生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

金儲け主義の行く末

2015年07月31日 21時28分34秒 | 政治経済社会学
2015年7月31日-3
金儲け主義の行く末


 ビル・ゲイツ氏は巨額の寄付をしている(らしい)。アメリカ合州国では、金儲けした人は、強迫観念的にまで寄付をしなければと思う人も多いらしい。
 一方、日本の金儲けした人々は、寄付する人はきわめて少ない。それどころか、原発事故当時の東京電力の社長のように、責任を取らない人が多い。また、未だに粉飾決算をしたりする会社も多い。

  「茂木〔健一郎〕 現在の日本には残念ながらビジョンが欠けている。政治的なビジョンも、外交的なビジョンも。〔略〕なぜビジョン〔望観または展望または未来像〕が欠けているのか? バブルの影響もあると思いますか?
波頭〔亮〕 〔略〕日本の場合はポストバブル〔バブル後〕で価値軸がかえってお金に集約してしまったのかもしれません。〔略〕1970年代に高度成長期が終わりますが、その頃までは経済軸だけで、家族の団らんまで含めて、すべて派生的に得られていました。一人当たりのGDPが一万ドルになったのが84年。一万ドルに至るまでは、食うに困らない、病院に行くのに困らない、最低限の利便に困らないことを満たすプロセス〔過程〕でした。
 ところが、〔19〕84年に一万ドルを超えて以降、わずか五年あまりで三万ドルレベルまで駆け上がってしまう。つまり、その間のプロセスがバブルというわけです。〔略〕
 その後バブルがはじけて、九〇年代に入り、ポストバブルの不況下で目を覚ますチャンスがあったのに、不況だ失業だと騒いで、国家的イシュー〔争点〕は結局また経済中心になってしまいます。」
(波頭亮・茂木健一郎 2007/9: )。

格差拡大と貧困とトリクルアップ
 歴代政権と国民の金儲け欲、または生計難からの切羽詰まった収入欲(こちらはそうした政権や官僚の責任)が、互いに支えあったということだろう。
 所得格差ではなく、貧困が問題である。しかし、社会的格差の増大が、貧困の増大へと結果したとも考えられる。
 すると問題は、トリクルダウン(滴り落ち。下層への、おこぼれ)という幻想を撒き散らして、結果はトリクルアップ(吸い上げ。金持ちが貧しい者からお金を吸い上げること)になるという、おかしな金銭再分配の問題である。世界的には、近年トリクルアップとなったことが、事実として出ている。


  「保守派は、富裕層の税率を引き下げ、貧困層への援助を削減し、上げ潮にすることで、すべての舟を浮上させることが最善の政策であると主張し、トリクルダウン経済理論(※)を提唱してきた。
 しかし現在、新しい見解を裏付ける事実が次第に明らかになりつつある。つまり、こうした議論の前提はすべて誤りだという事実、そして、実際には平等と格差の間でのトレードオフはないという事実だ。
 それはなぜなのか?――市場経済が機能するうえで、ある程度の格差が必要なのは事実だ。しかし米国の格差は極端になりすぎたため、多大な経済的ダメージを与えるようになっている。その結果、富の再分配、つまり富裕層への税の負担と貧困層への救済は、経済成長率を低下させず、逆に上昇させる可能性があることを意味している。
(※)トリクルダウン経済理論:「トリクルダウン(trickle down)=したたり落ちる」の意。大企業や富裕層の支援政策を行うことが経済活動を活性化させることになり、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、ひいては国民全体の利益となる」とする仮説。主に新自由主義政策などの中で主張される。
〔略〕〔略〕
 上記、安倍政権が推進する「トリクルダウン政策」の一部をご紹介しましたが、すでに時代(世界的な時代の趨勢という意味)はトリクルダウン「仮説」が崩壊し、トリクルアップ政策が推進されなければならない局面なのです。」
 三橋貴明
 さようなら、トリクルダウン。ようこそ、トリクルアップ
 2014-09-02 08:42:36  テーマ:アメリカ経済
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11918764998.html[受信:2015年7月31日。]

 「「さようなら、トリクルダウン。ようこそ、トリクルアップ」は、実は現代ビジネスに掲載されたポール・クルーグマン教授のコラム〔ポール・クルーグマン---社会の足を引っ張る格差〕の結びの言葉だったりします。」
と、三橋貴明氏は述べている。
 本来は、トリクルダウン理論または仮説は、嘘であつて、結果は格差拡大となったトリクルアップ(吸い上げ)だったのだが、クルーグマン教授とそれを受けた三橋貴明氏の「トリクルアップ」の使い方は、貧困層の中間層への移転といった内容の「トリクルアップ」で、まったく異なる意味であるようだ。注意が必要である。クルーグマン氏は、経済成長を目標としているのではないか? そうならば、それがそもそも間違いである。また、GNPといった指標ではなく、国民全体の安心して安定した人心となるような生活指標を考えるべきである。
 さて、金儲けに取り憑かれた支配層の人々が、国民福利の無視または軽視といったその不正義に気づくのは、
  株価暴落→株式市場崩壊
が現実となることしかないのかもしれない。
  株価暴落→政府財政破綻
もあり得る。
 というのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、国債から株式への運用割合変更を行なったからである。

 北海道新聞 2015年7月11日 2面に、
  「年金運用 黒字15兆円 14年度株高で過去最高

 厚生年金と国民年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は10日、2014年度の運用結果が15兆2922億円の黒字だったと発表した。運用利回りは12.27%で、いずれも過去最高。3月末時点の積立金総額は143兆9509億円となった。株高と円安で運用環境が良好だったことに加え、昨年10月に資産構成の割合を変更して株式比率を拡大したことを反映した。」
とある。

