生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

芸術、贈与経済、市場

2018年09月17日 13時20分56秒 | 美術修行



 芸術は市場がなくとも生き延びられるが、贈与がなければ芸術は存在しえない
という主張が、アルン スンドララジャン 2016『シェアリング・エコノミー』(門脇弘典 2016/11 訳、68頁)が、ルイス ハイドン 1983『贈与 創造性と近代世界における芸術者』を引用した部分にあった。
  「市場経済と贈与経済という二通りの〝経済〟には、どちらも芸術作品が存在する。しかし、欠かせない片方だけだ。芸術は市場がなくとも生き延びられるが、贈与がなければ芸術は存在しえない(33)」
 贈与がなくても芸術は存在し得る、と思うんだけど、どうなのだろう?。
 つまり、たとえば絵画を無料で展覧に供するという場合は、贈与なんだろうか?。
 見たり聴いたり触わったりで成り立つ芸術作品の場合、そうしても無くなってしまうわけではない。消費されない。味覚的芸術作品は多くの場合、人の口の中に入って消化系で分解されて、作品としては無くなる。(触わられると、芸術作品としてではないが、たとえば淡路島でどこだったかで、ふるさと創生の予算で3億円だったかの金塊を展覧していたが、多くの人が触ったため、あるいは爪を立ててこすりとったのかな?と思うような傷跡があったし、凹んでいた。ところで、獣たちの踏み跡でできる、(松本清張の長編小説の「けものみち」ではなくて、森林中に実在し得る)獣道は、動物たちの協働的彫刻的絵画作品である。)
 なので、たとえば絵画物体は、贈らなくとも、見せればよい。または手元においてときおり眺めたいならば、一定期間、無料または有料で貸すという手もある。
 また、無料の展覧会を催すという手がある。商業画廊も貸画廊も多くは、無料で展覧会を催している。しかしその開催経費を負担しているのは、作品を購入する人だったり、芸術活動者かその公的または私的支援者だったりする。
 芸術作品は無くならないと述べたが、精確に言えば、物体の状態や性質に応じて、様々である。固体状態の物体はだいたいは、すぐには大きくは無くなりはしない。
 [【脱線】けれども、液体作品の場合は、蒸発して消散するのもある。またたとえばナフタリンの固体物体とかは、室温で昇華して気体になるのもある。
 実際上、人の肉眼視覚では気体は見えない。なお、霧,煙,ミスト,スモッグといった、「化学上は、分散相が固体または液体またはその両方であり、連続相が気体(通常は空気)であるゾルであると定義され」るエアロゾルとかは、人の肉眼で認知できる。]
 もっとも、絵具といった構成要素が、地球重力で下に落ちていく過程も作品のうち、という作品もある(例。大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室での展示作品。作者名および絵画題名は失念。)。
 絵画(静止映画とも受け取れる。とくに光絵画は。)を無料で見せることも、贈与とみなせるかも。楽しんでもらえたら、その楽しみの内容が贈与だと言いなすことは可能だ。
 ところで、皆が文化的生活ができるように、みんなに金銭または物資を政府が支給するならば、全員が安心してそれぞれの幸福を求めることができるだろう。
文献
(33)=「Lewis Hyde, The Gift: Creativity and the Artist in the Modern World, 25th anniversary edition (New York: Vintage, 1983, xvi.(『ギフト――エロスの交易』ルイス・ハイド、井上美沙子、林ひろみ訳、法政大学出版会、2002年)」[スンドララジャン 2016、386頁])」
アルン スンドララジャン 2016(門脇弘典 2016/11/21 訳).シェアリング・エコノミー Airbnb、Uberに続くユーザー主導の新ビジネスの全貌.390pp.日経BP社.[本体2000円+税][大阪市立中央図書館675]
ハイド,ルイス.????(井上美沙子・林ひろみ 訳 2002/2).ギフト エロスの交易.法政大学出版会.[ord701]



美術修行2017年9月10日(日) :読書録 西岡文彦 2012/10『ピカソは本当に偉いのか?』

2017年09月10日 11時47分25秒 | 美術修行
2017年9月10日-1
美術修行2017年9月10日(日) :読書録 西岡文彦 2012/10『ピカソは本当に偉いのか?』

西岡文彦.2012/10/20.ピカソは本当に偉いのか?.191pp.新潮社.[本体680円(税別)][Rh20170826][大市図阿倍野723]

 宗教改革、そしてフランス革命によって、絵画や彫刻に求められたものが変わっていった。それまではなんらかの伝達機能を持っていたものが、鑑賞だけを目的とする「美術品」に変わった、と西岡文彦(2012/10、109頁)は主張する。

 「教会にあれば神の威光を表し、宮殿にあれば王の権威を表し、市民の家庭になれば暮らしを美しく彩るという、それぞれの場面で実用的な目的を持っていた美術は、美術館という新たに出現した美の「象牙の塔」ともいうべき権威ある施設に展示されることによって、そうした「用途」から切り離されてしまい、美術品それ自体の持つ色や形の美しさや細工の巧みさだけを「鑑賞」される対象になってしまったのです。」
(西岡文彦 2012/10、109頁)。

 なんらかの威光や権威とかを人に受け入れさせるのではなく、色や形、あるいは細工の巧みさといった、美術品自体から受けることが問題または興味の中心となったということである。この段階で、感性が他のしがらみから解放されたと言える。

