生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

放射能の影響、外部被曝

2012年02月23日 13時06分51秒 | 放射能
2012年2月23日-1
放射能の影響、外部被曝

 昨日の2012年2月22日、安斎育郎氏の講演を聴いた。はじめのほうでは奇術を披露して、人は騙されやすいことについて話し、「もんじゅ」という名称については、お釈迦様に失礼だと反対したとか、結局おシャカになってしまったとか、話の全体が諧謔に富んで流暢なものであった。ときどき、要約の印刷物を参照しながらの話であった。
 癌当たり籤に喩えての話もあった。[この項は、後日追加予定。シーベルト Svは構築体(虚構)であるが、ベクレル Bqもまたどういう単位なのかからの検討が必要。核種別。]

 朝日新聞デジタルによれば、福島県庁からの発表があり、住民が記入した問診票をもとに、原発事故直後から7月初めまでの4カ月間に受けた外部被曝線量を推計したという。
  「福島県が20日に発表した〔略〕浪江町のほか、飯舘村、川俣町山木屋地区の住民1万468人分。住民が記入した問診票をもとに、原発事故直後から7月初めまでの4カ月間に受けた外部被曝線量を推計した。」(朝日新聞デジタル 2012年2月21日03時00分)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201202200665.html

 その行動記録からの、原発事故直後から7月初めまでの4カ月間に受けた外部被曝線量の推計値の表は、

    川俣町山木屋地区 波江町 飯舘村    計(人)
0-1未満 mSv  145   5248    243  5636
1-5未満 mSV  392   1916   1275  3583
5-10未満 mSV  16     60    381   457
10-15未満 mSV  0     19     42    61
15以上 mSV    0     7     3    10
   計     553   7250   1944  9747

 問診票の回収率は低い(何%なのか?)とのことだが、その限りでのこの三地区で4カ月間に1mSv以上を外部被曝した人は、
  553+7250+1944-145-5248-243=9747-5636=4111人
である。

 同様に10mSv以上を外部被曝した人は、
  61+10=71人
である。
 〔→外部被曝と内部被曝のメカニズム的モデルの検索。など、など。〕


法則生成と設計 law generation (creation) and design

2012年02月21日 13時51分52秒 | 生命生物生活哲学
2012年2月21日-1
法則生成と設計 law generation (creation) and design

 問題はこうである。
 この世界には様々な(諸)法則が存在する。そのなかでわれわれは生き、死ぬ。[観測できる現象について、なんらかの法則性が存在するという仮定。この存在論的仮定と認識論的問題との関係については、後述。]
 すると、生についての(諸)法則や、死の(諸)法則があると仮定できよう。[「法則」複数形にするかどうかは、数え方に依存するが、ここでは制御段階(または(諸)法則の生成段階)を仮定して、様々な法則は階層的に(表記上)並べることができると仮定しておこう。→図解。]
 では、諸法則が存在している原因または理由はなんだろうか。われわれは、何かを作る。それは自然界にある材料、たとえば流木を移動して加工したりして、ひとつの芸術作品として(人知れずであれ)展示する。この流木が或る特定の場所に見つかり、人が手で拾うことができて、電車に乗って運んだり、のこぎりや彫刻刀で加工したりする。そのようなことができるのは、様々な物と事が利用可能だからである。そしてそれらの物体が存在していることや、人が或る手順で或る事柄が実現できることには、様々な法則が存在していると考えることができる。たとえば重力とか、物質についての変化法則とか、植物的生物体がその身体を造る法則とかである。
 しかしそもそもなぜ、これらの法則は存在するのだろうか? 宇宙のでき方と関連するのだろうが、法則設定の原理といったものを考えてみよう。そこで参考になるかもしれないのが、設計という考え方である。[→アリストテレスの四原因の検討。因果律や縁起の検討。]。
 で、法則を設定するメタ法則があるとする。すると、

  0. 諸法則を生成する(メタ的)(諸)法則が存在する。
  1. 物的性質生成と物体生成の諸法則が存在する。
  2. 物体間相互作用に関する諸法則が存在する。
  3. 諸現象は、1と2のカテゴリーに属する諸法則と諸物体の初期諸条件や環境諸条件によって、説明される。
 (ここで、生成 becomingと存在 being、生成性becomingness、存在性 beingness、(辞書には掲載されていない)be-nessといった用語を整理しておく必要がある。なお、-nessは、「性質」や「状態」を表わす。)

 ただし、3における『説明』ができても、或る対象の未来の予想または計算ができるとは限らない。一つは、精度の問題と、もう一つは自由度の問題である。人が自由意志を持っていることを仮定する。あるいは、そのようにわたしには思えるという、より緩い仮定でもよい。

 [検討課題:a. 対象化(メタ化)、下に立つこと understanding 理解と掘り下げること、(制御階層を指定した)自由度の定義、
       b. 設計論、進化的説明、歴史的説明、発生メカニズム、]


現代美術、説明、絵画

2012年02月20日 12時04分39秒 | 美術/絵画
2012年2月20日-1
現代美術、説明、絵画

 2012年1月7日、ジャクソン ポロックについてのシンポジウムが、名古屋であった。最初の講演は藤枝晃雄氏によるものだったが、確か東京都現代美術館の或る学芸員を批判していた。どの点を批判しているのかよくわからなかった。また、その理由や根拠は述べられなかったと思う。(聞き間違いでなければ、「造形」という言葉か、『造形』という概念を、批判していた。どういう意味の造形なのか、どういう点で良くないのかも説明は無かった。『造形』とは何だろうか?)
 で、ウィキペディアで東京都現代美術館の項:
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京都現代美術館
で見ると、そのなかに、「石原知事の発言への批判」という記事があり、
  「2006年4月20日、カルティエ現代美術財団コレクション展の開幕セレモニーに来賓として招かれた石原慎太郎都知事が現代美術について「無そのもの」「笑止千万」と発言した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京都現代美術館#.E7.9F.B3.E5.8E.9F.E7.9F.A5.E4.BA.8B.E3.81.AE.E7.99.BA.E8.A8.80.E3.81.B8.E3.81.AE.E6.89.B9.E5.88.A4[受信:2012年2月20日]
とある。
 「石原慎太郎 現代美術 無そのもの」でGoogle検索してみた。すると、第一位に、
 石原しんたろ「現代美術は無そのもの」/ル・フィガロ 他
2006-04-29 18:39:53 | 社会
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/8f90527be7d0714d163715d7080b2e9
が出ていた。
 そこには、リベラシオン紙2006年4月24日のミシェル・テマン「東京都知事、現代美術を腹にすえかね カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」」という記事(http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/8f90527be7d0714d163715d7080b2e96から引用)があり、
  「彼〔石原慎太郎氏〕が述べるところによれば、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。」そして、最後のとどめのように、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい。」会場内には衝撃が走った。一部には、これを冗談と受けとめ、笑い声を上げる人もいる。しかし、多くの人々は憤慨をあらわにした。」
とある。

  a. 見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。
という言明または主張は、現代美術一般ではなくて、「見る者に説明を要する現代美術」という、限定された範囲の現代美術作品を指していると思う(多くの人はそう解釈すると思う)。「聞く者」や「聴く者」ではなく、「見たり聴いたりする者」でもないという点は、さておこう。「説明を要する」というところに注目しよう。現代美術との関わり方に関係しており、とりわけ抽象絵画では本質的だと考えるからである。
 むろん、説明抜きで「美しい」、これが抽象絵画である(なお、美醜は、鑑賞者[製作者も、自分の作品を製作途中であれ、見るとときは鑑賞者]の諸性質に依存する)。もちろん、「説明抜きで」にも様々な種類と段階または程度がある。抽象絵画に限らず、感性を磨いたり鑑賞力を開発することには、様々な種類と段階または程度がある。
 「わたし、この絵、わかりませ~ん」と言う場合、ではどういう心的状態または脳神経系状態になれば、或る対象をわかったというのだろうか。『説明』とは、まずは言語的な人間活動である。たとえば、「この絵は、或る人を描いています」とか、「あの絵は、或る人の感情を表しています」と解説すれば、その絵画(後に、『絵』や『画』を再分類することになるかもしれない)が、理性や[『や』を、『または』と『かつ』の両方を指示する記号として使用する]情緒ないし感情の『わかった』という或る範囲の状態(これらを一括して、「心的状態」という語で呼ぼう)になるのだろうか。
 説明されれば分かることと、絵画の鑑賞とは異なる。ただし、視覚を通しての注意力というのは限定的である。人の空間分解能に依存して、物体は表面という被覆しているという知覚となる。たとえば、人体の皮膚である。そこでまず、絵画を定義しておこう。