 安倍政権の意向による運用割合の2014年10月からの変更は、同記事によると、
  国内株式 12%→25%
  外国株式 12%→25%
  国内債券 60%→35%
  計    84% 85%
である。

  「GPIFは08年度、国債中心の運用だったにもかかわらず、リーマンショックの影響で約9兆6000億円の赤字を出した。〔略〕
 一部の専門家や野党の間では「大きな損失が出れば、将来世代の年金額が減りかねない」「GPIFにリスク運用を管理する体制はない」などの声が上がっている。」
(北海道新聞 2015年7月11日 2面)

 現在の株高は官製相場である。外国勢の日本株式の持ち株分は7割だとすると、その一部が売り崩しを仕掛けるには十分である。安倍政権は株高が唯一の希望といってよいのだから、GPIFから運用を任されている機関は、株価が値下がりしたら売り抜けするどころか、買い支えざるを得ないだろう。
 すると、大きな損失となる。政府財政にも影響が出るだろう。


引用文献
 波頭亮・茂木健一郎.2007/9/30.日本人の精神と資本主義の倫理.189pp.幻冬社[新書].[本体720円+税][B20141124、33.3円][Rh20150723]


マリオ ブーンゲのシステム主義(2)

2015年07月31日 14時53分08秒 | 生気論
2015年7月31日-2
マリオ ブーンゲのシステム主義(2)


  「  「最初の五つの教義は、論理的に正しくない。全体論と個体主義は、全体と部分の概念がお互いを定義しているゆえに、すなわち片方は他方無しには存在できないゆえに、間違っている。環境主義は、あらゆる具体物は活動的があるがゆえに、すなわち或るものは確かにその環境によって影響されるけれども、環境だけによって全的に生成されるわけではないゆえに、偽りである。構造主義は、定義によって、節点(個体)無しに網状組織は無いから、偽りである。最後に、過程主義もまた、誤りである。なぜなら、あらゆる過程(たとえば成長)は、なんらかの具体物の一連の諸状態であって、つまり物無しの諸過程でも不変の諸物でもないからである。
 結論すると、上に列挙した六つのすべての構造的存在論のうちで、システム主義だけが残る。(なお、三つの可能な実体存在論 substance ontologies がある。すなわち、唯物論 materialism、唯心論 spiritualism〔唯霊論〕、二元論 dualism である。)このシステム主義という存在論は、ポール-アンリ ティリ〔、〕ドルバック男爵 Paul-Henri Thirty, Baron d'Holback によって啓蒙運動の中期にはじめて提唱されたが、あらゆる真に(物質的に)

(Bunge 2013: 14-15)。



引用文献
  Bunge, Mario. 2013[/5/30]. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717?, 6016円+0=6016円amz]

生命システム:仏典での見解 続篇

2015年07月31日 14時46分23秒 | 生気論
2015年7月31日-1
生命システム:仏典での見解 続篇


 中村元 2005/9『〈生命〉の倫理』を引き合いにした、生命またはシステムについての続篇である。(→秘教的仏教 Esoteric Buddism の主張を調べよ。)

 生物科学は、「細胞の内部に遺伝子やDNAのはたらきまでも明らかに」した。
  「しかしそれは生命のはたらきの見られる物質の構造がますます詳しくなるというだけであって、次の二つの問題に対しては答えが与えられていない。
 (1)生命とは何であるか? つまり生命現象の見られる物質を構成している諸元素とは異なった原理としての生命とは何であるか? 諸元素の結合のありかたの一種にほかならないのか? あるいは諸元素とは異なった独立の存在なのであるか?
 この二種の見解はすでに古代哲学において対立していたが、最近代の科学をもってしてもまだ解決が与えられていない。
 (2)第二に、生命は何のためにあるのであるか? これに対して科学は答えてくれない。これは、恐らく自然科学の領域外の問題であって、あるいはこういう目的論的な設問自体が無意味なのであろう。」
(中村元 2005/9: 94-95頁)。

  「それ〔生命? あるいは目的による説明か?〕を説明するためには、
  (小前提)生命はAである。
  (大前提)Aは……のためである。
  (結論)生命は……のためである。
という推論形式をとらざるを得ない。ところが、生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。
  「生命ははたらきである」
と言えるかもしれないが、「はたらき」という概念が〈生命〉を含意しているので、この命題は tautology(同語反復)にほかならないことになる。生命に関して物理的、数学的、あるいは論理学的な概念をもって述語することは理論学的には可能であるかもしれないが、生命を生命たらしめる本質的なものはその概念規定の立場から逸脱してしまうからである。」
(中村元 2005/9: 95頁)。

 〈「はたらき」という概念が〈生命〉を含意している」〉とは言えない。生命体ではないと思われるロボットは、はたらかない(働かない)のであろうか?
 〈生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。〉と、〈生命を問題とする限り〉という枠または枠組みに限定している。生命体の振る舞いや諸性質を、(既知とした)非生命体の振る舞いや諸性質から説明するのであるから、説明は当然ながら生命という枠の外からのものとなる。

 なんであれ、説明とは、
  1. 或る存在者を(或る人がその意識の上での)対象とする。
  2. その対象を下位システムまたは上位システムによって、エネルギーの種類と程度(=数量)によって、新たな統一的システムとして成立させるような機構を提示する(機構的説明 mechani_s_mic explanation[機械的 mechanisticではなく、機構的mechanismic]
ことである。なお、Mario Bunge (2013: 244) は、Philosophical Glossary 部で
  「Explanation 説明
   Description of a mechanism 機構の記述」
としている。説明として、機構的説明だけを認めているようである。
 →Bunge哲学辞典(Bunge 1999: 93-94)の【説明】という項目を見よ。