 また、(おそらく多くの人には徐々に)露わになったことは、色と形、そして作り手の技が、美術品に固有のものと捉えられたということである。
 しかし、色と形で美しさを現出させることが本質的であるという認識は、抽象絵画以降のことであろう。
 後印象派(後期印象派と訳すのは間違い。)と分類される絵画作者たちは、人や風景や静物を描いていたわけである。具体物をなんらかの方法で写像する限り、あるいは元となる外界のまたは夢の記憶といった対象を選ぶ限り、色を変換したり、形を歪めたり省いたり加えたりしても、なんらかの束縛は残る。
 抽象絵画は、具象絵画とは異なる段階のものとなったのである。既存の存在者たちから、自由になったのである。
 【→抽象絵画論】



美術修行2017年8月21日(月):読書録=森村泰昌 2014/7 『美術、応答せよ!』、抽象絵画原論覚書20170821

2017年08月21日 12時33分30秒 | 美術修行
2017年8月21日-1
美術修行2017年8月21日(月):読書録=森村泰昌 2014/7 『美術、応答せよ!』、抽象絵画原論覚書20170821


森村泰昌.2014/7/30.美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集.252pp.筑摩書房.[本体価格1800円+税][大市図阿704][Rh20170817]

 質問してもらって、答えるという、問答形式を取っている。概して、真剣勝負的である。だから、面白い。文章もわかりやすく、上手い。人生相談的でもある。

 絵を観るときの二つの捉え方として、

  ・うまい
  ・おもしろい

がある。
 〈うまい〉は、デッサンがしっかりしている、色彩感覚が良い、筆さばきに停滞が無い、などの物差しをあてがえば、うまいかどうかは判断できる。
 〈おもしろい〉は、人によってまちまちになる。数人だと一致しないときは、決定困難。
(森村泰昌 2014/7、44-45頁)。

 →もっと他に、評価基準があるはず。


 さて、とりわけ興味深かったのは、

  ・抽象画ってどうやって描くのでしょうか?
  ・作品の値段が上下するのをどう思いますか?

という質問の項目だった。


・ 抽象画ってどうやって描くのでしょうか? (77-85頁)

  「レオナルドは、〔略〕「目に見える世界を摑みとろう」としていますが、他の画家たちはたいていの場合「なぞろう」とする。なぞるから輪郭線ができます。」
(森村泰昌 2014/7、81頁)。

 確かに。ただし、輪郭線とは個体的システムの境界を図示しているとも捉えられる。
 → 抽象絵画での輪郭の問題。線的表現、あるいは背景色とそれとは異なる色線または色面。



  「日本美術とは「図柄の視座」であったと私はとらえてみました。日本美術にとって、目に見える世界は「図柄」としてとらえられている。〔略〕
 〔略〕
日本美術史における視覚表現が「図柄」として現れるのであるとすれば、〔略〕西洋美術史とは根本的に話が違ってきます。たとえば、福田平八郎作『漣』にしても、これを日本画における抽象画の現れととらえてしまっては理解が遠のきます。そうではなく、「これは斬新な図柄だ」と感心すべきなのです。図柄なら、はじめから具象と抽象は地続きです。菊(具象)も唐草(半抽象)も市松(抽象)も、すべては「図柄」のバリエーションです。日本美術の「目と精神」において。「具象画vs.抽象画」という対立概念自体は当初から存在しません。〔略〕すべてが「図柄」の問題であるなら、それが具象であろうと抽象であろうと、人々は、絵の「図柄」を着物の「図柄」のように品定めしたり、着物の「図柄」を絵のようにながめたりすることができる。日本画の展覧会に多くの人々が関心を寄せるのも、「図柄」という誰にでもわかる尺度で鑑賞が可能だからではないでしょうか。」
(森村泰昌 2014/7、82-84頁)。

 日本美術史から考えると、西洋美術史とは異なった美的感受性として、図柄として見るという点があるとしている。あるいは、日本美術では、
  
  「目に見える世界は「図柄」としてとらえられている」(森村泰昌 2014/7、83頁)。

 定義はされていないので、「図柄」とは模様 pattern、つまり、なんらかの表面への色の配置の結果を指すことと解釈しよう。おそらく平面的表面を想定しているだろう。

  絵画の構成={色模様、(?その他)}

 町の衆に浮世絵は、版画であり、きわめて平面的であった。そこでは、人物や道具とか風景とかとともに、色と配置を味わっていたのだろう。
 →というよりは、色付きの個体的対象(人物、着物、橋、雨筋、)とその振る舞いや表情や、見る者が投影した叙情を、そして全体の配置から醸し出されるものまたは見て取ったことを、味わっていたのだろう。
 →具象絵画における個別的対象の種類同定の問題については、別に述べる。

 西洋油絵の影響を受けて、日本画では厚塗りが現れた(室町時代かの大和絵では、たとえば花弁のところに胡粉をえらく盛り上げていることは稀ではない)。いまでは、薄いのから厚いのまで、いろいろである。図柄の視座だけではなくなっている。これは、洋画でマチエールが問題にされたことが関係しているだろう。こんにちでは、絵肌も絵画の構成者として考えなければならない。

  絵画の構成={色模様、表面の肌あい、その他}

 福田平八郎『漣』[1932年。大阪市立近代美術館建設準備室蔵]が、少なくともその当時に出品されたとき、「斬新な図柄」だったのはそうだろう。森村泰昌氏の言う「図柄」には色も入っているとしよう。確かに、『漣』は的である。しかし、水面という背景に、漣を構成する

  「下地であるプラチナ箔の下に、さらに金箔が重ねて押されていたことが分かりました。作者自身はこのことを「どう勘違いしたのか、表具屋が金箔を張り付けてきた。出品まで、もうやり直す時間もないし、ままよと窮余の一策に、その上に銀を張ったのが、却ってよい効果を生んでくれました」と後に語」
 《漣》箔の秘密 [大阪新美術館建設準備室]
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/gallery_pickup_05.html

