは言えないのは確かである。したがって、進化理論があるとすれば、その第一仮定は、
  <進化は事実である>仮説、
である。さらに、この仮説において、

  1. 現生生物体のすべてが、過去に遡れば親子関係で繋がる
  2. 化石種(に属するもの)として知られる生物体すべてを含んで、それらが親子関係で繋がる

と親子関係で繋がれる生物体の範囲をどれくらいにするかの問題がある。
 そして、たとえばタクソンで範囲を定めるならば、単性〔あるいは無性〕生殖生物体の場合として、

  a1-a2-……an - b1-b2-……bm

において、aiとbiは生物体を表わすものとし、aiは種Aに属し、biは種Bに属するものとする。
 仮にこれらの系列の生物体が観測されて、an - b1の親子関係が観測されたとしよう(漸進的に形質が変化していったとしても、以下の議論は同様に成立する)。すなわち、

  A→B

という種的移行が、生物体の親子系列において確証されたとする。
 しかし、A→Bが観測されたからといって、L→Mとか、他のP→Qという種的移行が確証されるわけではない。もし、Animaliaというタクソンに属する全生物体について、「進化は事実である」仮説を確証したいならば、種を単位とすれば、種的変換のすべての過程について確証しなければならない。どこか一つの段階ででも、神は遍在するし万能らしいので、「そこのところだけは、神様のわたくしがやりました(創造しました)」と主張するかもしれない。

 われわれが観測するのは、

  親生物体とそれの子生物体は、同種に属する (生物学的同定における公準(の一つ))

ということである。というか、これは生物学の公準である(雑種生物体のように例外はある。しかし、われわれはそのようなことを同定できるし、どの二つの種に属する親からの雑種生物体なのかを言い当てることもできる)。これは科学に関することであるから、その確証について言えば、親子関係を観測し、その二つの生物体について同定すれば同種となることが判明すればよろしい。(逆に、もし異種に属する生物体が産まれてきたように見えれば、それはたとえば寄生生物体ではないかと、われわれは考えるのである。だから、よく似た寄生生物体が混在していることが見逃されていたということは、よくある。或る雌に同種の雄が寄生するという場合もある。)
 そうすると、親子関係で繋がっている限りの過去に存在した生物体へと遡れば、それらの系列の生物体たちは同種に属することになる。むろんわれわれは、同種だとは考えず、異なる種に属する生物体がいっぱいいる、またはいたと考える。すると、このような公準を採用するならば、あちこちのどこかで切れていると考える方が、節約的である。あるいは少なくとも「進化は事実」仮説とは同等的に節約的である(どういう意味で?と問う人がいるかもしれないが、うっちゃっておく。各自考えよ)。この場合、進化はまったく生じなかったことになる。

 (厳密に書いていくと、文がややこしくなり、話が進まず、ますます伝わらないことになるし、何を言おうとしていたのか、忘れる、忘れた……)

 
[I]
石川統.2005.5.結び 社会の中の進化学.長谷川眞理子ほか,『進化学の方法と歴史』: 163-170. 岩波書店.



実際に相互交配することと、相互交配可能であることとの違い

2010年08月22日 01時13分06秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月22日-1
実際に相互交配することと、相互交配可能であることとの違い

 さて、Mayr (1942)の定義には弱点があるが、それは「実際の、対、潜在的」の区別が不必要であることだと、Mayr (1982: 273)は言う。

  「『生殖的に隔離している』は、生殖的隔離メカニズムを持つことを指している〔参照している refer to〕からであり、そして或る所与の時にそれら〔このそれらとは、isolating mechanismsを指すのか?〕が挑戦を受けるかどうかは、種の地位にとっては無関係である。」(Mayr 1982: 273)。

  「より記述的な定義とは、_一つの種は、一つの特異なニッチを自然において占有する個体群たちの〔of = 個体群たちから成る?〕、一つの生殖的共同体である_。」(Mayr 1982: 273)。

 おっと、ニッチは生態学的概念だが、その定義は色々であるから、この文は実際上は無意味に近い。もちろん、ここは他の著者から批判されたところである。

 『生殖的に隔離している』は、隔離的種概念の鍵言葉であるわけだが、それは隔離の原因についての疑問を提起し、この問題は『〔生殖〕隔離機構』という概念の発展によって解決された、とMayr (1982: 273)は言う。

 Dobzhansky (1937)は、隔離機構を地理的と生理的の二つに分けたが、生理的隔離機構だけが種がもつ真の性質だとは理解しなかった。そこで、Mayr (1942)は、隔離機構として、地理的障壁をはっきりと除外し、種の生物学的性質に限定した(これは正しい方向である)。それでも、困難が残っていた。それは、「完全に良い種であっても、ときたま、個体は交雑するという可能性があることである。言い換えれば、隔離の諸機構は、個体群の統合性を提供することだけが可能であり、最後の最後の単一個体にまで提供するのではない。こう認識したので、Mayrは定義を改善することとなった。すなわち、

  『隔離の諸機構は、実際にまたは潜在的に同所的な個体群たちが相互交配することを妨げる、諸個体の生物的性質である』(1963: 91)。」(Mayr 1982: 274)。

 潜在的に同所的な個体群たち、って何? potentiallyなんて、解釈が定まらない言葉を使ってはならない。

 「生殖的隔離は、しかしながら、種の二つの主要な特徴のうちの一つでしかない」と、もう一つのものとしてニッチへとMayrは向かっていくのであった。
 む? 結局、Mayrは、実際的と潜在的の区別は不必要である理由として、述べているところが、わからん。ニッチへと逃走していくので、どうでもよい感じだが。後で、ニッチを引っ込める理由のところはどこに書いてあるのかな。一応、さきほどの原文を掲げておこう。単にわたしの英語力の不足かもしれないので。