 「 そこで言えることは、「われわれが生きている」すなわち「われわれは生命を与えられている」というのは、われわれにとって原初的な事実である。それに対してわれわれは異なった道をとることはできない。」
(中村元 2005/9: 95頁)。

 「そこで」とは何をどう受けてのことかわからない。先に引用した部分とともに、根拠立てと論理展開がよくわからない文章である。
 さて、「われわれが生きている」は原初的な事実であろう。しかし、そのことは、「われわれは生命を与えられている」こととは異なる。わたしが生命体である、つまり現在生きているシステムである、ということは、誰かに生命(という種類のエネルギー? またはいくつかの種類の組み合わせのエネルギー?)を与えられているということを内含しない(含意 implication と 内含 entailmentを区別しよう)。
 概念〈働き〉が概念〈生命〉を含意するという主張は、認めることはできない。概念〈生命〉が概念〈働き〉を含意するまたは内含することは、認められる。両者は同値または同義反復ではない。

 それもさておき、
  a. わたしは生きている。これは事実である。
  b. この原初的事実を見つめて、何よりも尊いものとして大切に生きていく。
という論理?展開は、説得的である。
 それはなぜだろうか? それは、(知的 intelligent)理解ではなく、感性的説得性または直感的 sixth sense's ないし直観的 intuitive 説得性ではなかろうか? つまり、自分は生きているという自覚または意識したとき、人によっては生かされているということに有り難い、感謝の念を覚えるかもしれない。人は他養生物体であり、エネルギーと物体の取り込みを他者に依存している。ありがたいことである【→相互依存性】。

 〈或るシステムが生きている〉ことは、生きているという状態を維持する機構によって、説明される。もし、或る諸システムから創発した、つまり、生命を持たないシステムが組み合わされて、既にある機構とエネルギー(の種類と数量の)配分と転換によって、新しい性質が出現するとしたら、その機構を持つシステムが作動し続けることである。


引用文献
  Bunge, Mario. 1999. Dictionary of Philosophy. 316pp Protheus Books. [B19991213, $41.97+48.65/7]

  Bunge, Mario. 2013[/5/30]. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717?, 6016円+0=6016円amz]

  Mahner, M. & Bunge, M.[マーナ,マルティーン・ブーンゲ,マリオ]1997, 2000(小野山敬一 訳 2008/7/26).生物哲学の基礎.xxi+556pp.シュプリンガー・ジャパン.[本体13,000円+税][ISBN9784431100256][R20080720][既知の半分ほどの訂正が行なわれた本(第2刷)が、版権が移行された丸善出版から、2012/9/30にシュプリンガー・ジャパン株式会社の編集として、発行された。 ISBN9784621063552。本体13,000円+税。]

  中村元〔/東方研究会(編)〕.2005/9/20.〈生命〉の倫理.234pp.春秋社.[本体2,500円+税][b181.6]



いのち絵画の技法。風間虹樹の(銀)線垂らし法

2015年07月30日 21時21分08秒 | 美術/絵画/曜変絵画
2015年7月30日-3
いのち絵画の技法。風間虹樹の(銀)線垂らし法

 銀のアクリル絵具は、その上に彩色できる。たとえば、その彩色を下から変異させるとともに厚みをもって(浮き彫り的に)輪郭づけるための、線垂らし法を解説する。

 使用絵具:アクリル絵具。たとえば、銀や金。
 道具:注射筒(100円ショップで調達できる)、あなたの腕と手。
 手順:たとえばアクリル絵具の青で塗り込めた画布表面を平らにまたは少し傾けて置き、およそ30cmから100cmの高さから、注射筒(針無し)につめた絵具を押し出しつつ落下させる。

 製作例:下記電網処に掲載の風間虹樹の絵画。
http://www.artgene.net/detail.php?EID=11671


◇ いのち絵画の技法 ◇
平面的ないし厚みありの技法
 1. 叩き付け法(2009年)
 2. 生命体形成落下法(2009年)
  傾斜角度は0度から90度近くまで。
 2. 振り出し法()
  a.
  b. 胡粉振り出し油固定法
 3. 流し垂らし重ね法()
 4. 切り裂き法(2009年)
   線形(2009年)、短冊形(2015年)、円形(2014年)
 5. 線垂らし法()
 6. 芽生え法
 7. 曜変技法(2014年)
  a.
  b. 流れ曜変法

2.x次元技法
 2.1次元的芽生え法


立体的技法
 1. 艶玉付着法
 2.


生命システム:仏典での見解

2015年07月30日 14時57分47秒 | 生気論
2015年7月30日-2
生命システム:仏典での見解

中村元〔/東方研究会(編)〕.2005/9/20.〈生命〉の倫理.234pp.春秋社.[本体2,500円+税][b181.6]


生命システムの定義
  「現代多くの生物学者に採用されている見解は、生命ある体系とは「外界との間に明確な境界をもち、その構成物質の一部は絶えず外界との間で交換されているにもかかわらず、少なくともある期間についてみるならば、その全体としての性質は変化せずに保たれているものである」(4〔=『ブリタニカ国際大百科事典』11巻、260頁〕)というのである。」
(中村元 2005/9: 8頁)。


任意的運動の場合: [動力因、機会因]→結果、
不任意的運動の場合:[動力因、機会因、目的因(動機)]→結果
  「動物の有機的運動は、任意的なものもあり、また不任意的なものもある〔略〕因果関係の連結関係に〔、〕〔24頁/25頁〕ある種の相違が存する。〔略〕
 〈因果関係〉に翻訳すると、不任意的の生命現象の場合には、動力因、機会因と結果との関係になるが、任意の生命現象の場合には、その上に目的因〈動機〉と結果との関係が一つ加わっている。
 いずれにしても、われわれの生存の根底に存する力が、それを発現させているのである。その力は単に物理的な力としては尽くせないものがあり、それを生理学では生命力(Lebenskraft)とよび、それが意識をともなっている場合には、哲学者は心理的な呼称を用いて、魂(Seele, soul)と呼んでいた。
 ただ生命力、あるいはさらに魂が、いかなるものであるかということになると、不可知であると言わざるを得ない。〔略〕その本質を概念によって規定することはできない。」
(中村元 2005/9: 24-25頁)。

 生命力のドイツ語のLebenskraftは、そのままの英語では、life forceになるが、vital forceがよく使われる。vitalの語源は、ラテン語 vita(命の意)からである。
 さて、意識とは何だろうか?。「物理的」および「力」とは何だろうか?。
 ショーペンハウアーやドイセンの意志 der Wとはille、また無意識的意志 der unbewuste Wille とは何だろうか?