ったように、プラチナ箔とその下に金箔という二層に貼られたことと、その上の岩絵具の群青(など)の大きさとその個体密度分布が醸す視覚効果である。
 模様だけにならば、漣が立つ程度の風が吹いている川や池で斜め上から写真を撮ると、色抜きでの模様は、《漣》同様になる。福田平八郎《漣》は写実的である。
 絵画として《漣》の良さは、構え(ここでは斜め上から見たように、漣を構成する波表面を表す閉面個体たちが上方へと小さく密になる。これは写実または対象の模倣または擬え[なぞらえ])だけでなく、極めて微妙な色合いとその分布である。つまり、
  
  絵画の評価事項={(色を捨象した場合の、個体的要素の絵画全体の)構え[分布様式、または格好]、
           色分布または配置]、その他}

とすると、

  構えが良く
   (ただし模写的であって、外界で目新しい模様ではない。ただし、その当時、漣だけを描くという画面は、目新しかっただろう。)、
  色合いとその変異が良い、
   (大きくは二重の箔貼りによる。しかも、事故的な偶然による。)

ところが、双方あいまって、つまりは全体として(および触覚的成分も視覚的に合成されて?)、見映えがするのだと思う[視覚的評価]。
 [→別項目で、抽象絵画原論へ持って行く。]

 なおここで、絵画表面の、または立体絵画の、「構え」とは、〈造り〉とか〈姿勢〉や〈態度〉といった語で言い換え得るような、意味であるが、感性的な評価を含まないように定義すると、次の通りであり。ここでは、概念的あるいは解釈的なことは含まない、つまり純粋絵画的なことに制限している。

 定義[構え]=
        或る人が、絵画体全体の個体的構成要素を観て、捉えられる動的ないし静的な感じ、つまり(動的および方向的に性質を含む)配置的な感性上の効果。

 福田平八郎『漣』の場合には、図柄としてとらえることで、半分くらいは説明できるかもしれない。
 若冲や蕭白の作品から、空気感や、勢いが、感じ取られたとしよう。図柄というよりは、筆跡からのものだろう。
 また、横山大観らの言う〈気韻生動〉は、図柄の問題だろうか?。〈生々流転〉は、叙述的または物語的形式とともに、描き方で和紙と墨の性質を生かしたところが良い。


92頁。
 美術作品を作るときは制作で、映画の場合は「製作」と呼び、後者は興行として行なわれるからだという。
 この区別は、成立しない。

 ウィキペディアによれば、
  「興行(こうぎょう)とは、人間が表現する芸術の基盤を形成し、同時に大衆へ娯楽を提供する行為である。具体的には見物人から入場料をとる代わりに演芸やスポーツを見せる事である。」
という。
  「こうぎょう【興行】
   《名・ス他》演芸やスポーツを行い、入場料をとって客に見物させること。 「相撲(すもう)の―」」
  (https://www.google.co.jp/search?source=hp&q=%E8%88%88%E8%A1%8C&oq=%E8%88%88%E8%A1%8C&gs_l=psy-ab.3..0l8.701.701.0.887.1.1.0.0.0.0.151.151.0j1.1.0....0...1.2.64.psy-ab..0.1.151.qLJBoze0R0g)[受信:2017年8月20日。]
ともあるから、入場料を取るかどうかの違いらしい。

 確かに、映画を作る produce ときは、映画館で上映して入場料を取るのが前提であることが多いだろうが、興行されない場合もある。
 美術作品は、ムットーニのからくり人形

http://www.muttoni.net
[受信:2017年8月21日。]

のように[劇場型。数年前に札幌で見た。いちぞやのアートフェア東京では箱の中を覗くという趣向だった。]、音楽を奏でるとともに動かして(つまり上映になるだろう)、それをいくつか見せることで、入場料を取っていた。
 根本的な違いは無い。公立または私立ま美術館も、入場料を取るので、興行であろう。
 また、絵画作品を個別に売ることがあるし、ギャラリーなどで多くの客に売ることがある。工業製品も個別にまたは集団的に売ることがある。ここでも違いは無い。


100頁。
 ヴィンチ村のレオナルドも、フェルメールも、(ヨハン ゼバスティアン バッハも)一度忘れ去られた。
 (しかし、メンデルスゾーンはバッハを発掘した。)


  「近代において、芸術は、「失敗」という割の合わないリスクを背負うことこそが価値であるという、まことにいびつな事業となっていきました。」
(森村泰昌 2014/7、101頁)。

  「「判断するな」、これが芸術におけるまことに逆説的な判断基準である。〔略〕芸術とは、理性、理論、数値を重要視する近代の裏面としての狂気です。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。

  「二十世紀になりますと、芸術という事業に異なった様相が現れます。マルセル・デュシャンは「観念の事業化」を計画し、ヨーゼフ・ボイスは「芸術の事業化」ではなく「事業の芸術化」を構想するといった具合に。」
(森村泰昌 2014/7、102頁)。


139頁。
  「「ネガは楽譜である」という発想に、絵画とは異なる写真特有の表現の在り方が示されている。」

 グレン グールドは、バッハのゴルトベルク変奏曲を2回レコーディングした。
 さて、版画という部類からは除かれることもあるが、モノタイプという製作方法がある。
 たとえば、金属板にインクをおいて、へらなどで模様をつけて、それを紙などに転写する方法である。
 (故)一原有徳さんは、なかなか迫力あるモノタイプ作品を作っている。
 ついでに言えば、一原有徳さんがやったように、バーナーで鉄板を焼いて、虹色模様をつけて絵画とすることができる。