The "actual vs. potential" distinction is unnecessary since "reproductively isolated" refers to the possession of isolating mechanisms, and it is irrelevant for species status whether or not they are challenged at a given time. (Mayr 1982: 273)



黴の華の舞い、(黴の種は尽きまじ)

2010年08月21日 19時04分48秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月21日-3
黴の華の舞い、(黴の種は尽きまじ)

 あちこちでカビていた。

        黴
         黴黴
     黴 
   黴黴
  黴黴 黴 黴 黴 黴
 黴黴 黴黴 黴黴黴  黴
   黴黴 黴 黴 黴
     黴 黴黴

 黴もまた美しい。
 それは、神々しい営みの華である。
 それは、蒼き来るべき人、風の谷のナウシカ、が感謝した生きものたちの繋がりあった営み、を讃える象徴的(この「象徴的」とは、どういう場合を言うのだろうか)な生きものである。

 ひょっとしてすでに、わが肺に、Aspergillus属の生物体が咲いていたりして。(そう言えばひところ、団地住宅のベランダに鳩が巣を作ること多く、その糞が媒介となるのか、子供の脳に黴が生えるとかの騒ぎがあったような。今はどうなっているのだろう。)どうであれ、黴びたダンボールの数々は、火で浄化するに限る。ごめんね。

 昨日、黴吸入防ぎにマスクをして、おおよそ手袋もして、ダンボールその他の家のなかのゴミを軽自動車で三回、ごみ処理場に搬入して捨てた。単価 10kg 毎 160円とある。

  50kg  800円
  60kg  960円
  80kg 1,280円
  計   3,040円

 あちゃー、。それに、ゴミ捨ての動機となった、長い刺のある梅の木の枝は、ほとんど残ってしまった。もっと乾燥すれば軽くなる、よって重量制ならば費用が少なくなるが、堅くなると切りにくくなる。短く切っておいて、それから乾燥させるのがよろしい。(てなこと言っている時間があれば、他の優先順位の高いことをやりなさい。仰せの通り。)それにしても10kg 毎でなくて、5kg毎としてほしいところだが、車で測っての差し引きだし、巨大トラックも計測するわけで、このような単位なのだろう。

 食事代として朝200円、昼800円、夕1,000円、おやつや夜食や交通費その他もろもろを1,000円とするような、豪華な一日が過ごせたのに。そもそも、捨てるような物は、買わないに限る。反省すべし。日々、反省。平安時代は、一日に二食だったらしい。(食事についてのいわゆる西洋流の結論では、朝抜きは良くないというが、人によっても違うと思うが、朝抜きは胃腸を一日のはじまりに整えるのに良いとか言う人もいたりするわけで(言論の自由)、)朝抜きは、調子が良いような気がする。本当のところはわかりません。何を指標あるいは判断の基準に取るかで、変わってくるだろう。

 搬入の場合は、燃えないゴミについても、さらに分けておれば、出したり積んだり、あちこち行ったりすることが少なくなる。燃えないゴミと燃えるゴミの大分けをして、どちらか出す順番を決めておくのは最低限やっておくべきである。つまり、積み込みの順番を考えておくこと。
 
 ついでに捨てることにした90cm四角などの大きさの木の板や重い石膏板などは、大型の箇所で車から出して自分で捨てる。日頃に筋が鍛えられていなかったためと思うが、翌日、ボールペンで字を書くのに力が入らず、少し難儀した。

 それにしても、様々な臭いがする中で働いている人々に、感謝。

 交通費はどこの土地でも高いが、ここは、水道代、ゴミ捨て代といった生活に必要な経費が、他の自治体と比較して高いし、分別も種類が多くて時間がかかる。

 昔、年末のゴミ収集のバイトをしたことがある。
 事故が起きたことの、因果関係。



生殖隔離的種概念からシステム的種概念へ

2010年08月21日 16時27分24秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月21日-2
生殖隔離的種概念からシステム的種概念へ

 Mayr (1982: 273)は、生殖隔離的種概念 isolation concept of species(これを生物学的種概念と呼ぶのは、止めよう)のMayr (1942)の定義を引く。

"Species are groups of actually or potentially interbreeding natural populations which are reroductively isolated from other such groups" (Mayr 1942: 120; Mayr 1982: 273により引用)。

  「種は実際にまたは潜在的に相互交配する自然な個体群のグループであり、かつ、それは他の同様のグループから生殖的に隔離しているグループである。」
 〔論理的関係を明瞭にさせるために、このように訳した〕

 この定義は、本来の定義ではなく、実際の個体群(『個体群』がまた定義されなければならないことが問題。そして、「個体群」を定義するのに種が潜んでいることが多い)、現実に或る個体群のグループ(ここでこのグループを類別するのが困難)が、相互交配またはあるいはかつ、あるいはまたはとかつ("or", or, "and" or both)生殖隔離という基準で類別している。生殖隔離という基準だけでは、種とは何かというように定義していないから、明らかに、操作的「定義」である。相互交配という基準をもちいる場合も、種とは何かに答えているとは言い難い。すくなくとも、直裁に答えてはいない。

 相互交配するかどうかは、有性生殖する生物体では、現実に、雄一個体(個体m1)と雌一個体(個体f1)の間で、交配するかどうかを判定するということになる。すると、結果は(同一種または異種に属する)生物体間によって。その種類と程度は様々である。たとえば、交尾しても受精しない、受精しても胚発生しない、胚発生しても初期で止まる、(同一種だと同定される生物体間で)個体によってはその程度が様々である、孵化に至らない、子が生成されても生殖可能ではない、子が子を産んでも一代限り、あるいは数代限り、いくらでも生殖する。(ここでは論じないが、生殖可能かどうかの判定について、有性生殖の場合に固有の問題があることに注意。)

  〔詳細に書き出すと、先に進まないな。そろそろ旅の支度を〕

 1. 自然な個体群 (「自然な」とは野外でのことで、人為的環境下での個体群?と対照させている?)
 2. いくつかの自然な個体群を、相互交配または生殖隔離によってグループ化する
  (→そのようにグループ化したものは、実在者なのか構築体なのか?)