  「われわれには、思慮分別をともなわない盲目的な衝動としてはたらくものがあり、刺激によって規定され、わが有機体のうつにおけるあらゆる不任意の動きを遂行し、消化・血液循環・呼吸・分泌などの作用により、身体を養い、その発育を促すところの内面的な衝動原理があるといえよう。それが生命なのである。
 人知の進歩とともに生命の本質に関する哲学的思索も明確化したが、大別すると、生命の構造については、
 一、生命を非物質的な特別の力の作用と見る生気論と、
 二、生命を単に力学的な機械装置とみなす機械論と、
二種の見解がある、と言えよう。」
(中村元 2005/9: 26頁)。

  「仏教の哲学大系では「生命原理」を意味する言葉として「命根 みょうこん」(jivitendriya)というものを考えるようになった。生命の力をもっている原理を命根と呼ぶ。〔略〕「生命原理」は物質的なものでもない、そうかといって純精神的な原理でもない、そのどちらでもない、と規定されている。
 その原理は、人がこの世に生をうけてから死にいたるまでのあいだ持続し、体温(なん usna)と意識(識 vijnana)とを維持するものである。」
(中村元 2005/9: 66頁)。

  「説一切有部という学派〔略〕は、寿命と体温と識別作用(認識作用)がそれぞれ独立の実体的な原理であると考えた〔略〕。そうして、生命(寿)は体温(【なん】)と意識(識)を維持し、また体温と意識とはまた生命を維持して、両者は相互依存の関係にあり、死にのぞんでは、生命と体温と意識とが肉体から去ると考えていた。この生命、または生命原理は、他のもろもろの実体とは異なった一つの別の実体(dravyantara)として存在すると考えていた。そうしてその生命という実体が去ると、人は精神作用をも失ってしまう。」
(中村元 2005/9: 67-68頁)。







バブルの崩壊とその後の生活形態

2015年07月30日 11時03分24秒 | 政治経済社会学
2015年7月30日-1
バブルの崩壊とその後の生活形態
[2015年7月28日-1 金融バブル崩壊の機構と機会因、
http://blog.goo.ne.jp/1trinity7/e/086c9e2b45f480509d9403ce0d25acff
に追加]


野口悠紀雄.1992/11/25.バブルの経済学 日本経済に何が起こったのか.258pp.日本経済新聞社.[定価(本体1,533円)][b332.10]


オランダでのチューリップ バブル
  「価格の上昇に伴って、チューリップ栽培には直接関係しない人々も投機に参入するようになり、そして、多くの人たちが突然金持ちになった。これが、すでに投機へ参加している人の希望を正当化し、彼らはさらに買い進んだ。かくして、際限ない価格上昇が続いたのである。また、現物渡しの習慣が崩れ、球根が実際に引き渡されるまで対価を支払わないでも済む先物取引が導入されたため、投機性がいっそう強まった。」
(野口悠紀雄 1992/11: 71頁)。


急な値上がりは買いを呼ぶ(急な値下がりは売りを呼ぶ)
  「市民にとっても浮かれるような話がありました。きっかけは1987年のNTT株の新規上場でした。NTT株が上場すると買い注文が殺到し、初日からどんどん値上がりしました。最初の売り出し価格は1株119万円でしたが、わずか2カ月で318万円まで値上がりました。この時売れば1株で約200万円儲かるわけです。そんなに儲かるならと、これまで株取引をやったことがない人たちまでが次々と株を買うようになりました。空前の株ブームに火がついたのです。みんなが株を買うとどうなるか。需要と供給の関係でいえば、多くの需要があるわけですから株の値段は上がりますよね。こうして株の値段はどんどん上がっていきました。」
(池上彰.2012/6.池上彰のやさしい経済学
 第9回 なぜバブルは生まれ、そしてはじけたのか?
~1985年のプラザ合意によるドル高是正がバブルの始まりだった~
http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012&page=3(受信:2015年7月28日。))


加速的機会因と時期予想、バブル崩壊のメカニズム
  「なぜ大暴落が起こったのかを納得的に説明することができない。「バブルで膨れた株価が実体とあまりに乖離しすぎた」というほかはないが、これは、何も説明していないに等しい。我々が知りたいのは、大暴落がなぜ〔1929年〕7月や12月でなく、10月に起こったかということなのだが、これについて、歴史書は沈黙している。
 もっとも、何らかの説明がなされたとしても、それがバブル崩壊のメカニズムを解明するわけではあるまい。実際、南海バブルが泡沫禁止法で壊れたとか、ローのシステムが皇太子の硬貨引き出しで崩壊したとか、あるいはフロリダ土地ブームに終焉をもたらしたのかハリケーンだといっても、それは、おそらくほかにも多数あったきっかけの一つを記しているに過ぎない。歴史に残らなかったものも含めれば、同じようなきっかけがその前にも数多くあったに違いない。そしてそれらはバブルの膨張を食い止めることができなかった。〔略〕現在の経済理論では、バブルの崩壊を確率的な事象としてしか説明ができないのである。」
(野口悠紀雄 1992/11: 87-88頁)。