  絵画とは、なんらかの表面に絵具を用いて展示される物体である。[絵画の質料的定義。A material definition of a picture. 厳密には、A material definition of the concept "picture". ]
  [なお、『線』とは、線とみなされた面[厳密に言えば、立体物]である]

 まず、対象の大きさと見る者[または観者、または観覧者]との関係の問題がある。大きな絵画であれば、(人の場合)細部の詳細は見えない。近くで見れば、絵画の全体は見えない。[→様々な距離と角度から絵画を観ること、またそれを考慮した絵画の製作法]

 〔つづく〕


この世界についての試論1

2012年02月18日 14時43分26秒 | 生物哲学
2012年2月18日-1
この世界についての試論1

 0. 物体だけが、この世界、つまりわれわれが意識している世界、を構成する[唯物論的仮定]。
   composition (this world) : (material) things

 1. 時間は、実在する物体ではない。われわれの意識(とそれに繋がる心的システム)による構築体である。
   The time is one of our constructs, not a real things.

 2. 空間もまた、われわれによる構築体である。時間と空間という概念の枠組みによって、われわれは観測し測定する。

 3. したがって、ものごとは相対的である。

 4. したがってまた、対象の実在性の種類と程度も相対的である。認識者の観測システムとその諸前提に、観測結果は依存する。しかしおそらく幸いなことに、人々の間での認識上の共通性があるゆえに、間主観性的客観性(厳密には共通性)は存在し得る。たとえば、推論妥当性について合意できたり、物体の存在や物体の性質について、(場合によっては、一定の訓練を受け入れた(つまり自己洗脳したりした)結果として)合意できたりする。
 [たとえば暗黒物質(「暗黒」という言葉は不明という意味からのようであるが、その性質からすれば光物質と呼ぶべきだろう)という種類に属する物体が、われわれの身体の構成物であるならば、放射能の正体というものも再考せざるを得ないだろう。これは生物体の機能と関係するかもしれない。機能を、物体システム間相互作用として捉える場合、暗黒物質の振る舞いによって説明できるかもしれない。対象の構成を明らかにすることは、システム的接近 systemic approachの第一歩であるが、宇宙のおよそ96%が正体不明であることは、物質的説明としては、(分布が一様的だとして)地球や人体システムの構成物の約96%を見落としている、あるいは隠れたままということになる(ただし、作用としてはほとんど無関係ということはあり得る)。現在の科学的観測装置によっては不明の存在者が、(質量で測って)大部分なのである。]
 [実在性の程度や、たとえば超光速が観測されるかどうかもまた、観測者(そしてまた何によって測定するか)システムに相対的である。]

 5. 対象の存在や(観測される)諸性質を説明する場合、とりわけシステムとして説明する場合は、その部分を構成する諸物体システム、つまり下位システム間の関係、つまり構造を明らかにすることが要〔かなめ〕である。むしろ、下位システム間の諸関係を、構造と呼ぶことにする。
 これはむろん、対象についてなんらかの抽象と捨象をして、一定範囲のことがら(だけ)を問題にすることになる。われわれの認識は限定的である。(対象についての直観 intuitionということがあり得るとすれば、それは(作用的に)非限定的かもしれない。)
 システムの構成、構造、そして環境(システムの様々な種類と程度の作動諸条件と捉えることができる。

 6. 環境とはつねに、ある主体にとっての環境である。主体を特定して、その環境を特定できる。
 環境を、環境諸要因 environmental factorsまたは諸条件 consitionsの総体 totalityだと分析してもよい。また、環境とは、或るシステムの様々な種類と程度の作動諸条件と捉えることができる。[環境 environment]

 7. なんらかの理論を構築したり、言明を一般化するためには、対象とするシステムの分類が先立つ。われわれの概念的営為に関する限りは、役立つ分類体系が要である。[分類 classification]
 様々の存在者または対象を、分類することは、物理的タクソン taxonや生物的タクソンを設けることが便利である。これらのカテゴリーは、われわれの構築体である。同定カテゴリーであるためには、一定であることが必要である。

 8. しかし命名者が或るタクソンを設定する際には、人々間での交信の都合もあって、或るタクソンに属する物体(生物体を含む)について観測される諸性質で定められる[タクソンの定義]〔これを定義と呼ぶことには、実は大きな問題がある。たとえば生物体を、それがどの種類に属するかを決定する、つまり同定[属員性 membershipという、分類カテゴリーと物体との関係性の決定]する場合は、瞬間的なまたは静的諸性質によっている。しかし、生物体の場合は、それらは現象的側面であり、本質的規定であるとは限らない。このことは種システムの問題(の理解)と関わるので、後述する。〕。

 9. このようにタクソン的分類をすれば、対象は様々な種類に属する諸物体ということになる。そうすると、諸物体の振る舞いを、タクソン的存在者たちの間の相互作用として捉えることができよう。

 10. ではまず、或る物体システムの境界または他の物体システムとの接面 interfaceの決定という問題である。人体の場合は、皮膚面で画定できる。ただし微細に見れば、微細な穴、たとえば汗腺が開いていたり、たとえば消化器系の口のように、開いたり閉じたりする(栄養摂取での物体の運動場所としては、また発生的にはと言ってよいのか、口から肛門までの管は、システム外部である。ただし毒物が通過すれば、そのシステムに『感受性』に応じて作用する(むしろ様々な空間規模と制御水準での物体間相互作用)。
 皮膚面という認識は、人の眼(正しくは視覚システム)の空間分解能(と時間分解能)に依存している。したがって、空間尺度 spatial scale においても、観測されるものごとは相対的である。


Bunge哲学辞典 抄 20120217b

2012年02月17日 20時05分45秒 | 生物哲学
2012年2月17日-4
Bunge哲学辞典 抄 20120217b
 
科学 science [BungeDic2, p.259]
 諸観念、自然、あるいは社会におけるパターン〔模様=物事のありさま。ようすや経過;様式;x類型〕の批判的探索または利用。或る科学は、_形式的formal_か_事実的factual_であり得る。構築体だけを指示する場合は形式的であり、事実の諸問題を指示する場合は事実的である。論理学と数学は、形式的科学である。つまりそれらは、概念、そして概念を組み合わせたものだけを扱う。したがって、推論における諸問題または助けの源としてを除けば、経験的手順またはデータには無用である。対照的に、物理学と歴史学、そしてそれらの間のすべての諸科学は、事実的である。つまりそれらは、光線とか商社とかの具体的な物についてのものである。したがってそれらは、計算といった概念的手順とともに、測定といった経験的手順を必要とする。事実的科学は、_自然的natural_(たとえば、↑【生物学】)、_社会的social_(たとえば、↑【経済学】)、そして_生物社会的biosocial_(たとえば、↑【心理学】)に、分割できる。実践性からは、科学は、↑【基礎的】または純粋的と、↑【応用的】に分割できる。なお、いずれも、↑【科学技術 technology】と間違えてはならない。