 生物体たちを、何らかの基準でまとめることをするのは、人であるから、そのようにしてグループ化された対象は、構築体である。それ(ここでは相互交配すること)が、現実に作用する力によって、生物体たちを結合させている力と対応すれば、したがって、生物体たちから構成されるシステムとなっているのであれば、よい。

=== 脱線別欄 はじまり ===

 実際の親子関係にもとづいて、生物体を類別することは可能である。その構成の仕方は、EVOLVE(番号未詳)で記述した。
 図解すると明らかなように、そのように分けたところで、分類的実践には、何の役にも立たない。あなたは、(どういうわけか産出されて)現実に(どんな現実かは、棚上げする)存在すると仮定する。あなたの両親がいて、そのまた両親がいて、さらにまた両親がいて、……。つまりあなたという一個の存在者は、幾多の先祖代々の営みのうえに築かれた、歴史上稀有なる奇跡的(!?)な存在者なのである、うんぬんかんかん、がくがく……。

 それではあんまりや、ということなら、もそっと形質でも付け加えよう。あなたの眼は三角錐である。あなたの母もそうである。そしてその母の母もそうである。……いつのまにか、そのまた母の眼は球形である。

 『いつのまにか』、というのが気に入らないのなら、或る原因または理由で、世代を下って観測すると。あら不思議、球形が三角錐になっちゃった……(カメレオン説話を見よ)。つまり、「変わるべくして変わる」と言うのと、たいして変わらへんのとちゃう?
 (故)今西錦司氏の言う「変わるべくして変わる」は、生物は「変わるべきときが来たら、変わる」という表現と同じだったと思うが、そうならば、少しわかりやすい。システム変換の状況を言っているとする解釈も可能だろう。むろん問題は、いかにして、である。
 『なぜ』などに答えるのは放っといて、『いかにして』に答える。たとえば、現象や存在者について、変数を抽出または設定して(特に比率尺度または間隔尺度の)変数間の関係(関数関係)を問題としたこと、それは確かに近代科学の成功の理由(の一つ)であっただろう。

 アリストテレスの四つの種類の説明を無視することはできない。

=== 脱線別欄 おしまい ===
 
 しかし、相互交配の基準では、同一の種タクソンに属するかどうかは、様々であるという実際の欠点がある。(実は、そもそも定義になっていないから、その点からは、実際の欠点があろうとなかろうと問題外である。というより、一般的に言って、操作的なやり方をすることから、そのような欠点を生じさせることが多い。)
 むしろ、生物体間で相互交配が可能ということは、それらの生物体たちが同一の種に属するからである。つまり、或る種が(もちろんどの種も)もつ性質の一つである。種一般がもつ性質は他にもあるので、これから考えても、種の定義とはなっていない。相互交配も、生殖隔離も、一つの判断基準なのである。形態的や生態的に多くの形質が異なっているので、別種だと考えられる生物体間でも、どういうわけか子ができるかもしれないから、<判断基準としては>、生殖隔離のほうが重視される。むろん、定義としては、Mayrがやったようにしないと、表面上は定義にならない。生殖隔離だけでは、或る二個体が同一種かどうかの基準を与えないからである。
 
 また脱線した。持っていきたい方向へ戻る。

 網谷(2002: 75頁)は、後にMayrが「実際にあるいは潜在的に」という語句を削除した理由は、「生殖隔離機構の存在は、当該(諸)集団の(実際の相互交配の有無に関わりなくあてはまるので、わざわざ「実際的/潜在的」ということを示す必要はない(Mayr 1982: 273, 1992: 229, 2000: 95f)」と、註に紹介している。
 「潜在的に」とは、言葉の意味から言って、そもそも観測しないことの話である。それなのに、たとえば機会があれば、或る二個体が交配することが、どうやってわかるのだろうか。操作的には、わかるはずがない。推論するとすれば、その二個体からの外部形態とか(お好みなら、なんらかのDNA配列)のもとづくものであろう。しかしその推論は、すでに或る種(タクソン)についてそのもととなる性質から判定できることがわかっているからの可能である。定義する場面の話ではない。

 また少し脱線した。
 (なんやったっけ?)
 
 そうそう、「潜在的に」ということが、種の定義と関わる(つまり、種の本質。ところで、Mayrによる本質主義批判なるものが、批判にはなっていないことについても論じなければ……)という方へ議論を持っていくことであった。

 さて、Mayrの隔離的種概念の定義なるものは、無性生殖生物体には適用外である(定義が、個々の生物体について判定基準となって適用されるということが、そもそもおかしい)。その適用範囲のことに、批判があるが、定義は自由なので、逆に無性生殖生物体には種というものが無いのだとしてもよい。そうすると、{種が定義できる生物体、種が定義できない生物体}と、あらゆる生物体が大きく存在様式で二つに分けられる。
 どうです、生物学的世界が二分割されて、すっきりとした気分になりませんか?