 写真は photography の意訳的訳語である。本来ならば、光図と訳すべきところである。
 写真の出現で、絵画は変貌せざるを得なかった。模写ならば、写真のほうが精密な写しであるし、後年の技術的発達によって簡単に色彩写真もできるようになった。
 写真は、ネガまたはポジフィルムが版となって、複製品ができる。明瞭に、版画の部類になる。
 絵画においても、縮小または等倍の下絵や、あるいは頭の中の心像によって、絵画を製作したのならば、それが元の版である。
 版があって、それをもとに筆に絵具をつけて同様の絵画を作ることができる。また、紙または画布を置いて、薄い和紙や厚いダンボール紙をくり抜いて、凹部分に絵具を充填する、穴を通して紙へ押し出す squeegee こともできる[孔版画]。
 版または元のものを、なんからのやり方でなぞれば、版画である。
 頭のなかで構図にしたがって、絵具を滴下したり dropping 振り出したり swinging out、ジャクソン ポロック流に垂れ落とし dripping または 注ぐ落とし pouring したりすることもできる。この場合も、版画と言いなすことができるが、もとより、画面での自由度は大きい。偶然的な、というより人手で制御できない割合が大きいのである。
 結局のところ、

   固定された指図芸術品として楽譜
   →演奏者を介して、一定範囲内で様々な変異作品が製作される、または上演、または演奏される。

 贋作や盗作とは、異なる製造者や色の絵具で変奏された、または変装された作品である。元になった絵画は、元の版画または楽譜である。
 贋作で、たとえばゴッホという署名は、元となった絵画の作者名(音楽作品ならば、作曲者名)である。
 ま、アプロプリエーション appropriation っては、元材料を定めれば、創造性をあまり発揮しなくて良いので、楽であり、堕落でもある。
 脱線した。


164頁。解説すると作品を限定してしまう、という主張。

  「自作解説なんて真正直にしてはいけない。〔略〕「私の作品はこれこれしかじかのものだ」なんて決めつけてしまったら、〔略〕作品のなかのもっと他にもあるに違いない多様性が見えなくなってしまいます。作品は明快に解説されたとたん、その範囲内の小さな世界にやせ細ってしまうのです。」
(森村泰昌 2014/7、164頁)。

 それは、そのような作品の場合であろう。また、そもそも、言語で伝わるのなら、言語で伝えるとか表現すればよいので、作品を作る必要は無い。
 しかし、新しい種類のものならば、観方や作り方を語って、感性を引き出すとか植えつけるといったことは、むしろ本質的なことである。とりわけ、二次元ないし三次元の抽象絵画の場合には。


170頁。
美術とアートを分けている。
 「私はこうとらえます。「美術」とは「こだわることが美であるような世界」である。これに対し、「アート」とは「こだわらないことが美であるような世界」である、と。」
(森村泰昌 2014/7、170頁)。


 カラヴァッジョの『ロレートの聖母』を例に、森村泰昌は、
  「「聖と俗」の共存によってカラヴァッジョが人々にもたらしたもの、それは、きれいな絵空事としての信仰ではなく、泥やひび割れや俗悪や野卑といった生活感覚を伴ったリアルな信仰。これは自分自身の問題なんだという当事者意識が感じられる信仰のあり方だったのではないか。
 本来は唯一無二の真理を求めるキリスト教世界なのでしょうけれど、胸に手をあて自問すれば、誰もが感じ取れる美的価値の多様性。〔略〕「聖」も「俗」も、「美」も「醜」も共存させうる汎神論的美の視点。美は世界にあまねく存在するという「美のアニミズム」。私の美術への興味の拠り所となっているのも、そういう拡散し偏在する「美」のありようにほかなりません。」
(森村泰昌 2014/7、224頁)。

 美と醜という感性的判断としては反対極のものを共存させれば汎神論的、というのは「汎神論的」の意味がわからない。たとえば、玉石混交していたら、汎神論的なのか?。
 なにかが世界にあまねく存在すると考えれば、アニミズムなのか?。
 「拡散し偏在する「美」のありよう」と、汎神論的とかアニミズムとがどう接続するのか、あるいは何を指摘または特徴抽出したのか、わからない。

 →八百万神[やおよろずのかみ]とは、「森羅万象に神の発現を認める古代日本の神観念を表す言葉」とある。
 
  「日本の記紀神話にあらわれる八百万神(やおよろずのかみ)の世界も多神教の一種であるが,その神々は古代ギリシアの宗教やインドのヒンドゥー教における多神教とは異なって,肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在であった。」
(世界大百科事典の【多神教】より。
https://kotobank.jp/word/八百万神-874603[受信:2017年8月21日。])

 日本での「肉体的な特徴や個性をもたず,目にみえない存在」とは、西洋では天使とか妖精とか自然霊に相当するものだろう。ただ、日本では概括して捉えていて、特徴づけまたは分類はしなかったのではないか?。時代が下ると、座敷わらしだとか、一つ目小僧だとか、様々に想像豊かに、物語られた。
 また、脱線した。

  「野生の動物は野生に放つべきです。同様に「美」の世界も「お芸術」として美術館に隔離するのではなく、「見世物」として猥雑かついきいきと生きていた世俗に戻すべきである。」
(森村泰昌 2014/7、[あちこち探したが]頁不明)。