バブル崩壊への動機(機会因を用意する)
 ・→暴落を仕掛けて、大儲けしてやろう(結果として大損するかもしれない)とする人がいるだろう。→機会と仕掛ける時期を狙っている。


バブル崩壊に備えよう
 日本の(大きく数値的な)貨幣経済とりわけ金融投機的な経済は、再度のバブルであるとすれば、あるいはむしろ日経平均株価(という指標)で見て1989年12月29日の3万8915円という(後に判明する)頂点からの下落過程と捉えれば、(政府と日銀による虚勢相場的支えのおかげで)まだバブルは完全には破裂していないとすると、まもなく破裂するだろう。
 なぜなら、投機筋が株価暴落を仕掛けてくる条件がすでに整っているからである。それがいつかは、かれらの売り崩し成功の見込みの賭けをいつやるかという個人的決断に大きく依存する。
 その決断実行への外部的または客観的環境諸条件を整えたのは、日銀による金融緩和や労働条件改悪などである。
 バブル(泡)はいずれ弾けるに違いないし、破裂しなければならない。
 国民は、バブル崩壊による生活困難に備えよう。
 政治経済社会を新たに担おうと志す者たちは、一部の者たちの貪欲の結果の被害を少なくする対処策とともに、これからのあるべき姿を設計し、移行計画を策定しよう。

株価暴落の実際
  「25主要工業株の平均株価は、9月3日の高値469.49ドルから11月13日の安値220.95ドルにまで暴落した。
 これが、その後世界経済大混乱に陥れ、ひいては第二次世界大戦の遠因ともなった大恐慌の幕開けであった。ダウ工業株30種平均は、1929年9月の月平均362ドルから、〔19〕32年7月の47ドルまで、8分の1になった。銀行倒産は9000件に及び、実質DNP(国民総生産)も工業生産も4年間に半分に縮小し、失業率は25%に達した。」
(野口悠紀雄 1992/11: 87-88頁)。

ニュートンはなぜ投機したのか→株価予想が当たれば儲かるから
  「ニュートンは〔略〕、暴落以前に一度南海会社への投資を手仕舞っている。 それにもかかわらず再び投資したのは、大衆の投機熱が収まらなかったからである。〔略〕 投機熱が続いている限り、投資は利益を生む。〔略〕南海会社の実態がどうであるかは、そこでは問題にならない。重要なのは、「将来の価格がどうなるか」なのである。少なくとも短期的にはそうである。」
(野口悠紀雄 1992/11: 90頁)。


  「ニュートンやマーティンは、ケインズの200年前に、「美人投票理論」に従う投資を実践していたのである。」
(野口悠紀雄 1992/11: 90頁)。

 →Les yeux clos 2011年1月28日 ケインズの「美人投票」理論(岩井克人) 
  「労働市場にはヒトの移動を妨げるさまざまな慣習や規範があり、資本市場にはカネの移動を妨げる多くの規制や法律がある。これらの不純物さえ取り除けば、資本主義は効率的にも安定的にもなるというわけである。このような新古典派的な資本主義論の20世紀におけるチャンピオンは、2006年に亡くなったシカゴ大学のミルトン・フリードマンであった。」
(岩井克人 2009/6.グローバル経済危機と二つの資本主義論.学術の動向 2009.6[金融危機特集]: 88-97.(https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/14/6/14_6_6_88/_pdf)よりの抜粋)
http://yokato41.blogspot.jp/2011/01/blog-post_28.html[受信:2015年7月30日。]


  「ニュートンやマーティンは、ケインズの200年前に、「美人投票理論」に従う投資を実践していたのである。
 ここにバブルの本質があるとすれば、今後もバブルは繰り返し生じるだろうと考えざるをえない。われわれがバブルの歴史から学べるところがあるとすれば、それは「歴史に学ぶのは極めて難しい」という皮肉なことではあるまいか。少なくとも、個人の行動が歴史を学ぶことで変わるとは思われない。歴史の教訓は、経済政策や社会制度の設計にこそ活かしていくものなのなのだろう。」
(野口悠紀雄 1992/11: 90-91頁)。





 ・株価暴落→市場機能?喪失。→金融機能の喪失。→政府の財政破綻。→国債償還または利払い不能や未達。→大きく円安。→輸入激減。→生活必要品の不足。→大インフレ。

 ・幾つかの貨幣経済破綻への進行図解を収集して比較検討せよ。
 ・機構図と過程図。
 ・共有地の悲劇。

機構図
 機会因

市場の力と政府
  「サッチャー首相が市場フォースに基づいたヨーロッパ連合を支持した時、彼女はもっと富をつくることにのみ関心を持っていた。しかし彼女はこれらの市場フォースの暗い側面には注意を払わなかった。この暗い側面のために、国家がそのアイデンティティー(独自性)と主権を失う結果となるのである。〔略〕(1990年5月)
(『いのちの法則』p.178-179)」
http://sharejapan.org/sinews/magazines/lutefl/fkmww5/sui4zj[受信:2015年7月30日。]

人々の生活と商業主義 commercialism
  「どうやって家賃を払おうか、月謝を払おうか、医者の費用を払おうか」と。人々は心配と不安でいっぱいです。商業至上主義が本当に人生を支配してしまったのです。
(ベンジャミン・クレーム『人類の目覚め』p.47)」
http://sharejapan.org/sinews/magazines/lutefl/fkmww5/sui4zj[受信:2015年7月30日。]