 それはともあれ。

 有性生殖する場合で、
  <生物体たちが相互交配可能であるのは、それらが同一種に属するからである。>
 
 つまり、Mahner & Bunge (1997)が言うように、話が逆なのである。
 そしてこのように考えた定義を考案すれば、無性生殖生物体でも、n性生殖生物体(nは0以上の整数値。3性の場合には、「両性」という語の指示対象が不明瞭になる)でも適用できるだろう。

 そこで、よくよく考えると、

  1. 分類とは、われわれが誂えたカテゴリーを操るという、頭の体操なのだから、生物(学的)分類において、用いられる種タクソンとは、構築体以外ではあり得ない。

  2. しかし、生物体たちが産出されるという現象を考えると、また、たとえば形態的、生理的、行動的などについて測定されれば、それらの異種間測定値に見られる離散性もまた明白である(間が連続的な場合も観測されるが、まずは大部分を救うことが肝要である)から、これらは、種というシステムの存在ゆえに結果する(そのような現象が観測される)のだと考えるのが、妥当である。きっと、それが正しい。いや、間違いない。なぜなら、何らの欠点もなく、操作上のものではなく、概念としての定義になっているからである。よって、わがシステム的種概念 the systemic concept of species が、完全無欠に正しいのである(豪快気炎、瀑笑〔お好みなら爆笑、ビールを飲みながらのときは麦笑〕)。

http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3075945
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=2781665
 
[A]
網谷祐一.2002.E・マイヤーの生物学的種概念.科学基礎論研究 (98〔号〕): 23-28〔別表現では、29〔巻〕: 75-80〕.

[M]
Mahner, M. & Bunge, M. 1997. Foundations of Biophilosophy. xviii+423pp. Springer-Verlag.
Mahner, M.・Bunge, M.(マーナ,マルティーン・ブーンゲ,マリオ).1997, 2000.(小野山敬一訳 2008.8)生物哲学の基礎.xxi+556pp. シュプリンガー・ジャパン.[ISBN 9784431100256] [y13,000+]
 
Mayr, E. 1982. The Growth of Biological Thought: Diversity, Evolution, and Inheritance. ix+974pp. The Belknap Press of Harvard University Press.


美術活動の展望はどこにあるのか?

2010年08月21日 13時50分38秒 | 美術/絵画
2010年8月21日-1
美術活動の展望はどこにあるのか?

 (このプログでの文献に登録していなかった)須賀『日本美術界の実態:私の視点』の「〈追記〉美術公募団体の展望」(107-129頁)を再読。その前の第V章は、「公募団体の特質と斜陽化」(79-105頁)である。
 日展の集客数は抜群である。或る美術館の各展覧会ごとに入場者数や一日当たりの入場者数で見ても、他の突出して多かった美術展と遜色が無いくらいである。東京で十数万人(須賀 2008: 110-111頁)、大阪で数万人くらいの観覧者(大阪市立美術館か大阪市の発行印刷物のデータを見た記憶で)がある。(工芸部門での会員先生による、30分予定のが1時間くらいにもなったミニ解説は大変良かった。出品作品が良かったし、また解説者の意欲が感じられたし、解説姿勢と内容が良かった。後に大阪で、それらの工芸作品を再び見ようと思ったが、見当らなかった。洋画部門では、藝術院とかなんとかの審査のための方に出されていて、いくつかが展示されていなかった。)

 『芸術新潮』によると(1985年2月号だろう)、
  入場料収入   1億数千万円
  出品料収入     8千万円
  カタログ売り上げ   〔?〕
  広告料        〔?〕
とのことである(須賀 2008: 110-111頁)。

  「〔日展の洋画部門は〕魅力的な画家がいた。公募団体は圧倒的に洋画部門が多く、光風会、一水会、東光会、示現会、白日会などの日展傘下団体を寄せ集めても、その魅力には限界があった。
 ……彫刻部門は、そのほとんどが写実系である。これが三百点余展示されている状況は、私には異様な感じがする。」(須賀 2008: 110-111頁)。

  「『週間新潮』02年6月20日号〔の〕……福田和也の「闘う時評」〔に〕、「平山郁夫展に暗然とする」という題で、平山に対する批判が二ページにわたって掲載されている。……「俯瞰写真のような平板な画面に辟易し、」……「……観光写真のような作品群……と、児童書の挿絵……ような、歴史への敬虔さのかけらもない作品ばかり。……失笑するしかない図柄。」(須賀 2008: 118頁)。

 (元の文献を読んでいないが)引用されている部分だけでは、福田氏が画面がどうなっているからということに言及しての批評ではない(ようだ)。観光写真のようでも、児童書の挿絵のようでも、敬虔さのかけらもなくても、良い作品はあり得ると思う。「お得意の金ピカで描かれた世界地図を背景に、キリスト、釈迦、マホメットの三人が一堂に会するという失笑するしかない図柄」と言うが、そういわれてもなぜ「失笑するしかない」のかわからない。考え方によっては、世界地図は象徴的提示だし、代表的三人もなんて豪華でよろしいかも、である。やはり、画面のどこがどうだから、しかじかである、そこでわたしはあれこれこのように感じるまたは思うと、言うべきだろう。しかし、評価については、わたしもまったく同意する。
 須賀(2008: 119頁)の「私は平山作品からインパクトを全く感じない」も、その通りである。なぜだろう? 一言では、reality、ここでは存在感とか迫真性が無いということだが、それはなぜなのか? 原爆被爆体験からかなり経ってようやく描いたという作品(題名失念)を期待して見にいったが、迫力が感じられなかった。一つは構図が関係していて、童子が画面に比して小さいことがあると思う。しかしなによりも、炎にしても焼けている建物にしても、平板であり、おそらく対象の空間的配置が通常視覚的な配置であることと、岩絵具の配色の問題だと思う。
 朝日新聞2007年9月14日に掲載された、草薙奈津子氏の高山辰雄追悼文の、「高山辰雄は、日本画が陥りやすい形式化、装飾化、視覚的な美的表現に向かうことを拒否し、より精神的な絵画表現を求める道を選んだ」を、須賀(2008: 119頁)は引用し、平山郁夫氏とは「対称的」(→対照的ではないか?」な位置に考えると言う。