 上記の文は、問いへの答えとして「野生の美学」の精神という文脈で考えられている。
 野に生きる美術作品はあるだろう。けれど、ホームレスではなくて住居のある人には、雨露を気にしなくてよい場所で観てもらってもよい。
 絵空事や綺麗事を目指す者には、まずは屋内作品で考えたい。その中で、水をぶっかけることで美しく見える作品もありだろう。



◆ 「作品の値段が上下するのをどう思いますか 小山登美夫」(150-159頁)

 小山登美夫さんからの大人しい質問に対して、森村が挑発して、面白くなった。
「美術関係者」の金銭経済の問題。商業性。

  「現代美術と呼ばれるジャンルは、時代の最先端を行く内容でありながら、日本では「わけのわからないものけとして、なかなか世に広く認知されないという現実が長らくありました。
〔略〕
 コレクターのパイを増やすこと。〔略〕アートフェアを開催すること。〔略〕作品が流通し、美術家が自活できるような環境を整備すること。経済の自立をともなわない美術の自立はありえないという視点に立ち、この美術の自立の拠点としてギャラリーを機能させること。」
(森村泰昌 2014/7、154頁)。

155頁。
 有名になるにつれて、作家はギャラリーを必要としなくなる。

  「日本にいながら絵画の大コレクターに売っていけるようなことが必要です。アートフェアやシンガポールの支店はその窓口になればと思っています」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、157頁)。

 ギャラリー経営の安定には、顧客に売れ筋の美術品を揃えることは、一つの手だろう。
 しかし、「市場」の規模は、まだ大きくない。
 けれど、

  「売れるものにみんなが貪欲に群がっていくのが凄く強く感じられて、これは大手ギャラリーやオークションハウスが、マーケットで売れるものを意図的に作り上げることが頻繁になったせいなのかもしれませんが、まったく太刀打ちできない無力感があります。でも、麻薬になったとたん、自分にとっては作品がつまらなくなってくるように思えます。〔略〕でも確実に「売れて行く」ということは興味深いことです。」
(小山登美夫、於:森村泰昌 2014/7、158頁)。

 日本の商業ギャラリー〔画廊〕の苦労の多いことは、やはり長い歴史のある欧米の芸術環境によるだろう。美術作品の評価基準は、彼らが持っているからである。
 美術の中心地が、経済的興隆と関わって、

 パリ→ニューヨーク(とパリ)→香港や上海(あるいは北京)といった中国の都市(とニューヨーク(とパリ))

となるかもしれない。
 しかし世界は、縮こまっていく。人口もまた縮小すべきであろう。
 簡素な生活をするにしても、人の文化的生活水準を考えれば、地球の収容環境からして、人口は減らすべきであろう。「先進」国の日本は、この点で世界に先駆けている。
 
 では、どうする?。
 地域社会の各分野または小地域ごとに無理の無いゆるい連携であろう。
 協力、したがって資源の分かち合いである。
 「貨幣」とは何か、「経済」に貨幣は必要なのか、必要または便利だとしても、一部のものだけが「富む」とか、社会において支配的になる、といっことを防ぐ、または地球住民全員に健全な経済と文化的生活を取り戻すことが、肝心である。
 美術が、文化的生活に必要だとすれば、日本での

  文化的生活のできる資材と金銭の全員への支給
  [基本収入全員支給制]

が、考えられ実施されるのが良いかもしれない。
 すでに、外国では実験的実施が行なわれている[要検討]。



生活の経済的側面(覚書)

 美的作品製作者としての、生活の経済的側面。
 現在は、中央銀行がほぼ無からお金を振り出す貨幣経済。

 地域的、または仕事や趣味の分野的交流社会の経済的側面
 広域的社会、県やたとえば京阪神とか近畿圏
 日本社会、アジア社会、北半球、南半球、地球規模社会

美術修行2017年8月14日-1:暮沢剛巳 2008/7『現代アートナナメ読み』読書録、中サワヒデキ 1989 近代美術史テキスト

2017年08月14日 23時38分54秒 | 美術修行
2017年8月14日-1
美術修行2017年8月14日-1:暮沢剛巳 2008/7『現代アートナナメ読み』読書録、中サワヒデキ 1989 近代美術史テキスト

[く]
暮沢剛巳.2008/7/4.現代アートナナメ読み 今日から使える入門書.237pp.東京書籍.[本体1700円(税別)][Rh20170804][大市図阿702]


 2017年6月23日、読み始めた。 その後、中断した。
 2017年7月24日頃に、「第2部 アートの見方ナナメヨミ」(127-162頁)の部分を読んだ。10人の美術評論家を2頁の見開きで解説している。平易な文章で本質的なところを判断して書いている。大変参考になる。
 2017年8月4日、読了。


  「アートと政治——「美しい国」とはなんだったのか?
〔略〕
 2006年7月に出版された『美しい国へ』(文春新書)は、小泉純一郎首相の退陣を間近に控え、後継が確実視されていた安倍晋三官房長官(いずれも当時)の初の著書で、彼の政見表明という側面をもっていました。国家の自立、北朝鮮への強硬姿勢、日米安保体制の重視、教育や年金制度の改革意欲などからなる内容は賛否両論を呼び、多くの書評が出ました。〔略〕
私か本書を手に取ったのは、『美しい国へ』というタイトルへの関心からでした。ひょっとしたら、国土や景観について突っ込んだ政策を語っているのではと思ったのです。しかし本書では最後の方で《私たちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ》(228ページ)と書いてあるきり、「美しい国」の具体的なビジョンはほとんど語られていません。」
(暮沢剛巳 2008/7、21頁)。