投機、貪欲、分離と恐怖、経済崩壊、相互依存性
  「人類は長い間投機という病気を病んできた。この病気の徴侯は貧困、犯罪、麻薬濫用、暴力、戦争である。基本的な原因は分離と恐怖に基づく人類の昔ながらの貪欲である。〔略〕
 人類が相互依存の感覚を得るとき、恐怖心をなくし、かくして貪欲をなくすだろう。当然ながら、これは一夜にして起こらないし、またあまり長く遅らせることはできないだろう。経済崩壊とそれに引き続いて起こる変容は強力な教師となるだろう。
(ベンジャミン・クレーム『マイトレーヤの使命第巻』p.197-198)」
http://sharejapan.org/sinews/magazines/lutefl/fkmww5/sui4zj[受信:2015年7月30日。]


引用文献
[い]
池上彰.2012/6/22.【著者が解説】池上彰のやさしい経済学 第9回 なぜバブルは生まれ、そしてはじけたのか? ~1985年のプラザ合意によるドル高是正がバブルの始まりだった~.http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012
http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012&page=2
(受信:2015年7月28日。)

岩井克人.2009/6.グローバル経済危機と二つの資本主義論.学術の動向 2009.6[金融危機特集]: 88-97.(https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/14/6/14_6_6_88/_pdf[受信:2015年7月30日。])

[く]
クレーム,ベンジャミン.(石川道子 〔編・〕訳 1997/5/1).マイトレーヤの使命 第三巻.xii+13-698pp.シェア・ジャパン出版.[本体¥3,000(税別)][B19971020]

クレーム,ベンジャミン.(石川道子 〔編?・〕訳 2008/5).人類の目覚め.247pp.シェア・ジャパン出版.[1,300円+税][Rh20081010].

[の]
*野口悠紀雄.1992/11/25.バブルの経済学 日本経済に何が起こったのか.258pp.日本経済新聞社.[定価(本体1,533円)][b332.10]

マリオ ブーンゲのシステム主義

2015年07月30日 00時27分03秒 | システム学の基礎
2015年7月30日-1
マリオ ブーンゲのシステム主義

Bunge, Mario. 2013/5/30. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717, paperback 6016円+0=6016円amz]

 上記のMario Bunge (2013)の本、『医学の哲学 医学における概念的論争点』で、システムまたはシステム主義について述べている箇所を、下記に訳出することにする。なお、_で挟まれた語は原文では斜体である。

  「 具体的システムの概念的または経験的分析は、原子から身体から社会まで、そのシステムの構成 composition、環境 environment、構造 structure、そして機構 mechanism を同定することにある。これらの構成要素は、図式的に次のように定義されよう:

 _構成_ =或る水準(分子の、細胞の、などの)での構成要素の集合 set of constituents
 _環境_ =直接の周囲(家族、職場、など)
 _構造_ =構成要素 components 間の諸結合の集合(靭帯、ホルモン的信号、など)
 _機構_ =システムをそういうものとして維持する〔支える〕(諸)過程(細胞分裂、代謝、血液の循環、など)

 この分析は、六つの群の存在論的(形而上学的)教義を引き起こす。そのうちのいくつかは、古い由来を持っている。六つの教義とは:
 環境主義 environmentalism 環境は絶大な力を有する。例:行動主義、そして、すべての病気は『瘴気〔不健全な雰囲気〕』かあるいは社会的諸条件かのどちらかによって引き起こされるという仮説。
 構造主義 structuralism 一つの全体は網状組織 network、その諸部分間の繋がりの集合、である。例:コネクショニスト心理学、そして交信の網状組織〔コミュニケーション ネットワーク〕だけが重要なのだという、まるで節点〔ノード〕無しのグラフがあり得るような、社会学的テーゼ〔定立〕。
 過程主義 processualism 一つの具体物は一束の過程である。例:アルフレッド ノース ホワイトヘッド Alfred North Whitehead の形而上学。
 全体論 holism 全体はその諸部分に先立ち支配する。例:アリストテレスの形而上学とアジアの伝統的医学。
 個体主義 individualism 全体はその諸部分の集合 set である。例:古代の原子論、健康はもっぱら個体の習性に依存する(それゆえ衛生的方策は役に立たず、したがって無駄である)というテーゼ。
 システム主義 systemism 宇宙はすべてのシステムのシステムである。例:ドルバック d'Holbach (1770)、ベルタランフィ Bertalanffy (1950)、そしてブーンゲ Bunge (1979)。

 最初の五つの教義は、

[続く]

===
 ところで、索引では vitalism 生気論の頁は、p.33とp.125となっている。



絵画の指示作用(約束事または解釈)と色彩作用と形態作用

2015年07月29日 11時24分34秒 | 美術/絵画原論、絵画理論、絵画技法
2015年7月29日-2
絵画の指示作用(約束事または解釈)と色彩作用と形態作用

 たとえば一個体の人物が室内にいるという状態を描いてあるとする。或る絵具の配置部分(絵具集合体)が人物だと見なすまたは同定するのは、その部分の絵具をそのように概念的に解釈しているのである。それは、すでに学習したカテゴリーへの同定である。一般的に言えば、対象と分類項目との対応関係を定めることである。これは絵具の或る集まり collection を、記号 symbol と取って、それが指すもの、たとえば或る人、を同定しているのである。これは記号の指示機能的側面または記号の代替的または代理的側面である。

 ジョージア オキーフ Georgia O'Keeffe (1887/11/15~1986/3/6)の花または花弁を拡大した絵画の場合、ただちには花だとは認定しにくい。非具象的である。半抽象絵画とも言える。
 この場合、作者がこの絵画は具象です、と言えば、具象絵画とみなされるだろう。少なくとも一人が(しかも作者本人が)そう主張していることになる。現在の時点で人々がどう受け取るかは、統計的調査を行なえばよい。その時点での間主観的判断の結果が出ることになる。
 これは花であるという認知したら、感受性になんらかの変化をもたらすだろうか?。官能的に感じるといった感性内容は、それが花を描いているということで、強化されるかもしれない。たとえば花とは、植物の生殖器官であるという理解(理性的演算結果)を経て、さらに官能的だと感じるかもしれない。その場合、(理性とは区別して捉えたときの)感性だけが反応しているのではないことになる。