 国画会については、「彫刻部は研究会をつくり、その結果を秋に発表するなど、前向きな姿勢が好感を持たれている」と須賀は書く(123頁)。

 モダンアート協会については、「徒らに規模を大きくしようとして、例えば京都の前衛陶器のグループを会員に招待したりするのに疑問を感じ退会した。……実験精神を持った新人の出品も七〇年頃から減少し、展覧会の質的稀薄化は増した。」(須賀 2008: 123-124頁)。

 「どの公募団体も有力新人の出品が減少して、増えることは考えられないのが悩みの種である。……
 この一〇年間を考えてみても、公募団体展評を掲載した主要新聞は一紙もない。これが新人の出品意欲をそぐ一因とも考える。また、札束奉納の異常な日本藝術院会員選挙なども影響しているだろう。」(須賀 2008: 128-129頁)。

 う~む。他の公募団体についても記述して、問題点を指摘している。しかし、公募団体のこれからの展望についての提案は、特には書かれていないと思う。有力新人は、公募団体以外から出て来ているのだろうか? そうだとしたら、それはいかにしてか?

 (芸術の推進または発掘。過去作者では、伊藤若冲や曽我蕭白の発掘(?)。→奇想の系譜。)

[S]
須賀通泰.2008.4.日本美術界の実態:私の視点.(口絵)7+133pp.幻冬舎ルネッサンス.[y1,470] [B20080916, Rh20080917]

[T]
*辻惟雄.2004.9. 奇想の系譜 (ちくま学芸文庫).筑摩書房.[y1,365]


科学素養〔読み書き能力〕science literacy/欠如モデルから市民参加モデルへ

2010年08月19日 15時10分03秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月19日-5
科学素養〔読み書き能力〕science literacy/欠如モデルから市民参加モデルへ

 
 藤垣(2008 in 藤垣・廣野 2008: 109-124)の「受け取ることのモデル」という章の「6.2節 欠如モデル」から、欠如モデルについてまとめ、少しテキト~な考えを加えると(カタカナ語はそれなりに直した)、次の通り。

1. 欠如モデル

 人々の無知や科学的素養の欠如という理由で状況を理解しようとするモデル。科学者側は、一意に定まる正しい知識を持つのに対して、公衆には欠如している人がいると考える。回答による多くの調査の前提となっている。
 受け取ることのモデルは、
  1. 科学とは、正答誤答が一意に定まる正しい知識からできており、公衆はそれらを受け取る。
  2. 公衆はそれらの知識が欠けている。
  3. その欠けている状態を測定することができる。
を暗黙の前提としている(112頁)。

 112頁で言及されているように、日本の科学技術政策研究所の2001年の「科学技術に対する意識調査」(渡辺政隆『一粒の柿の種』で言及しているもの。
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3087053
を見よ)は、質問項目への回答によって科学リテラシーが計測されており、欠如モデルを前提としていると考えられる。

 一つ大事なことは、生活していくうえで騙されないとか偽物を買わないことであり、根拠はなんだろうかと学ぶことであり、安易に信じないこと、疑い、偽装を見抜くこと、などである。ニセ科学批判信仰団みたいなものがあるとすれば、おそらく欠如モデル型になっていると予想される。

 Ziman ザイマンは、単純な欠如モデルを離れるほうが、人々の科学理解を豊かに説明できると考える。また、
 欠如モデルのなかの、
  科学知識が増える→科学への態度が肯定的になる
という仮定をテストした Sturgus 〔113頁のSturgisは誤植だろう〕 & Allum (2004)によれば、→のところで、人々の政治的知識が影響することが示唆されたという(113頁)。

 また、Bucci (????)によれば、バイオテクノロジーについての意識調査から、
  (~について)正確な知識を所有している→(~に対する)態度が肯定的になる
の両者の間で、相関が見られなかったという(113頁)。

 欠如モデルの次は、文脈モデルである。

 
2. 文脈モデル

 状況(文脈)に即した situation-specific, contextualized 知識を一般の人は持っているとするのが、文脈モデルである。
 放射性物質汚染といった、対処を迫られた場合、状況(文脈)に応じて、科学的知識以外の種類の知識や判断が必要になる。
 Wynne ウィンによると、科学についての公衆理解の三つのレベルとは、
  1. 知識の中身
  2. 方法論
  3. 知識が組織化される形式や制御
である(114頁)。

 鍵句:教科書的知識と文脈的知識、そして政治的知識。

 文脈モデルでは、
  「知識を受け取るとは、教科書的知識をそのまま受け取り、その種の知識の有無を問われる問いに正答できる知識を身につけることではなく、それらを日常の文脈のなかで位置づけ、自らのまわりの状況に役立つ形で蓄積することである。」(藤垣 2008: 115頁)。
 
 
3. 素人の専門性 lay-expertiseモデル

 文脈依存的知識が、大きな集団としての「素人の知識」として組織化されることを強調すると、素人の専門性 lay-expertiseモデルになる。素人は、たとえば遺伝学に関して、技術的知識(ウィンの言う知識の中身に相当)、方法論的知識(方法論に相当)、制度的知識および文化的知識(これら二つは、知識が組織化される形式と制御に相当)を使う(115頁)。
 素人の専門性モデルは、文化人類学や民俗学などでの、局所的知識 local knowledgeにほぼ等しい(116頁)。
 素人の専門性モデルでは、一方向の伝達ではなく、素人から専門者への局所的知識の伝達も行なわれるから、科学コミュニケーション〔交達〕に役立つと、藤垣(2008: 117頁)は言う。