  「家族愛に満たされ、ある種のノスタルジアに彩られた「古き良き日本」が理想像であることは間違いありません。」
(暮沢剛巳 2008/7、22頁)。

  「アート作品に登場する景観のイメージは実に多種多様です。そこにはおよそ統一的な美の基準など存在しない〔略〕
志賀重昴によって『日本風景論』という本が書かれました。日本の風景の特質を火山や松やリアス式海岸に見たこの本は、日清戦争の勝利の余韻もあってか大ベストセラーとなりました。この逸話は、景観の美醜の判断がナショナリズムと結びつきやすいことを示しています。「美しい国」を目指すことと画一的な景観を押し付けることのの境界線はどこに引かれるべきか、再考したいところです。」
(暮沢剛巳 2008/7、27頁)。

 言い方は穏やかだが、安倍晋三氏の聞こえがいいだけの空疎な言葉の口先だけという無内容無責任性は、昔からだったということだ。その本の執筆が代筆だとしたら、その人は忠実ということになる。
 

 第2部のアートの見方ナナメヨミは、10人の批評家を取り上げていて、その視点を簡潔に解説し、わかりやすい見取り図にもなっている。
 芸術批評の「トポグラフィ〔地勢図〕」と題した図があるが、
   アート     ←→非アート
   ポストモダニズム←→モダニズム
   ジャーナル   ←→アカデミズム
の3軸上に10人を位置づけている。

 暮沢剛巳氏の対談相手である小西信之氏は、
  『オリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』(1994/11 訳)【未読】
の翻訳者でもあった。


 さて、ネットしていると、

中サワヒデキ.1989.近代美術史テキスト 印象派からポストへたうまイラストレーションまで.44pp.トムズボックス.[500円+税]

というのが、面白そう。
 
  「フォンタナの制作風景を描いた3コマ漫画があるのですが、最終コマでは何と実際にカッターの切れ目が入っています。〔略〕
当然ですが、ページをめくった裏面、第9章イブ・クラインの箇所にも切れ目はありますね。〔略〕
驚くなかれ、さらにめくっていっても切れ目は続き、ハイレッドセンターの頭を切り裂き(写真)、この本では10章の「現在美術(1)」まで6ページ分も切れていました。」
http://artdiver.moo.jp/?p=648[受信:2017年8月14日。]

とあった。副題に「へたうま」とあるし、第8章は、フォンタナ「空間概念」。

  「
目次:

第1章 印象派
第2章 野獣主義と立体主義
第3章 ピカソ「ゲルニカ」とマチス「ナスターチウムの花と≪ダンス≫」
第4章 戦前期20世紀美術
第5章 「ダダ」とは お馬ドウドウの意味
第6章 戦後アメリカ美術の誕生
第7章 ジョーンズとジョーンズ以後
第8章 フォンタナ「空間概念」
第9章 イヴ・クラインと三木富雄の時代
第10章 現在美術(その1)
第11章 現在美術(その2)
第12章 ネオ・ジオの真意
第13章 シミュレーション100%:ジェフ・クーンの「芸術?」
第14章 ヘタうま・パルコ・反イラスト
第15章 スージィー甘金とイラストの心
アーティスト名索引」
http://lilmag.org/?pid=33428707[受信:2017年8月14日。]

 注文した。

美術修行2017年8月4日(金):篠原滋生展 2017/ギャルリ・サンク/奈良

2017年08月04日 23時33分16秒 | 美術修行
2017年8月4日-1
美術修行2017年8月4日(金):篠原滋生展 2017/ギャルリ・サンク/奈良


 篠原滋生展 2017/ギャルリ・サンク/奈良/入場無料。

 大変独創的な作り方による、作品群。
 
 SHIGEO SHINOHARA OFFICIAL WEB SITE
http://www3.hp-ez.com/hp/shinoharabo/
にもあるように、
 麻布をほぐして切って、数cmの長さにすることから始めるとのこと。
 油絵具と晒し蜜蝋で色をつけ接着していくとのこと。

 絵画表面はかなりの凹凸があるので、視覚の方向で見えは様々に変わる。照明方法でも変わる。

 昨年のギャルリ・サンクでの個展では、2017年の全関西展出品作品のように、ドングロスを皺寄せて貼った上に、油絵具と晒し蜜蝋を施す連作もあった。






































































美術修行2017年7月13日(水):川上隆史展/ギャラリー勇斎/奈良

2017年07月13日 09時57分37秒 | 美術修行
2017年7月13日-1
美術修行2017年7月13日(水):川上隆史展/ギャラリー勇斎/奈良

 川上隆史展/ギャラリー勇斎/近鉄奈良駅またはJR奈良駅/入場無料。











































 後記。
 川上隆史氏の真鍮を使った作品を見たのは、三年前かもっと前か、尼崎アートフェスティバル/尼崎市総合文化センターが最初。ほどなくして、ギャラリー菊で観た。
 今年は、gallerism 2017 in 中津/ピアスギャラリーで観た。
 やはり、個展/ギャラリー勇斎での展示は、個々の作品の見え、そして、隣接の二つ組、隣接した三つ組、また一個体とその背景の個体群、また虚的な影だけの像と、いずれの組み合わせの景観としても、素晴らしかった。

 山下克彦さんの作品で、アルミニウムの針金を叩いた作品を、確か針金展/スペース御蔵跡で、観た。
 気色良かった。まねるしかない(affordanceというわけではないか?)。

  「コンピューター用語辞典での「Affordance」の意味
    affordance
    名詞
    アフォーダンス
    知覚や行為をうながすものとして環境が内包している一種の力。
    グラフィックス関連では、あるオブジェクトの機能の視覚的目印となるものを指すことがある。」
http://ejje.weblio.jp/content/Affordance[受信:2017年7月13日。]