 
科学性 scientificity [BungeDic2, p.262]
 科学的であること。『進化生物学は科学的である』や、『現在の進化心理学は科学的でない』のようにである。いくつかの科学性の規準〔criteria〕がある。或る事項(仮説、理論、方法とか)が科学的である必要条件は、それが概念的に精密〔precise [=exact]〕で、かつ経験的テストが可能なことである。この条件によって、 効用関数〔utility function〕を特定しなかったり、主観的確率評価に頼る、合理的選択モデルは失格となる。しかし、その条件は十分ではない。というのは、無からの物質の創造という仮説を満たすからである。これを失格とするのは、物理学の大部分、とりわけ一組の保存則と両立しないことである。次の基準はこれらの問題に答える。つまり、仮説や理論が科学的であるのは、(a) それが精密で、(b) 関係する科学的知識の大部分と両立可能で、かつ(c) 副次的仮説と経験的データを合わせれば、経験的にテスト可能な帰結を内含する〔entail〕場合である。↑【基本科学】。

 
科学の戦争〔サイエンス・ウォーズ〕 science wars [BungeDic2, p.261]
 1960年代半ばにおける↑【構築主義 constructivism】と↑【相対主義 relativism】が、再流行したことによって引き起こされた、哲学的および社会学的論争。〔2010年8月3日-2〕

 
科学主義 scientism (BungeDic2, p.262)
 科学的研究は正確[accurate]で深い事実的↑【知識】を確保する最良の道であるという見方。科学的研究は知識の唯一の源であるとか、すべての科学的成果は真実で最終的なものだという見方と混同されてはならない。↑【論理実証主義[logical positivism]】と科学的↑【実在論】の両方の構成要素。科学主義は、人文学のいくつかの部分を諸科学に変形する試みを奨励する。たとえば、現代の人類学、心理学、言語学、そして諸社会科学の起源を思い出してもらいたい。この用語は、F. Hayekほかによって、社会的研究において自然科学をまねることを指すために、軽蔑的な意味で使われた。彼と『人文主義者』の(観念的)陣営に属する他の者は、反科学または擬似科学ではなくて、科学を、彼らの主要な敵だと見るのである。〔2010年8月4日-7〕

 
種 species (p.274)
 いくつかの基本的性質を共有する物の収集体〔集まり〕。例:化学的種と生物学的種。分類における最初の段階。より包含的な概念として、属、科、王国がある。属とその種の間の関係は、次の通り。一つの属はその種の和集合である。つまり、これらのどの一つもその属に包含される(⊆)。そして、あらゆる個物は一つの種の属員〔成員〕である(∈)。種は具体的個物であるという見解は、属員関係を部分-全体関係と間違えているために、この分析を無視している。↑【自然類】、↑【分類学】。

 
検証可能性 scrutability[BungeDic1, p.262。BungeDic2と照合すべし]
 検証されるscrutinizedまたは検討されるexamined可能性〔ことができること ability〕。↑【科学主義 scientism】は、知覚できる痕跡を残すこと無く消滅した物以外には、検証できない物の存在を否定する。同様にして、反啓蒙主義者は検証できない存在者(神々といったもの)と不可触の言明(教条 dogma)の存在を言い張る。これが、このようなまがいごと pseudothingと偽りの真理pseudotruthの多くの不思議な性質について、彼らは遠慮なく長々と書く理由である。〔20111102試訳。2011年11月2日-4〕

 
自己集成 self-assembly [BungeDic2, p.263]
 一つ以上の行程で、諸物が一つのシステムへと自発的に集積すること。例:重合、溶液からの結晶の形成、前駆物質からのDNA分子の合成、神経細胞〔ニューロン〕からの心理子〔サイコン〕[psychon]の形成、街角ギャングの創発〔出現〕[emergence]。↑【自己編制〔自己組織化〕[self-organization】と区別されなければならない。〔2010年8月4日-8〕

 
システム system (p.282)
 【a 概念】あらゆる部分または構成要素が、少なくとも他の一つの構成要素に関係している、複雑な対象。例:一つの原子は、陽子、中性子、そして電子から構成される、一つの物理的システムである;一つの細胞は、細胞小器官(それはまた分子から構成される)といった下位システムから構成される、生物的システムである;会社は、経営者、被雇用者〔従業員〕、そして人工物から構成される、社会的システムである;整数は、加法および乗法の関係と推論規則によってまとめられた命題のシステムである;妥当な論証は、含意関係と推論規則によってまとめられた命題のシステムである;言語は、結びつき、意味、そして文法によってまとめられた標徴(sign)のシステムである。基本的な【システムの種類】を、次のように区別してよい。つまり、具体的システムと概念的システムで、生物体と理論がそれぞれの実例である。さらに、具体的システムは、自然的、社会的、あるいは人工的(人によって作られた)、と区別される。【b CESM分析】システムという概念の最も単純な分析は、構成、環境、構造、そしてメカニズムという諸概念と関与する。_構成_は、その部分の収集体である。_環境_は、そのシステムの構成要素に作用するか、あるいは作用される、諸物の収集体である。_構造_は、そのシステムの構成要素間の諸関係(とりわけ結合bondまたは連結link)、そしてまた構成要素と環境事項の間の諸関係の収集体である。前者は内部構造と、そして後者は外部構造と呼ばれる。_総構造_は、ゆえにこれら二つの諸関係の集合である。システムの_境界_ を、システムがその環境事項と直接に連結している、システム構成要素の収集体として定義されるかもしれない。(二つの事項が直接に連結されるとは、それらが連結され、かつ、それらの間を介在するものが他に無いときである。)境界と形状の間の違いに注意されたい。形状を持つものは何でも境界を持つが、逆は偽である。実際、軽い原子〔*light atoms〕とか会社といった、境界を持つが、形状の無いものが存在する。原子の境界は、その外側の電子の収集体であり、商社の境界は、販売人、購買人、市場売買人、弁護士、そして宣伝代理人から構成される。最後に、一つのシステムのメカニズムは、システムを『作動(tick)』させる、すなわち、他の点では保存しつつ何らかの点で変化させる、内的プロセスによって構成される。明らかに、物質的システムだけが、メカニズムを持つ。これで、下位システムと上位システムという概念を定義できる。一つの対象が他の対象の_下位システム_であるのは、それ自身がシステムであり、かつ、その構成と構造が他の対象の構成と構造にそれぞれが含まれるが、その環境はより包含的なシステム〔=他の対象〕の環境を含むとき、そしてそのときに限る。例: 静力学は、〔動〕力学の下位システムである;染色体は、細胞の下位システムである;社会的ネットワークは、社会の下位システムである。明らかに、一つのシステムの_上位システム_であるという関係は、下位システムであることと対をなすものである。たとえば、われわれそれぞれは、器官のシステムであり、器官は今度は構成要素である細胞の上位システムである。宇宙は、最大の具体的システムである。つまり、すべての具体的システムの上位システムである。具体的システムのシステムの現実的モデルは、その主要な特徴を含むべきである。つまり、構成、環境、構造、そしてメカニズムである。言い換えれば、関心のあるシステムsを、任意の所与の時点で、順序4組としてモデル化すべきである。つまり、μ(s) = <C(s), E(s), S(s), M(s)>。時が過ぎゆくにつれて、四つのすべての構成要素のどれも、あるいはすべてが変化せざるを得ない。それほど明らかではないが、ミクロ物理学におけるものを除いて、あらゆるシステムの究極的構成要素を、知る必要は無いし、どのみち知ることはできないということは真実でもある。たいていの場合には、所与のレベルでのシステムの構成を確かめるか推測すれば十分であろう。(或るシステムsのレベルLでの構成という概念は、CL(s) = C(s) ∩L と定義される。)ゆえに、社会科学者は、作用者の細胞的構成に、興味は無い。さらに、むしろしばしば、分析の単位は、個体ではなく、世帯、会社、学校、教会、政党、省、あるいは国家全体といった、社会的システムである。_世界システム_と幾人かの社会科学者が呼ぶものは、地球上でのすべての社会的システムの上位システムである。システムという概念についての上記の分析は、なぜ↑【システム的アプローチ】がそれに張り合うアプローチよりも好ましいかを明瞭に示している。どの競合するアプローチも、システムについての四つの区別的特徴の少なくとも一つを見逃しているのである。