 生態学で、地球のどこででも適用できる一般的理論と、地域で役立つ理論、に関係しそうな話。(大きく)関与する変数の取り方の問題にも関係する。
 現場で得られる知識が役立つのは、より多くの変数についての観測、解決策をよりしぼることができること、その地域に特異的な生物体やそれらが作り出す環境などを暗黙にでも利用できること、といったあたりか。まだまだありそう。

 素人の専門性モデルの双方向的交達を想定しても、たとえば御用学者や御用科学者の問題はどうなのだろうか。とりわけ、たとえば実験装置や計測装置やコンピュータの運営維持費用だけでも大きな、ましてや新設するとなると莫大な費用がかかる、いわゆる巨大科学では、経費獲得が大変だという問題がある。
 
 
4. 市民参加モデル

 双方向伝達(あるいは、素人の専門性モデル;「これに加えて」のこれが、どちらを指示しているのかわからん)に加えて、意思決定への参加、市民の力づけ empowerment〔→市民への権限付与、が良いのでは?。いや、違うか。「情報を受け取ることは、次の行動を力づける」(119頁)とあり、妥当なのだろうが、この解釈は本当に妥当なのか、少し疑問を感じる。市民が政策決定に関わるなかで市民が力づけられるのか、行政が市民になんらかの権限を与えるのか、あるいはどちらも含むものなのか〕 を考慮したものが、市民参加モデルである(117頁)。
 社会的合意形成や政策の意思決定を、市民参加型で行なう。
 手段または方法として、
  合意形成会議 consensus conference
   専門者だけでなく、市民から公募した討論者 panelist〔あちこちにカタカナ語が多いが、特に、パネラーといった和製英語は使わないでほしい〕が加わる。

 
 おそらく、藤垣『専門知と公共性』を読むと理解が深まるだろう。

 多くの学会では、学会誌を出版社に託しているが、藤垣(2009)が指摘する以外にも弊害も出てきているようである。対処策の一つは、ネット上の電子媒体だけでの発行という手であろう。そしてだれにでも無料で公開してほしい。

 
[F]
*藤垣裕子.2003.5.専門知と公共性:科学技術社会論の構築へ向けて.224+xiv pp.東京大学出版会.[y3,570] [Oc404]

藤垣裕子.2009.「偽学術雑誌」が科学コミュニケーションにもたらす問題.カレントアウェアネス, (302), CA1700, pp. 7-8. http://current.ndl.go.jp/ca1700.

藤垣裕子・廣野喜幸.2008.10.科学コミュニケーション論.xv+284[+1=執筆者および分担者一覧]頁.東京大学出版会.[y3000+] [OcL]

[W]
渡辺政隆.2008.9.一粒の柿の種:サイエンスコミュニケーションの広がり.8+197頁.岩波書店.[y1800+] [OcL]


美術修行2007年9月

2010年08月19日 11時49分18秒 | 美術/絵画
2010年8月19日-3
美術修行2007年9月

 2007年9月7日(金)。第52回新北海道美術協会展(新道展)/札幌市民ギャラリー。
 第2室、15:11、湿度56%、温度摂氏26度。
 工藤悦子「夜の鼓動」、素晴らしく美しい。すとうえみ「天紫」F100x2、好きな題材でも構図でもないが、抜群の描写力。女の顔、とくに唇のリアリティはすごい。福島靖代「鎮魂の郷」、色のハーモニーがよい。1室には0~3人までの人口密度、ときどき女性の香水にはへきえきする。第52回と第49回の図録を買った。

              第52回       第49回
  総搬入点数          469点        434点
  展示数   会員   92人  92点    88人  88点
        会友   49人  49点    36人  36点
        一般   127人  128点    134人  134点
        合計   268人  269点    258人  258点

 北海道新聞2007年9月4日夕刊7面(文化)に掲載の、佐藤孝雄「求めたい活気、壮観さ 第52回新道展を見て」には、「立体、インスタレーションの層は薄く、寂しさは否めない」、「時代の流れだろうか、ひところのような抽象画というのは少ない」、「全体的には主題の追究、表現の掘り下げなど、一工夫も、二工夫もあっていい」とある。この記事で参考になる鍵語句は、線表現が軽妙、空間構成、。
 
 
 2007年9月8日(土)。澁澤龍彦 幻想美術館/札幌芸術の森美術館。

 2007年9月9日(日)。第28回ぽぷりの会画展/NHKギャラリー(帯広)。

 2007年9月14日(金)。日本フィル/帯広市民文化ホール大ホール。指揮:小林研一郎、ドヴォルザーク「新世界より」。ピアノ:小林亜矢乃、グリーグ「ピアノ協奏曲」。

 2007年9月29日(土)。熊澤桂子展/弘文堂画廊。空き瓶を再利用した時計。

美術修行2007年7月、8月

2010年08月19日 10時45分38秒 | 美術/絵画
2010年8月19日-2
美術修行2007年7月、8月

 2007年7月12日(木)。中谷有逸展 2007 -十勝百風景-/弘文堂画廊(帯広)。

 2007年7月28日。美しさへの挑戦ーヘアモード・メイクアップの300年ー/帯広美術館。コレクション・ギャラリー プリントアートの冒険/北海道立帯広美術館。一原有徳。中谷有逸、凹凸併用版。フランク・ステラ、エッチングなど。

 2007年8月4日(土)。中野隆介展/弘文堂画廊(帯広)。

 2007年8月12日(日)?。北の風土と四季の彩り/北海道立帯広美術館。三岸節子「摩周湖」のemerald green。

 2007年8月12日(日)。十勝の新時代 X 梅田マサノリ展/北海道立帯広美術館 コレクション・ギャラリー。梅田マサノリ トークショー「バランスの代償について」。