 で、川上隆史氏が使った真鍮という材質の針金も、叩いてみよう(……ホトトギス)。

























 ↑(上):川上隆史 2017〈ただ水平に彼女のなかに〉
 ↑(下):川上隆史 2017〈ただ水平に彼女の外に〉
を一組みとして選び、合体展示しました。





美術修行2017年7月7日(金) : 篠原滋生〈混合風景〉、いたみありさ2014『学校では教えてくれないアーティストのなり方』

2017年07月09日 00時03分19秒 | 美術修行
2017年7月7日-1
美術修行2017年7月7日(金) : 篠原滋生〈混合風景〉、いたみありさ2014『学校では教えてくれないアーティストのなり方』
2017年7月9日、一部を追加し、訂正した。


 全関西美術展/大阪市立美術館/天王寺駅/出品者証で。




 篠原滋生〈混合風景〉は、縦長画面にドンゴロス[粗い麻布]らしいものを波のように皺立てて、蜜蝋をかけたもの。見応えがあり。額縁は、5ミリくらいのプラスチック板の黄色いものを2枚重ねている。
 昨年今年の京展での篠原滋生氏の作品は、紐状の蝋がいっぱいで、落ち着いたいい色になっていた。しばし見とれていたので、京展の講評会(聴衆としては、受賞者と報道関係者を想定しているようだ。しかし、一般人でも、表彰式の後は表彰式場と同じ講評会会場に入ることができる。上野の森美術館大賞展の講評会は、出席申し込みが必要だが、一般人にも公開している。そして、絵画現物の前で作者が話しして、その後に講評がある。)[下線部分を20170709 0:00に追加]の日本画と洋画部門のを聞き逃した。
 全関西美術展も京展も撮影禁止で、どちらも目録は販売しているが、全関西美術展では画像は掲載されない。京展の目録には、受賞作品の白黒画像だけが掲載される。また、どちらも、展示されている作品をめぐりながらの講評会は無い。

 菱形の画面に銀箔を貼って、薬液で赤黝くないし黒く線状に(化学反応で)「焼いた」と思われる作品があった。筆を使って「焼いた」のだろうか。


*いたみありさ.2014/9/15.学校では教えてくれないアーティストのなり方.213pp.サンクチュアリ出版.[本体1400円+税][大市中図ヤング707][Rh20170707]

 ニューヨークでの美術事情や美術者環境が、著者の経験で語られている。
 「現代型の聖地ニューヨークではアートコンペの結果よりも、今、どのアーティストがどういうアートを表現をしているのかが話題になる。」
(いたみありさ 2014/9: 53頁)。

 「自由であることがアーティストを象徴する」
(いたみありさ 2014/9: 57頁)。

 「ニューヨークであれば、家を飾るアートをアートギャラリーで買うことは、いたって普通のことなのだ。」
(いたみありさ 2014/9: 61頁)。

 「海外ではアートを展示する空間も全て含めてアート作品なので、総合プロデュースができなければアーティストとしては認めてもらえない。」
(いたみありさ 2014/9: 107頁)。

「私が思う海外での初個展の値段のつけ方

基本は 制作時間+
    材料費+
    作品への愛着度

(いたみありさ 2014/9: 113頁)。
 具体的な計算は示されていない。低、中、高の三つの値段分けをして、それに応じた買い手分けをしている。

 ある一人がペイント入りのバケツを落としたため壁の塗り直しになることに、怒りをぶつけたとき、或る友人の言葉が、著者のアートに対する原点になったという。
 「友人の言葉〔略〕はアートに対する原点になった。「〔略〕それぞれにやり方があって個性があって味がある。それが人間の作るアートじゃない?〔略〕パーフェクトなものだけ作りたければマシーンに合わせるよ。〔略〕」わたしは、足場から遠く、遠く離れて、〔略〕壁画を眺めた。〔略〕友人の言うように10通りのやり方はハーモニーになって味のある作品に仕上がっていた。〔略〕アートとは完璧にではなく、自分のオリジナリティーを見つけることなんだ。」
(いたみありさ 2014/9: 208頁)。

 「「アートを生活の一部に」をコンセプトに、〔略〕仰々しく作り上げられたホワイトキューブの空間ではなく、アットホームな空間のなかで、アートがそれぞれの人の家の一部のように、大事に飾られている感覚を伝えたいという思いを込めた。」
(いたみありさ 2014/9: 210頁)。
 ここでの「コンセプト」とは、標語または信条という意味か?。
 建築物の設計での「コンセプト」とは、
  「設計は「提案」→「設計」とすすむわけですが、設計の前提となる提案の内容を決めるものがコンセプトと呼ばれるものです。
 つまりコンセプトとは提案するにあたってのよりどころとなる主張、考え方をいいます。」
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422270069[受信:2017年7月7日。])
という一つの主張がある。「提案のよりどころとなる」とはどういことなのか?。
 「提案」→「設計」というのも、わからない。設計をあれこれ考えて、決定したら、提案するのでは?。提案とはイデアのことか?。
  理念→設計→製作(材料を集めて、それらの物質に形相または形態をあたえ、なんらかの役割または機能が遂行できるようにする)
ならば、少しはわかるのだが。

 展示と鑑賞の環境もまた、様々であっていい。
 「完全予約制で1日100人しか来館することが出来ないこの場所」
(いたみありさ 2014/9: 210頁)。

美術修行2017年7月2日(土)-1:植田志保展 「接触」 色のすること/ラッズギャラリー

2017年07月02日 20時14分53秒 | 美術修行
2017年7月2日-1
美術修行2017年7月2日(土)-1:植田志保展 「接触」 色のすること/ラッズギャラリー