 
システム的アプローチ systemic approach (p.285)
 【a 概念】あらゆる物は、↑【システム】であるか、システムの構成要素であるかのどちらかだという原理によって指導される↑【アプローチ】で、よって、あらゆる物は、その原理にしたがって研究され扱われなければならない。↑【個体主義】的(とりわけ↑【原子論】的)アプローチ、↑【分割主義】的〔sectoral〕アプローチ、および↑【全体論】的アプローチに反対する。【b 対抗者に対照して】対抗するすべてのアプローチのそれぞれは、システムの四つの区別的特徴の少なくとも一つ、つまり構成、構造、環境、またはメカニズムを見落としている。こうして↑【全体論】は、あらゆるシステムを一つの単位として掴み、システムをその構成、環境、そして構造へと分析することを拒否し、したがってそのメカニズムも見逃してしまう。↑【個体主義】は、構成要素のほかにシステムの存在そのものを認めることを拒否し、それゆえ構造とメカニズムを見落とす。↑【構造主義】は、構成、メカニズム、そして環境を無視し、それに加えて、諸関係を、諸関係の上または先に、関係項無しに前提とするという論理的虚偽を含んでいる。最後に、↑【外在主義〔外部主義*externalism〕】も、システムの内的構造とメカニズムを見逃し、したがって変化の内的源を見逃すこととなる。【c 利点】システム的アプローチを採用すると、理論的に都合が良い。なぜなら、あらゆる物は、一全体としての宇宙を除いて、他のいくつかの物と繋がっているからである。同じ理由によって、それは実践的にも好都合である。事実、自分が研究し、設計し、または操縦している、実在システムの特徴の大部分を見逃す専門家(科学者または科学技術者、政策立案者または経営者)によってこうむる手痛い間違いをしなくて済む。たとえば、国際通貨基金(IMF)によって考案される経済的回復または発展のための計画は、むしろしばしば失敗する。計画が↑【分割主義】的であり、システム的ではないからである。つまり、計画がその社会の発展の型と程度にかかわらず推奨する、再調整に伴う生物学的、文化的、政治的代価を無視するのである。

 
分類学 taxonomy (p.289)
 ↑【体系学】の方法論:↑【分類】、特に生物学における分類の原理の探求。これらは:(1) 当初の収集体〔collection集まり〕のあらゆる属員は何らかのクラスに割り当てられる;(2) 二つの型のクラスがある。つまり単純なクラス(種)と複成的〔composite〕クラス(たとえば属)である。後者は二つ以上の単純クラスの和集合である;(3) 各々の単純クラスは当初の集まりの属員のいくつかから構成される;(4) 各クラスはその属員が一つの述語か、述語の連言によって決定される集合である;(5) 各クラスは明確〔definite〕である。つまり境界線上の例は無い;(6) 二つのクラスはいかなるものも、互いに素であるか、あるいはどちらかが他方に含まれる。つまり、前者の場合は同一の階級〔ランク〕に属すると言われ、そうでなければ異なる階級に属すると言われる;(7) 二つの論理的関係だけが、分類に関与する。個物とクラスの間に保持される属員関係∈と、異なる階級のクラスを関係づける包含関係⊆である;(8) あらゆる複成的クラスは、直前の階級でのそれの下位クラスの和集合に等しい;(9) 所与の階級のすべての複成的クラスは、対ごとに互いに素である(共通部分が無い);(10) 所与の階級のあらゆる分割は網羅的である。つまり、所与の階級におけるすべての和集合は、当初の収集体に等しい。もし条件(9)が満たされないならば、本来の分類ではなく、↑【類型学】で満足しなければならない。↑【種】。

 
科学技術 technology [BungeDic2, pp.289-290]
 人工物の設計とプロセス、そして人間行為の規格化と計画づくりに関わる知識の分野。伝統的科学技術(あるいは技功〔技術学〕technics、または職人性〔技能性、熟練性〕craftsmanship〔原著ではcraftmanship〕)は、主に経験的であり、よってときには無効であったし、またある時には非効率的かあるいはもっと悪かったし、そして試行錯誤によってのみ完成することができた。近代の科学技術は、科学にもとづいている。よって、研究の助けによって完成することが可能である。主な種類:物理学的(たとえば、電子工学)、化学的(たとえば、工業化学)、生物学的(たとえば、農学〔agronomy〕)、生物社会学的(たとえば、規範的疫学)、社会学的(たとえば、経営科学)、認識的(たとえば、↑【人工知能】)、そして哲学的(↑【倫理学】、↑【方法論】、↑【政治哲学】、↑【実践学〔praxiology〕】)。科学技術は、応用科学と混同されてはならない。応用科学は実際には、基本↑【科学】と↑【科学技術】との間の橋である。なぜならそれは、実践的潜在性をもつ新しい知識を捜し求めるからである。科学技術者は、機械や産業的または社会的プロセスといった人工物を設計し、修理し、あるいは維持することが期待される。またかれらは、顧客や雇い主のために働くことが期待される。また、顧客や雇い主は、さらなる経済的または政治的利益に対して、科学技術者の専門的技術を得ようとするのである。(内部告発者は少なく、また、たやすく使い捨て可能である。)これが、なぜ科学技術が、善、悪、あるいは相反〔両面〕価値的であり得るかの理由である。↑【科学技術倫理学 technoethics】。

 
理論 theory [BungeDic2_theory]
 仮設演繹的体系[システム]。つまり、一組の前提〔仮定assumption〕とそれらからの論理的帰結から成るシステム。言い換えれば、或る理論のあらゆる式は、前提であるか、一つ以上の前提の妥当な帰結(定理)であるか、のどちらかである。つまり、_T_ ={t|_A_ |ー t}。再び言うと、或る理論は、演繹のもとに閉じた一組の前提である(つまり、公理の論理的帰結のすべてを含んでいる)。たいていの人々は、そして哲学者の何人かでさえも、理論を↑【仮説】と混同する。これは誤りである。なぜなら、理論は、単一の命題ではなくて、無限の組の命題だからである。したがってそれは、単一の仮説を確証したり、あるいは反証することよりも、はるかに困難である。(類推:網は、それを構成する糸のどれよりも強い。よって、作ることも引き裂くことも難しい。)もう一つの重大な混同は、理論と言語との混同である。それは誤りである。なぜなら、理論は主張を作るが、言語は中立だからである。この誤りは、↑【形式主義】の一部であり、形式主義は↑【唯名論】の数学的構成要素である。或る理論は、何とも言いようのないものであれしっかり定義されているものであれ、概念的であれ具体的であれ、なんらかの類kindの対象を指示するかもしれないし、その前提は、真であるか、部分的に真であるか、偽であるか、あるいはどれでもないかもしれない。最初の前提からの論理的な演繹可能性という条件は、理論に対して形式的(統語論的)統一性を授ける。これは、人が理論を(複雑な)個体〔個物〕として扱うことを可能にする。これらの個体は、それらの構成要素(命題)のどれもが持たない、整合性(無矛盾性)といった創発的性質を持つ。例1:集合論、グラフ理論、そしてブール代数は、抽象的な(解釈されない)理論である。例2:数論、ユークリッド幾何学、そして微積分学は、解釈された数学的理論である。例3:古典力学、自然淘汰の理論、そして新古典派のミクロ経済学は、事実的理論である。例ではないもの:『すべてのAはBである』と『すべてのCはDである』いう前提。そこでは、A、B、C、そしてDは、相互に定義可能ではなく、一つのシステムを構成していない。よって、仮説演繹的体系を生成しない。実際、それらを一緒にしても、何の帰結も出てこない。〔2010年7月6日-1〕