 純粋抽象絵画では、なんらかの対象を指示することは無い。観者への色と形だけでの作用を問題にする。では、この作用とは何か?、またそれはどんな狙いに対しては、どのような形の支持体に、どのような色をどのように配置すればよいのか?。
 この問題を、無敵な適用力を誇るシステム的接近またはシステム主義で考えてみよう。まずは、システム的分析を適用し、そしてシステム的統合を行なう。

 しばし、システム的分析を説明しよう。
 
(続く)



読書録20150729。エルズワース ケリー Ellsworth Kelly の言

2015年07月29日 10時35分12秒 | 美術/絵画原論、絵画理論、絵画技法
2015年7月29日-1
読書録20150729。エルズワース ケリー Ellsworth Kelly の言


辻川一徳.2006/10/10.われらが時代のビックアーティスト 高松宮殿下記念世界文化賞受賞者12人へのインタビュー.389pp.フィルムアート社.[本体3,000円+税][702.8][B20150731*、1+257=258円amz]


エルズワース ケリー Ellsworth Kelly の言

 形態と地 groundの切り離し
  「私はキャンヴァスそのものを壁から離して、これがフォルム、あれが地(グラウンド)というように分けたのです。 一方デ・クーニングの作品ではフォルムと地はいっしょに同じ絵画のなかにある。私は、1950年代のはじめにパリでパネル絵画を製作したころの初期の私の絵画への貢献は、フォルムを壁から切り離して、フォルムと地(グラウンド)を分けたことだったと考えています。〔略〕こうして絵画は、より彫刻的になったのです。それは絵画の四角い枠の中におさまっているよりは、われわれの空間へ出てくるものだと私は感じました。そして私は絵画が、それ自体、部屋の中にあるすべてのものに反応するものにしたいのです。 ルネサンス以来、ほとんどの絵画はずっと窓のようなものでした。印象派やセザンヌが絵画の世界をひっかけまわしはじめ、それからピカソが出てきてコラージュを持ち込み、浮き彫りになった浮き彫りになった絵画を手がけるまではね。ホフマンやデ・クーニングやジャスパー・ジョーンズの絵の場合、見る人の視線は表面を探ります。 ホルバインや、ルネサンスのイタリアの画家たちの作品では、視線は表面を見て、それから窓のように絵画の中に入っていきます。しかし私の作品の場合、見る人と作品のあいだのスペースは、アクティヴィティ〔?。activityは、辞書では活動とか活気〕なのだと思います。見る人が探るのはもはや絵画そのものではなく、フォルムと色の関係なのです。」
(辻川一徳 2006/10: 147-148頁)。


フォルムと地(グラウンド)を分けるって?
 抽象絵画の場合では、絵画物体全体がいわば主題となるから、ケリーの言う form は、絵画物体そのものとなる。具体的世界を描写した(世界を描写したという解釈あるいは同定もまた結局は、約束事に他ならない)ものを提示するという、窓的絵画または枠付き絵画に対して、抽象絵画はそれ自体が物体としてこの世界に存在するようにしたい。これは一つの方向である。
 ところで、線だけから成る絵画は、線以外の画布部分が地と見なされるだろう。絵画内の表面に、地の部分と図の部分が分けられる(これも視覚上の約束事または規約。むろん、生物学的根拠があるが、意志によって変更できよう)。線どうしを密に隣接させると、分類が難しくなる。
 画面全体に太い線を一つ描く。こうなると、絵画表面が、一つの色面となる。(四辺の長さが異なる)ほぼ四角形のケリーの作品は、この部類である。しかし、太い線の輪郭がそのまま絵画物体の輪郭となっていると考えることができる。
 クラインの壷は、顔か壷かのどちらかの形が認知される例としてよく参照される。しかし、顔と壷の輪郭が接していると見ることが可能である。ゲシュタルト変換の例としては、不適切である。
 結局、地と図の問題である。一見ではわからないように、埋め込むことができる(隠蔽)。この問題は、個体化の問題である。つまり、或る絵画物体を主体としたときに、その環境との関係を、とりわけ見え(つまりは現われ)の上でどうするかである。


アクティヴィティってなんじゃらほい?
 activityで何のことを言っているのか分からないが、観者が探るのは、形と色の関係だという。形と色の関係というのも、よく分からない。絵画物体の形と色、つまり絵画表面(内部)での形と色の配置関係のことまたは、空気をはさんで離れたいくつかの絵画物体の色と形の関係らしい(この場合、絵画内部の諸個体(たとえば個体化された色面)間関係と絵画個体間関係の、2階層になる)。
 観者と作品の間の空間(様々な種類と数の空気分子が(或る密度で)配置され存在している空間。空間そのものは実在しない。空間とは、測定や理解のための枠組み概念であり、つまりわれわれの心的構築体である])は活動である(という感じである)、とはいったいどういう意味なのだろうか。
 或る物体について、なんらかの色と形が観測されるのは確かである。透明無色かもしれないし、コロイド状態のように、刻々と輪郭が変化したり、あるいは不明瞭であったりするかもしれないが、色と形は液体または固体の多くの場合は、観測可能である(人の視覚解像度未満の微細粒子では見えない)。