美術修行2007年6月

2010年08月19日 00時46分29秒 | 美術/絵画
2010年8月19日-1
美術修行2007年6月

 2007年6月4日(月)。MONET 大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産〔→印象派の巨匠とその後〕/国立新美術館[Art Center]/割引引換券でy1,400。「かささぎ」雪景色に惹かれるのは、なぜ? 睡蓮は大山崎に四つあるうちの一つが良い。94=w.1802 アサヒビール所蔵、ではないと思うが。

 2007年6月4日(月)。第63回現展/国立新美術館。

 2007年6月5日(火)。ねむの木のこどもたちとまり子美術展/森アーツセンターギャラリー。

 2007年6月6日(水)。レオナルド・ダ・ヴィンチー天才の実像/
  受胎告知。二度並ぶ。間近に見ても薄暗い照明とガラス越しなので、わからん。単眼鏡か双眼鏡を持ってくるべきだった。
  1452-1519。V. 万物の運動。「レオナルドにとって、人間や自然はなによりもまず「動く」ものであった」。
  VI. 絵画への結実。「ten offices of the eye: obscurity, light, body, color, figure, site, removal, propinquity, motion and quiet. 絵を10のパラメータ:暗、明、題?、色、形態、位置、*さ、近さ、動き、静止。」
  上村松園1918「焔」。一途の妖しさか。藤(の色)の清楚さと狂気の長髪の毛。10m離れると藤は見えない。

 2007年6月6日(水)?。パリヘーー洋画家たち百年の夢:黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治から現代まで/東京藝術大学大学美術館/y1,300。◎藤田嗣治「タピスリーの裸婦」。
 芸大コレクション展「新入生歓迎・張るの名品選」/東京藝術大学大学美術館 展示室2。○原田直次郎「靴屋の親爺」。△高橋由一「美人(花魁)」。◎加山又造「倣北宗深山凍林」。
 平川滋子「環境アート・ビデオドキュメンタリー 2007年」。「地球は巨大な「経済の庭」と化しています。……「庭」は田畑へ出る前に自然界の荒ぶる神を鎮め、仕事をつつがなく行〔な〕うための祭祀場だったのです」(「神々の滑り台」の解説文より)。
  
 2007年6月6日(水)。95周年記念 日本水彩展/東京都美術館/y700→y200。写真可。斎藤直子「まるのかたち」、稲穂をコラージュ、ツブツブも、**も。

 2007年6月6日(水)?。会田誠 山口晃 展/上野の森美術館/y1,000。山口晃 | 山愚痴屋澱エンナーレ 2007。

 2007年6月10日(日)。プチ アトリエ展/NCアートギャラリー(帯広)。

 2007年6月16日(土)?。美しさへの挑戦/帯広美術館。

 2007年6月18日(日) 16:00-。武満徹トリビュート・コンサート〈SOUL TAKEMITSU〉/東京オペラシティコンサートホール。
 2007年6月18日(日)。武満徹|Visions in Time展/東京オペラシティアートギャラリー/公演チケットで半額y500。クレーの水彩画は退色して暗かった。


美術修行2007年5月

2010年08月18日 23時09分23秒 | 美術/絵画
2010年8月18日-5
美術修行2007年5月

 2007年5月4日(金)?。創造する多面体 ダリ展/サントリーミュージアム[天保山]/y1,200。かつての栄光のダリはいずこ?

 2007年5月5日(土)?。 ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展 パリを魅了した江戸の華ー北斎・写楽・歌麿/大阪市立美術館。ジャポニスム(日本趣味)。

 2007年5月5日(土)。第60回全関西行動展/大阪市立美術館。
          出品者数 出品点数
   絵画部委員    104   104
   絵画部一般     96   126
     合計     200   230

 2007年5月5日(土)。第52回日本画公募大美展/大阪市立美術館。二つほど良かった。

 2007年5月5日(土)?。宮本政子第13回洋画展/阪急百貨店うめだ9階美術画廊。
   無関係メモ:色鉛筆でフロッタージュ。

 2007年5月17日。2007バステル画企画展/藤丸7F催し会場。

 2007年5月26日。ヨーロッパ絵画展~天使がいた時代~〔~バロックから近代へ~〕/帯広美術館。


美術修行2007年1月, 2月, 4月

2010年08月18日 19時04分51秒 | 美術/絵画
2010年8月18日-4
美術修行2007年1月, 2月, 4月


 2007年1月7日(日)/千住博ーフィラデルフィア「松風荘」襖絵を中心にー/山種美術館。

 2007年1月17日(水)/フランツリスト室内管弦楽団演奏会/帯広市民文化ホール大ホール。viol. 前橋汀子。

 2007年2月20日(火)/外山啓介デビュー・ピアノリサイタル/とかちプラザ・レインボウホール/y2,000。

 2007年4月27日(金)/福田平八郎展、コレクション・ギャラリー/京都国立近代美術館/y1,000。

 2007年4月28日(土)/第33回大阪日曜画家展/大阪府立現代美術センター。

 
 2007年4月28日(土)/ミニアートツアー『現代美術の回廊ーーココア[COCOA]Corridor of Comtemporary Art/大阪府庁本館1階から3階までの吹き抜けロビーと本館2階の廊下/申込不要・参加費無料。14:00-15:00。数分遅れて追いついて参加した。

 大阪府立現代美術センターで入手した『plug 007』に、「大阪・アート・カレイドスコープ」のプロデューサー〔制作者〕である北川フラム氏の「アートは都市を救えるか?」の記事あり。

  「東京……は……、まったくの空(くう)だと思っています。対して大阪は、近代建築や水都の歴史といった基本的な地域のインフラがあるということです。そして街をうろうろしているうちに分かってきたのは、まちづくりやアートのグループが、個々それぞれにいいものを持っているということ。それも企業に媒介されているのではなく、人を媒介として動いている。つまり基本的な人間の力は東京よりずっと高いという意味で、極めて面白いし有望だと思っています。
 ……この展覧会について告知するために東京でもシンポジウムを開催して、「大阪はがんばっているし、基本的に力があるぞ」ということを伝えたかったんです。そうでないと、東京の大阪に対する認識は、いつまでたっても「お笑い、たこ焼き、阪神」から抜けられない。)。(北川 2007.3 3頁
http://www.osaka-art.jp/genbi/katudo/images/plug_007.pdf
)。