 
戦争 war [BungeDic2, p.311]
 【a 存在論】↑【弁証法 dialectics】の中核となっている、対立者〔対立物〕の闘争。【b 政治学】究極の罪。伝統的な政治理論と倫理〔学〕によれば、不正な戦争だけではなく、正当な戦争もある。実際には、大量殺人であり、他の↑【人権】の侵害であるから、すべての戦争は正当でない。戦争では一つだけ、正当な側があり得る。つまり、いわれのない攻撃の犠牲の側である。しかし、二つの側は移るかもしれない。たとえば、もし犠牲側が勝って攻撃側全体に復讐すれば、それは不正当となる。ローマの格言の『平和を望むなら、戦争に備えよ』は、戦争への処方箋である。平和の秘訣は、『平和を望むなら、平和に暮らしなさい』である。↑【科学の戦争〔サイエンス・ウォーズ〕】。〔2010年8月3日-1〕

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Bunge哲学辞典 抄 20120217a

2012年02月17日 20時01分52秒 | 生物哲学
2012年2月17日-3
Bunge哲学辞典 抄 20120217a

Bunge, M. 2003. Philosophical Dictionary. Enlarged Edition. 315pp. Prometheus Books, New York.

Bunge, M. 1999. Dictionary of Philosophy. 316pp. Prometheus Books, New York.
より。

  animism アニミズム (BungeDic1, p.18)[初版の訳→増補改訂版の訳にすべし]
  emergence 創発 (BungeDic2, p.83)
  evolution 進化 (BungeDic2, p.93)
  evolutionism 進化主義 (BungeDic2, p.94)
  explanation 説明 [BungeDic1, p.93-94][初版の訳]
  explanatory power 説明力 [BungeDic1, p.94][初版の訳]
  life 生命 [BungeDic2, p.163]
  matter 物質 [BungeDic2, p.174)
  mechanism メカニズム、機械論 [BungeDic2, p.175)
  natural kind 自然類 [BungeDic2, p.191)
  object 対象 [BungeDic2, p.199)
  panpsychism 汎心論 [BungeDic1, p.205)[初版の訳]
  phenomenology 現象学 [BungeDic2: 212]〔最後の2文を訳出。〕
  plausibility もっともらしさ [抄訳。BungeDic2, pp.214-215]
  probability, vulgar notion 確率、通俗的概念の [BungeDic2, p.227]
  reference 指示 [BungeDic2, p.246]
  representation 表象〔表現〕 [BungeDic2: 251]
  science 科学 [BungeDic2, p.259]
  science wars 科学の戦争〔サイエンス・ウォーズ〕 [BungeDic2, p.261]
  scientificity 科学性 [BungeDic2, p.262]
  scientism 科学主義 [BungeDic2, p.262]
  scrutability 検証可能性 [BungeDic1, p.262][初版の訳]
  self-assembly 自己集成 [BungeDic2, p.263]
  species 種 [BungeDic2, p.274]
  system システム (BungeDic2, p.282)
  systemic approach システム的アプローチ (BungeDic2, p.285)
  taxonomy 分類学 [BungeDic2, p.289]
 〔technics 技巧 は、マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』: 245頁を見よ。〕
 〔technique 技術 は、マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』: 96頁, 129頁を見よ。なお、技術 techniqueは(一般的に対しての)特異的方法であるが、技術が科学的であるための条件とは、
  a. 間主観性条件
  b. 試験〔テスト〕可能性条件〔試験testとは、経験に照らして試すことである〕
  c. 正当化条件
である(マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』96頁を見よ)。2010年7月28日-2。〕
  technology 科学技術 [BungeDic2, pp.289-290]〔また、technology 科学技術については、マーナ・ブーンゲ『生物哲学の基礎』の244頁からの5.5.4節 応用科学と科学技術、を見よ。〕
  theory 理論 [BungeDic2_p.***]
  war 戦争 [BungeDic2, p.311]

 
<凡例>
  ↑:その直後の語を『参照せよ』を指示する。
 【】:【 】に囲まれた文字が、ゴシック体であることを示す。
 _ _:_ _に挟まれた文字が、斜体であること(強調)を示す。
 「」:標徴〔sign〕、記号〔symbol〕、語、そして文であること(表記)を示す。原文では単一引用符(‘’)で括られている。
 『』:概念または命題であることを示す。原文では二重引用符(“”)で括られている。
 〔〕:訳者の注記であり、原語または代替訳を示すことが多い。* がある直前のものは、訳の検討が必要であることを示す。


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感性学〔美学〕 aethetics [BungeDic1?2?: **]
 a 哲学的 芸術の哲学。それは、芸術作品、表象的/抽象的、様式、そして美しい/醜い、という一般的概念を巡って旋回する。この分野の地位は、不確定である。なぜなら、客観的規範〔規準〕は知られておらず、よって芸術作品を評価するための個人を越えた、かつ文化横断的な客観的規範は無いからである。とりわけ、気まぐれに行なったコラージュ〔糊付け作品〕でも、一連の恣意的な雑音でも、うまいこと売り込まれれば、芸術作品として合格するだろうわれわれの時代においては、そのような規範は無いからである。その結果、感性学〔美学〕的な意見、定義、そして分類は数多くあるけれども、試験〔テスト〕可能な感性学的仮説は、ましてや仮説演繹的体系(理論)は無いようである。もっとも、感性学的諸概念の分析と相互関係づけは、正当な努力であり、それは「分析美学〔分析的感性学〕」と呼ばれてもよい。
 b 科学的 D. Berlyneによって創始された、芸術鑑賞の実験的心理学。

 
アニミズム animism [BungeDic1: 18]
 すべての物は、あるいは或る種類のすべての物は、生き物のように動かされている〔animated〕という教義。つまり、非物質的な↑【霊たち 〔spirits〕】によって宿られており、支配〔rule〕されている。例:魂は身体を統治〔govern〕するという見解〔考え方 view〕。同義語:↑汎心論〔panpsychism〕〔2011年7月31日-1〕。

 
芸術 art [BungeDic1?2?: **]
 a 感性学〔美学〕的 なんであれ、自分または他の人に、いわゆる肉体の快楽以外の快楽を入手することをめざす人間活動。芸術は視覚的、聴覚的、記号的、あるいはこれらの組み合わせであり得る。感性学〔美学〕の対象。
 b 認識論 科学的および科学技術的研究のなんらかの産物は、妥当である、真である、あるいは効率的であることを越える。すなわち、それらは美しい(あるいは醜い)、そして優美である(あるいは無器用であるclumsy)とも見なされる。そのうえ、科学的研究は科学であるよりも芸術であると広く同意されている。しかし、これらの用語の意味についての合意は無い。よって、感性学〔美学〕的特質についてのすべての論証は決定的でない。↑感性学〔美学〕