 植田志保展 「接触」 色のすること/ラッズギャラリー/入場無料/野田阪神駅または福島駅または新福島駅または中之島駅。
 [画像掲載は作者の了承済み。]































美術修行2017年7月1日(土):日本画搬入、美術書借り。貨幣経済、市場、地域通貨、基本収入全員支給 。

2017年07月02日 10時36分53秒 | 美術修行
2017年7月2日-1
美術修行2017年7月1日(土):日本画搬入、美術書借り。貨幣経済、市場、地域通貨、基本収入全員支給 。


 京都の某所へ、日本画を某美術団体展への応募で搬入した。13時から15時は、iPhoneに付属のアプリの天気予報では、50-60%の確率で小雨。天気jpによれば、その時刻は曇り。これまでと同様に、天気jpの方が当たる。

 搬入後、地下鉄車内のボスターに京都美術文化賞/中信美術館という展覧会があると。
 しかし京都のどこにも寄らずに、大阪市立中央図書館へ。土曜日は夕方五時で閉館なので。
 美術館運営関連と現代美術関連の本を合わせて9冊借りた。
 
◇ 美術館運営関連書 20170701◇

*新見隆(編)/新見隆・金子伸二・杉浦幸子(著).2015/4/1.ミュゼオロジーへの招待.268pp.武蔵野美術大学出版局.[本体2100円+税][縦書き][大市中図069]

*新見隆・杉浦幸子(編)/金子伸二・新見隆・河原啓子・小松弥生・永山恵一・村井良子・大竹嘉彦・児島学敏・安斎聡子・住友文彦・杉浦幸子・嘉藤笑子・杉山享司・蔵屋美香・弘中智子・小金沢智・北澤智豊(著).2016/4/1.ミュゼオロジーの展開 経営論・資料論. 379pp.武蔵野美術大学出版局.[本体2600円+税][横書き][大市中図069]

*福原義春(編).2015/1/31.ミュージアムが社会を変える 文化による新しいコミュニティ創り.223pp.現代企画室.


 美術館 museum of art と自然誌博物館または自然史博物館 museum of natural history
を比較して、互いの良いとこ取りをするという特集があれば良いな、と思った。



◇ 現代美術関連書 20170701◇

*いたみありさ.2014/9/15.学校では教えてくれないアーティストのなり方.213pp.サンクチュアリ出版.[本体14,500円+税][大市中図ヤング707]

*フルティガー,アドリアン.1978, 1979, 1981, 1996, 2006(小泉均 監訳/越朋彦 訳 2015/6/24).図説 サインとシンボル.374pp.研究社.[価格不明][大市中図701.3]

*ベッカー,ハワード・S..1984, 2008(後藤将之 訳 2016/4/30).アート・ワールド.xxx+431+20pp.慶應義塾大学出版会.[本体4,800円+税][大市中図701.3][Becker, Howard Saul. Art Worlds. ]

*江藤光紀.2010/12/25.現代芸術をみる技術.xxiv+389pp.東洋書店.[定価2,800円+税][大市中図702.07]

*暮沢剛巳.2008/7/4.現代アートナナメ読み 今日けら使える入門書.239pp.東京書籍.[本体1700円(税別)][大市図阿702]

*白川昌生.2014/3/25.白川昌生 ダダ,ダダ,ダ 地域に生きる想像☆の力.199pp.水声社.[定価2,500円+税][SHIRAKAWA Yoshio Dada, Dada, Da The Power of Imagination Living in the Community][しらかわ よしお][アーツ前橋 企画・監修][「地域」は英語では「共同体 community 」となっている。]



 白川昌生.2001/11/3.美術、市場、地域通貨をめぐって.259pp.水声社.[2,800円+税][B20100220][Rh20130522][

は、2013年に一度読み通した。最近になって再読し始めたが、地域通貨のことがよくわからず、186頁あたりで止まっている。
 基本収入全員支給 basic income to all persons [英訳してみました。これで良い?]との関係やいかに?。
 →システムの構成と構造(構成間関係)をどうすべきか?。

 森野榮一.2014/3/25.マース券と握手する手 ——未来からありがとう.白川昌生 2014/3/25『白川昌生 ダダ,ダダ,ダ』: 78-87.

は、参考になりそう。

 白川昌生氏の著作には、
  『美術館・動物園・精神科施設』水声社 2010
  『西洋美術史を解体する』水声社 2011
など、興味深いものがある。



 *若林直樹.退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史.[大市中図702書庫資料]
 *長沢秀之(監修)/小野皓一・樺山祐和・桑原盛行・山本明比古・若林直樹.2002/4.造形基礎.113pp.武蔵野美術大学出版局.[2600円]
 *仲谷洋平・藤本浩一(編著).1993/4/?.美と造形の心理学.229pp.北大路書房.[2913円][701.4]
は、次回に。


美術修行2017年6月17日(土)-3:現代書の冒険/アトリエ西宮

2017年06月20日 23時29分50秒 | 美術修行
2017年6月20日-2
美術修行2017年6月17日(土)-3:現代書の冒険/アトリエ西宮



 現代書の冒険/アトリエ西宮/阪神西宮駅/入場無料。
 [画像掲載は、画廊の了承済み]

 出品者は、
      牛丸 好一
      田口 梅屋
      友霞 良一
      本城 研石
      本多 利雄
      山本 大廣
      
  (招待)堀尾 貞治
      松谷 武判
      
   (故)井上 有一