 政治経済の中心とは離れた地域の固有性を主張するには、創造都市と文化首都という考え方だという。関西では、国の助成を受けて、文化力をうたっている。
 ミース・ファンデルローエ Ludwig Mies van der Rohe の均質空間が、美術において対応するのが、ホワイトキューブ〔白方体〕だ(北川 4頁中央欄)という。どこてででも作品が同じように見えること、これが狙いらしい。効率性、指定者管理制度。

 「美術家は直感的に社会の問題を表すことができる、美術こそが今、問題を提出できる、ということで元気になってきたんです。1997年のミュンスター〔彫刻プロジェクト〕はさらに重要で、地域固有の問題に分け入っていかないと意味がない、という意識が出てきました。それが、先ほどお話した、地域に固有の価値を発見していく動きにも結びついていくわけです。」(北川 4頁右欄-5頁左欄)。

  「場所に対する理解と敬意があるならば、土地の人が参加するということが起こってくるわけです。……
 みんな現代美術は表現である、と思っているけれど、個人の表現という意味なら、それは間違いです。美術は本来、我々の住んでいる場所や、自然、文明と人間との距離を表現してきたんです。例えば、富士山との距離について、“ここから50キロです”という言い方をする科学とは違う、直感的な距離こそをアーティストたちは見せようとしてきたわけです。」(北川 5頁中央欄-右欄)

  「日本にはかつて市民社会がなかったという決定的な理由があって、そういう〔=美術界の外にアーティストを支える〕構造が成り立たない。……街の人たちと関わり、自分を支持する人たちを見いだしていくことで状況は変わりますよ。」(北川 5頁右欄)
 
 処方箋を箇条書きにしてもらえるとよかったのだが。

=== 
[M]
*宮津大輔.2010.5.現代アートを買おう!.集英社新書.[y735]


「偽科学」の未同定性/ニセ科学批判の迷妄

2010年08月18日 15時45分21秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月18日-3
「偽科学」の未同定性/ニセ科学批判の迷妄

 (いると仮定しての話だが)ニセ科学批判者たちが、一般的概念として科学を絶対的に崇めるのはいいとしても、なんらかの判断基準で或る主張や理論や営為をニセ科学と同定することがあるとすれば、それは論理妥当的ではなく、したがって非科学的である(科学度皆無(ゼロ)を非科学的という科学的の対極に定めることにする)。
 要は、或ることをニセ科学だと同定できたとするのは、根拠が無い。
 或る主張が間違っていましたと判明する(とみなされる)ことはあるだろう。しかし、もし、或る主張の論理性や経験的根拠を追求することにとどまらずに、これこれはニセ科学ですと主張するならば、ニセ科学だとする論拠または基準を無批判に祭り上げた独断的教義であり、悪い意味での宗教化である。或る派の科学教またはニセ科学教と呼んでもよいしろものとなる。

 科学が言及できる対象を、あらかじめ決めることはできない。科学的営為、したがって科学的知識(体系)は動的であり、とりわけその観測対象を拡げる(理論と相互依存的な)観測装置の出現によって大きく影響される。
 科学が言及できる対象を、あらかじめ決めることはできない。或る時点での科学知識体系とそれが用いる観測装置にもとづけば、しかじかであるという主張ができるのであり、或る主張を確証する営為は、また別のことである。そしてまた、一つや二つの実験や同様の追試で絶対的に確証されるわけでもない。少数の観測でもって確証度が高いと思うのは、綿密に設計され、かつ厳密に観測条件が整えられて支障無く実施された場合である。ここですでに、様々な段階で、究極のところは(正しく実施されたと)信じることにもとづいていることが明らかである。(われわれは何を指示しているのか、それは実験や観測の系で正しく同定されているかといった、やっかいな問題もある。)
 
 たとえば、個人ごとに異なる魂がその肉体から離れることが人の死であると(或る理論で)定義した場合、現在の科学的検出手段では、個人、肉体、そして人の死は指示または同定あるいは観測できるが、魂、個人ごとに異なる魂、そして、魂がその肉体から離れること、は、指示または同定あるいは観測できない(と思う)。

 指示される対象、言い換えれば言明の主語となるものが、(現在のところ)経験的に同定できない場合、われわれは「それ」や「それ」が関与する現象について、何も科学的なことは言えない。言えないことを、たとえば「魂というものは無い」ことが科学的結論ですとするのは、推論として誤りである。

 いわゆるUFOについても同様である。ただし、存在を否定することの困難さが特に関わっている。たとえば、わたしはUFOを見た、と主張する人がいるとする。すると、その主張の根拠とされた画像(フィルム上や電子的に記録されたもの)が調査される。(つづく)


 〔そういえば、地球外宇宙船が日本領空にやってきたとき、それを自衛的に迎撃するとすると、その根拠はとかの、国会での論議あったような、ちがったかな? すべては忘れ去られる……サヨナラだけが人生だ…………〕
 
 [作業仮説:時間は、意識-脳システムによる錯覚である]
 
 
[L]
*リベット,ベンジャミン.(下條信輔訳 2005.7)マインド・タイム:脳と意識の時間.xix+267+15pp.岩波書店.[Libet, Benjamin. Mind time : the temporal factor in consciousness] [y2,835]

*下條信輔.2008.12.サブリミナル・インパクト?情動と潜在認知の現代.ちくま新書.