 
収集体 collection [BungeDic2, p.43]
 任意に〔恣意的に〕、またはある共通の性質を持つゆえに、集められた、一群の[a group of]対象。固定した成員性〔属員性〕[membership]を持つ収集体は、語の数学的意味での集合[set]である。たとえば、人類は変異可能な[variable]成員性を持つ収集体であるが、所与の時点で生きているすべての人間の収集体は集合である。〔2010年8月4日-1。〕

 
創発 emergence (p.83)
 a 【静態的概念】システムの一性質が創発的であるのは、そのシステムのどの構成要素によっても所有されないとき、そしてそのときに限る。例:平衡、シナジー、共時性、生きていること(諸細胞のひとつの創発的性質)、知覚すること(神経細胞〔ニューロン:ルビ〕の一定のシステムの一つの創発的性質)、社会構造(すべての社会システムの一性質)。創発的性質は、(集塊のように)局所的〔local〕または(安定性のように)大域的〔global〕であり得る。形式的定義:Pは創発的性質である =df ヨxヨy (Px & y < ⇒ ¬Py)。ここで、<は部分/全体関係を表わす。b 【動態的概念】すべてのシステムは、その構成要素の(自然なまたは人工的)集成によって形成されるという仮定によれば、創発は個体発生と↑【歴史】(とりわけ↑【進化】)の両方に典型的である。例:発話は子供において生涯の最初の年に創発し、それはおそらく、10万年前のHomo sapiens sapiens〔ヒト種ヒト亜種〕の誕生とともに創発した。創発という概念を、↑【付随性】という曖昧な〔fuzzy〕概念と混同すべきでない。また、全体論者がそれを大事にしているから、特に創発を分析不可能とみなしているからといって、捨ててしまうべきではない。システムについての科学的研究の主要点は、そのシステム的(つまり創発的)性質を、それの諸部分の相互作用か、あるいはその歴史によって説明しようと努めることである。創発は、↑【全体論】と↑【個体主義】の視界〔ken〕を越えるものである。↑【システム主義】だけがそれを正当に扱う。

 
進化 evolution (p.93)
 様々な種類の物の創発〔emergence〕と潜没〔submergence〕によって区切られた歴史。(よって進化という概念は、歴史という概念の特殊事例である。)例:化学元素と分子の進化;非生物的物質からの細胞の最初の自己集成〔self-assembly〕からはじまる生命の歴史;人類史。進化は、(個体の)発生や生活史と混同されてはならない。今日では、カトリック教会でさえ、生物学的進化が起きたことに異論を唱えない。カトリック教会が異論を唱えているのは、進化についての自然主義的(唯物論的)説明であり、とりわけ心的能力は、いかなる神の介入も無くして、解剖学的および心理学的特徴に沿って進化したという、科学的仮説である。↑【進化的心理学】。

 
進化主義 evolutionism (BungeDic2, p.94)
 事実についてのあらゆる領域〔realm〕は↑【進化】の支配下にあるという、存在論的教義。ダーウィニズムを、すべての事実的科学へと拡張したものである。哲学的な原理であるから、進化的↑【生物学】と混同してはならない。進化生物学は、現代生物学の標準的構成要素である。進化主義によって、あらゆる物事は変化に従うだけでなく、ひょっとして種形成と種絶滅にもさらされることもあるとみなすことを研究者は享受したので、進化主義はすべての自然科学と社会科学を根本的に変形した。また進化主義は、静態的な存在論と認識論の最後の名残りを破壊することによって、哲学に対して決定的な影響を与えた。それは、どの制度も永遠ではないと示唆したから、改革論者と革命的な諸社会的イデオロギーを奨励したのである。そして、スペンサー Spencerの(生理的な)最適者の生き残りと優位性を明言するという間違った解釈のおかげで、進化主義はまた、優生学と人種差別やファシズムといった退行した信条を奨励した。〔2010年8月10日-5〕

 
説明 explanation [BungeDic1, p.93-94。BungeDic2と照合すべし]
 説明は、諸事実と関係のある一つの認識的操作である。或る事実(具体物の状態または状態の変化)を説明することとは、それがいかにして生じたかを示すことにある。例:日没は地球の回転によって説明される。事実を説明することを急ぐ前に、それは人為産物または幻覚ではないことを、合理的に確信しなければならない。これは、その事実をできるだけ注意深く記述すること、そして観測、測定、または実験といった経験的手段によってその記述の正確さ〔的確さ accuracy。preciseは精確〕を照合する checkことを含む。ゆえに、説明は記述と試験〔テスト test〕によって先行される。説明には三つの側面〔相 aspect〕がある。すなわち、論理的、存在論的、そして認識論的という側面である。説明の_論理_は、規則性(たとえば、法則)と状況 circumstance(たとえば、諸初期条件)に関わる演繹的〔導出的 deductive〕論証としての説明を提示する。説明の_存在論_は、仮説化した↑【メカニズム〔機構〕mechanism】(因果的、機会的、目的論的、など)を指し示す。そして、説明の_認識論_は、既知のものまたはなじみのものと、新しいものまたはなじみではないものとの間の関係を問題にする。魔術的で宗教的な説明と同様に、典型的な科学的説明は、なじみではない諸存在者または諸性質を引き合いに出す。しかし、前者とは違って、後者は↑【検証可能 scrutable】〔scrutable 精密な調査[研究]によって理解できる(大辞泉)。日本の新聞やテレビではよく「検証」という言葉が聞かれる。アメリカ合州国でのscrutinizeが検証に当たるとどこかに書いてあった。実証との関係は? 科学業界での検証は、論理実証主義または論理経験主義的なverificationなのだろうか? 積極的な意味では、立証という語がある。verificationismを立証主義とし、testを試験またはテストとするとよいかもしれない〕である。そのうえ、通常の知識と魔術的説明とは対照的に、科学的説明は↑【法則 law】とよく認定された〔保証された well-certified〕事実を伴う〔を要件とする involve〕。二種類の科学的説明を区別しなければならない。すなわち、弱いまたは包摂的と、強いまたはメカニズム的である。_包摂的_説明とは、普遍のもとで特殊を包摂することである。それは、
  (諸)法則 & 状況 |? 被説明項(説明されるべき事実)
という形式を持つ。ここで諸法則は純粋に記述的であり得る。たとえば、併存〔? concomitance〕の言明と速度方程式である。例:ボブが死を免れないことは、彼が人であるというデータ、および、すべての人は死を免れないという一般化によって(弱く)説明される。(つまり、∀x(Hx ⇒ Mx), bH |? Mb.)これは、J.S. ミル以来、大多数の哲学者たちが説明を理解してきたやり方である。_メカニズム的 mechanismic_または強い説明は、メカニズムの開示である。それは、包摂と同じ論理形式を持つが、それに関与する(諸)法則は↑【メカニズム〔機構〕mechanism】を記述する。集成 assembly、衝突、拡散、競争、そして協力〔協調 cooperation〕といったもののメカニズムである。たとえば、人は死を免れないことは、数多くの合同的に〔併発的に、同時的に concurrent〕作用するメカニズムによって(強く)説明される。すなわち、酸化、DNA損傷、消耗、アポトーシス(遺伝的にプログラムされた死)、ストレスに満ちた時期のあいだにできた糖質コルチコイドの作用による免疫の低下、事故、などによってである。メカニズム的説明は、包摂を包括 subsumeする。〔20111102試訳。2011年11月2日-3〕

 
説明力 explanatory power [BungeDic1, p.94。BungeDic2と照合すべし]
 仮説または理論の、それが言及する諸事実を説明する力。↑【適用範囲 coverage】(または確証の程度)と↑【深度〔深さ〕 depth】(関係する水準〔レベル level〕の数)の積として分析されるかもしれない。あらゆることを説明すると主張する仮説は、なにごとも説明しない仮説と同様に、まさに無価値である〔無用である worthless〕。〔20111102試訳。2011年11月2日-3〕

 
生命 life (p.163)
 諸生命科学の中心的概念。生きものまたは有機体の本性〔=本質的性質〕に関して四つの主要な見解がある。つまり、生気論、機械論〔mechanism〕(または物理化学主義)、マシン〔機械〕主義〔machinism〕、そして有機体論(または生物システム主義)である。↑【生気論】は、『生命』を、たとえば『生命衝動』といった、何らかの非物質的な存在者と目標へと努力する傾向なるものによって定義する。↑【機械論】は、『生きている』という述語は物理化学の用語によって定義可能であると主張する。つまり、有機体は大変複雑な物理化学的システムにすぎない。↑【マシン主義】は、有機体を機械に似たもの、つまり設計され、プログラムされ、そして目標指向的〔goal-directed〕なものとして考える。有機体論(または生物システム主義)は、生命を何らかの極度に複雑なシステムの創発的性質とみなす。このシステムの遠い先祖は、約40億年前には生命のない〔abiotic〕ものであった。生気論は、まったく信用されなくなった。不毛であり、非物質的なエンテレキーなるものは、観察と計算をしようにも不可能だからである。機械論はいまだに流布しており、分子生物学の誕生以来は特にそうであるが、生きものの特有性のいくつかを説明することには失敗している。とりわけ、それは、なぜ有機体における代謝過程が、概して、中性的または自己に仕えるのではなく、有機体に『仕える』のかを、説明しない。機械論はまた、自己洗浄と自己修復のメカニズムの創発も、説明しない。つまり、生きていない化学系は、ついには反応のいくつか、あるいはすべてさえも停止させるような、反応を抑制する化学物質を蓄積するかもしれない。機械論は、デカルトによって創始され、それ以来広まったが、今日ではコンピュータ科学の連中に人気がある。その連中は、生命プロセスの特定の特徴をコンピュータシミュレーションしたものを、↑【人工生命】と呼んでいる。皮肉にも、マシン主義は、設計と計算という概念に含まれる目的論を、生気論と共有している。生物システム主義だけが、化学的前躯体からの生命システムの自己集成についての分子生物学的説明と、遺伝子変化と自然淘汰による進化の理論を認めるだけでなく、生命を化学レベルに根をおろした一つの創発レベルとして認めもする。↑【創発】、↑【創発主義的唯物論】、↑【システム主義】。

 
物質 matter (BungeDic2, p.174)
 すべての、現実の、または可能な↑【物質的存在者 material entities】の収集体。すなわち、M* = {x | Mx}。ここで、M = 物質的である〔material 質料的である〕である = 変化可能である、である。M*は一つの収集体であるから、物質は概念的であり、物質的ではない。つまり、個々の対象だけが、物質的であり得る。対照的に、物質的存在者から構成されるいかなるシステムも、社会から宇宙まで、物質的である。注意:物質 ≠ 質量。実際、質量は、陽子とか電子といった、なんらかの物質的な物だけが持つ性質である。光子と重力子は質量を持たないと想定される。↑【E = mc2】。
 〔注。『それは物質である It is a matter』とは、それと指している対象が、物質的存在者であることを述べているが、物質とは、或る種類を括る、同定のためのカテゴリー(= 名義尺度の概念的存在者)であり、収集体の名称である。2010年7月20日-3を参照せよ。〕

 
メカニズム〔機構〕、機械論 mechanism (p.175)
 【a プロセス】複雑な物が働くようにするプロセスは何でも。例1:時計の機械的または電気力学的『働き』。例2:学習と創造の神経的メカニズムは、前には拘束されていない神経細胞のシステムから、新しいシステムが自己集成することだと考えられる。例3:社会生活において、協力は一つの調整〔協調coordination〕メカニズムである。例4:投票することは、参加 のメカニズムである。例5:道徳は、社会的な共存と制御のメカニズムである。_メカニズム_的または_強い_↑【説明】は、システムにおける(諸)メカニズムを開示することを含む。これらは、説明的論証の前提に出てくる(諸)法則言明において表現される。【b 世界観】宇宙は時計のようなものだという世界観。したがって、宇宙論は力学〔mechanics〕(デカルトの思弁的な流体力学、あるいはニュートンのより現実的な粒子力学)に等しいであろう。機械論は、最初の科学的世界観であった。それは、今日の最も進歩した科学を普及させたし、可視的なすべての物の機械的性質を研究するように研究者を仕向けた。同じ理由によって、人々はかつて優勢であった全体論的で階層的な世界観から遠ざかるようになった。とりわけ、デカルトらは、動物の身体を、ポンプ(心臓)によって駆動される単なる込み入った機械とみなした。魂だけは容赦されたが、いつもそうであったわけではない。機械論には、世俗的なものと宗教的なものという、二つの見解がある。_世俗的_機械論は、宇宙は自ら存在し、自ら制御するメカニズムであると、自ら巻直す一種の永遠の時計なのだと主張する。対照的に、_宗教的_機械論は、時計職人を仮定する。デカルトの宇宙時計は完璧であるが、神の創造にふさわしく、それは修理人を必要としなかった。物質を創造し、物質に力学法則を授けたので、デカルト流の神はもはや物理的宇宙にせっせと働く必要は無く、神の注意をすべて、霊的な物事に捧げることができたであろう。対照的に、ニュートン流の宇宙は、浪費的である。つまり、天体の機械の車輪の間には、摩擦がある。よって、神は天体機械が動くことを保つために、しょっちゅうそれを押していなければならない。17世紀の科学革命における発端から19世紀中期まで、世俗的機械論は、莫大な科学的および科学技術的な生産を刺激した。衰え始めたのは、場の物理学と熱力学〔thermodynamics〕の誕生、そして進化生物学の興隆に伴ってのことである。20世紀の初めまでに、それはまったく廃れた。現在われわれが理解しているのは、力学〔mechanics〕は、物理学の一つの章にすぎないということである。われわれはまた、相対論力学〔relativistic mechanics〕が電気力学〔electrodynamics〕を離れては意味をなさないこと、そして量子『力学〔mechanics〕』は全然機械的ではないことを理解している。というのは、量子『力学』は、明確な形状を持つ微粒子も精確な軌跡も記述しないからである。要するに、力学には栄光ある日があったのだ。4世紀前、それは物理的世界の科学的探求への道を示した。実際それは、実在の研究への正しいアプローチは、実験室または野外で試験〔テスト〕されることが可能な数式によって表現され得る諸法則にしたがって振る舞う基本的構成物へと、実在を分解するように努めることだと教えた。ゆえに、明示的ではないが、力学は合理主義と経験主義(↑【合理経験主義】)の総合である。そして、その成功と失敗は、世界観と科学が相互作用するかもしれないことを示している。↑【唯物論】、↑【最小主義〔minimalism〕】。

 
自然類 natural kind (p.191)
 恣意的からはほど遠い、一つの性質または一つの法則によって定義される収集体。例:すべての生きものは、生物体というクラス(自然類)を構成する;社会的関係によって結ばれる人々から成るすべての存在者は、社会システムというクラス(自然類)を構成する。唯名論者、規約主義者、そして主観主義者(とりわけ現象論者)は、自然類という観念そのものを拒否する。よって彼らは、周期律表、化学元素の変換〔transmutation〕、あるいは生物学的種形成を説明できない。

 
対象 object (p.199)
 考えられるもの、語られるもの、あるいは作用されるものであろうと、何であれ存在し得るもの。すべての哲学的概念のうちで、最も基本的、抽象的、そして一般的なもので、よって定義し得ない。すべての対象のクラスは、ゆえに最大の類である。対象は、個物または収集体であるか、具体的(物質的)または抽象的(観念的)であるか、自然的または人工的であり得る。たとえば、社会は具体的対象であるが、数は抽象的対象であり、細胞は自然的対象であるが、言葉は人工的対象である。Alexius Meinongと他の少数の者は、具体的と概念的な、可能的と不可能的な、すべての類の対象についての単一理論を建設しようとした。この企画は失敗した。なぜなら、具体的対象は概念的対象が持たない性質(たとえばエネルギー)を持つが、概念的対象は物質的対象が持ち得ない性質(たとえば論理的形式)を持つからである。よって、対象のクラスについての最も根本的な分割は、物質的(または具体的)クラスと概念的(または形式的)クラスへの分割である。

 
汎心論 panpsychism[Bunge (1999) 哲学辞典 初版 p.205]
 あらゆるものは心的である、あるいは或る程度に心的プロセスを経験する能力を持つ、という教義。同義語:アニミズム〔animism〕。

 
現象学 phenomenology [BungeDic2: 212]
 〔略〕現象学とその分派は、20世紀前半には大陸の哲学で中心的であった。今では、合州国において↑ポストモダニズムの周縁で生き残っている。〔最後の2個の文だけを訳出した。2010年3月31日-1。〕

 
もっともらしさ plausibility [BungeDic2, pp.214-215]
 命題、信念、そして推論の質的な一性質。同義語↑【ほんとうらしさ verisimilitude】、いまだ照合されていないか、証拠が決定的〔確定的〕でない仮説は、或る知識体から見るともっともらしく思えるかもしれない。どうしてもっともらしいのか? テスト〔試験〕が実施されない限り、知るすべは無い。しかし、諸試験がいったん行なわれれば、そして決定的なものであれば、その仮説について、確証された(または反駁された)と言うのである。それで、少なくとも差し当たっては、それは真である(または偽である)と宣言されるかもしれない〔宣言されてもよろしい may be pronounced〕。すなわち、決定的な試験の後では、もっともらしさという概念はもはや必要では無い。そして、試験する前では、もっともらしさの程度に取り組み測定することはできない(あるいは、すべきでない)。この場合、われわれが言える最大のことは、問題としている推量〔conjencture〕は、或る知識体に関して、もっともらしいかもっともらしくないかである。あるいは、一つの仮説は、同じ文脈において、もう一つの仮説よりももっともらしいということである。より精確には、pとqは↑【同一指示的 coreferential】な命題を、そしてBはpとqの両方に関連する或る知識体を指すことにしよう。さらに、Bは、本質的な部分であるEと、非本質的な部分であるIに分割できると仮定しよう。つまり、B = E ∪ I。(典型的には、Bは良い実績をもつ一般化を含むだろうが、Iは経験的データと狭い仮説だけを含むだろう。)次のように規定できる。〔p.214まで。あと二倍ほど続きます。〕〔2010年7月29日-3〕

 
後近代〔脱近代〕 postmodern [BungeDic2: 220]
 建築では明瞭な概念で、ル・コルビジェとバウハウス集団によって創始されたモダニズム〔近代主義〕に対する反抗を表わす。他の分野においては、啓蒙運動の知的価値、とりわけ明瞭性、合理性、一貫性、そして客観的真理性、の拒絶としてを除けば、明瞭と言うにはほど遠い。脱構築主義的文芸批評、『カルチュラル・スタディーズ〔文化研究〕』、そしてポストモダンの哲学は、昔からある非合理主義の当世風改訂版である。実際、ポストモダンの哲学、とりわけ現象学と実存主義、は反哲学的である。というのは、概念的合理性は、支離滅裂に話すこととは反対の、信頼のおける哲学的思索にとっての必要条件だからである。↑反啓蒙運動、↑大陸哲学。〔2010年3月31日-1〕


確率、通俗的概念の probability, vulgar notion (BungeDic2, p.227)
 日常言語では、「たぶん probable」はしばしば「ありそうな likely」または「もっともらしい plausible」のどちらかと同一視される。どちらの同定も、正しくない。前者では、「たぶん」は量的な概念を指すのに対して、「ありそうな」は質的である。また、↑【もっともらしさ】を確率と同等に扱うことは、間違い〔誤解 mistaken〕である。なぜなら、一つの命題は、もっともらしくてもそうでなくても、命題に値段をつけることができないのと同様、一つの確率を当てがうことはできない。↑【確率の逆説】。〔2010年7月29日-2〕

 
指示 reference [BungeDic2, p.246]
 あらゆる↑【述語】とあらゆる適切な形式をした命題は、なにかかにか〔なんらか〕のものごとを指示するか、あるいは↑【について】である。たとえば,『粘性の』は、なにかの液体についてであるし、『代謝産物』は、生物体に関わる。或る述語または命題の指示対象の収集体〔集まり〕は、_指示クラス_と呼ばれる。たとえば、『質量』はすべての物体を指示するが、『より固い』もそうである。ついでに言えば、これらの二つの例は、或る述語の指示クラスは、その↑【外延】と必ずしも一致しないことを示している。実際、『より固い』は物体を指示するが、その外延は、その関係が現実に成立する物体の順序対の収集体である。〔後略。2010年7月20日-2。〕

 
表象〔表現〕representation [BungeDic2: 251]
 a 日常的知識 多義的用語.b 認知科学 『外的対象の視覚的特徴の表象』におけるような、知覚。c 意味論 一つの(物質的または観念的)対象の、一つの概念的、視覚的、聴覚的、または人工的翻訳 translation。〔略〕
 例:関数は、定義域を共定義域へと表象する;ヴェン図Venn diagramは、集合を(主として隠喩的に)表象する;束〔そく〕は、樹木によって表象可能である;『扉は開いている』という事実的単称命題は、事実を表象する;法則言明は、安定した客観的パターンを表象する;建築の青写真は、実際のまたは可能な建造物を表象する;回路図circuit diagramは実際のまたは可能な電気的回路を表象する;地図は、惑星の諸部分を表象する;コンピュータ・シミュレーションは、実在する諸物、またはそれらの数学的モデルを表象する。観念論者には、表象という概念は無用である。さらに、彼らのうちには(とりわけ構築主義者なのだが)、地図を領土とごちゃまぜにする者がいる。これは、まさに表象という概念が標準的な意味論的理論に無いという理由である。そしてまた、これらの諸理論が科学的および科学技術的言説を分析するのに役立たない理由でもある。素朴実在論者(例えば弁証法的唯物論者と初期ヴィトゲンシュタイン)は、真の表象は事実を『鏡映し』、それゆえ独自なのだと信じる。↑知識の反映理論。
 〔略〕これは芸術的表象について本当ではない。写真、絵画、あるいは彫刻のことを考えてもらいたい。なおさらそれは、科学的表象と科学技術的表象について成立しない。これらは記号的symbolicであって、模倣的mimeticまたは図像的iconicではなく、とりわけ視覚的想像力に訴えるものpictorialではない。
  そういうわけで、どんな所与の事実またはパターンも、様々なやり方で表象され得る。例えばプロセスは、ブロック矢線図block-and-arrow diagram、有限差分方程式、微分方程式、あるいは積分方程式によって表象されるかもしれない。そのうえ、一定の電気回路の線図diagramといった、いくつかの表象は、視覚的には異なっているが、物理学的には等価である。〔略〕〔2010年3月11日-2。〕

〔2012年2月17日-4 Bunge哲学辞典 抄 20120217b、に続く〕