 どうであれ、絵画を観る者 viewer は、次の三つのいずれかまたは複合した立場になるだろう。

  (a)【具象絵画 第一類(窓枠内絵画)】。
   絵画体の表面を視て、そこに描かれたまたは表現された対象からなる世界に、(視覚系を経由した刺激内容に応じた心像を形成して)入っていく。表面体に配置された絵具は、具体的対象を対象となる実物の代わりとなる。
   絵画を感覚刺激としてまたは契機として幻影 inllusion を見ようとする、または心像 mental mage (こころの機能を使って心的像または心的世界を構築する、または想像するまたは創造する)を構築する。
   または、形や色や解像度を変えて、元の描かれた対象実物をきっかけとして別個の表現となる。
   具体的対象の描写から、対象をきっかけとしての(製作者の意図的または無意識的)別個表現寄りへの偏極までの間には、様々な質的段階または程度がある。 
 
  (b)【抽象絵画 第一類(表現的絵画)】。
   絵画体の表面を視て、表面の配置された絵具そのものの形と色を楽しむ。
  
  (c)【抽象絵画 第二類(物的存在者創造的絵画)】。
   絵画体の表面だけでなく、絵画体そのものの配置状態を、また内部配置状態を観て、空間的配置状態と絵画体の色、形、また質感を楽しむ。

 何かを描写した絵画か、そのものとして?存在する絵画か。→絵画または色彩の個体化?
  「具象美術はなんといっても描写です。ものごとを描写するものです。 ニューヨーク派の絵画でさえ私は、作家の「マーク」を描写している、絵筆のタッチで描写していると感じます。〔略〕いっぽう私の絵は近くで見れば絵筆で描いたものだとわかるでしょう。〔略〕でも私は、描写された空間よりも実際の空間に存在する作品をつくりたいのです。〔略〕
  もちろん、私の作品も描写しています。色彩をね。でも私は、自分の作品を、いま私がここに立っているように存在させたいのです。 これは黒いセーター、これはグリーンのパネルと言うようにね。私はそれをわれわれの空間に持ち込みたいのです」
(辻川一徳 2006/10: 150頁)。


絵画の形式と内容
  「私の絵〔略〕〔の〕内容はまったく色とかたちとサイズだけだ。」
(辻川一徳 2006/10: 170頁)。


個人的(パーソナル personal)と 非個人的な(インパーソナル impersonal)
  「パーソナルというのは、「それは私だ」ということだよ。「これが『私が』考えたことだ」とかね。〔略〕

 Ellsworth Kellyは、自らの絵画を、またはその制作方針または態度を、次のように特徴づけている。
  1. 非個人的である。
  2. 印 mark をつけない。
    絵筆で印をつけている例として、サイ トゥオンブリー Cy Twombly やウィレム デ クーニング Willem de Kooning の絵画。彼らは絵筆で印をつけている。明らかに絵筆の痕が見える。ケリーの絵画は、知くでないと絵筆の痕は見えない。
  3. 内容は、色とかたちとサイズだけである。
  4. サイズは、人体よりも大きいことで、絵画の方が観るものに対して優勢に作用する。
  5. 形態 form と 地 ground(背景?)は切り離されている。
    「モナリザは「フォルム」で、彼女の背後にある山々は「グラウンド」だ。ルネサンス以来の絵画の伝統は「フォルム」と「グラウンド」だ。「「グラウンド」の上に作家の考え、つまり「フォルム」が来る。」(辻川一徳 2006/10: 171頁)。
    「私〔=ケリー〕がパリで絵を描きはじめたとき、絵全体が「フォルム」になり、壁が「グラウンド」になった。私は「フォルム」として切り出した絵を制作した。それが壁の上にある。壁の上のかたちだ。」(辻川一徳 2006/10: 171頁)。
  たとえば肖像画では、人物が主題で背景が室内風景という構図である(ことが多い)。背景と人物は同一の面にある。では、人物を厚塗りすると、地から浮き立つ(浮き彫り的になる)。薄い板に人物を描いて切り抜き、それを垂直の設置した画布の前にたとえば1cmのところに置くともっと際立つ。
  ケリーの場合は、壁から1 inch(=2.54cm)ばかり離して展示する。「壁の上の形態 formだ」と言う。また「絵画と彫刻の中間といえるだろう」(171頁)と言う。

 絵画物体(固体状態、液体状態、気体状態、[さらに加えれば、エーテル状態(dark matterとdark energy)。たとえば可視光というエネルギー形態はエーテル質料なのだろうか?、紫外光は?、赤外光は?])と、それが設置される背景または立体的環境、これらもまた固体、液体、または気体の状態(またはそれらの複合的または中間的状態)に分類すると、3x3の組み合わせがある。
 (まだ発売するには至っていないようだが)透明な紙(固体状態)に、たとえば赤に彩色した気体を入れて、ヘリウム気体も入れて、室内または屋外で浮遊させる。この場合は、絵画物体の背景または環境は、風船とした透明紙なのか、その周りの透明な空気なのか、不透明な壁なのか。結局、背景または環境は、階層的に存在する。階層の数を測定することになる。
 絵画物体の製作と設置または展示環境の設計は、階層的に考えるべきである。もちろん、主要な絵画的作用の種類と程度を考慮することが大事である。



参考電網処

 エルズワース・ケリー
http://art.pro.tok2.com/Twenty/Kelly/kelly.htm

金融バブル崩壊の機構と機会因

2015年07月28日 09時47分31秒 | 政治経済社会学
2015年7月28日-1
金融バブル崩壊の機構と機会因


野口悠紀雄.1992/11/25.バブルの経済学 日本経済に何が起こったのか.258pp.日本経済新聞社.[定価(本体1,533円)][332.10]


オランダでのチューリップ バブル
  「価格の上昇に伴って、チューリップ栽培には直接関係しない人々も投機に参入するようになり、そして、多くの人たちが突然金持ちになった。これが、すでに投機へ参加している人の希望を正当化し、彼らはさらに買い進んだ。かくして、際限ない価格上昇が続いたのである。また、現物渡しの習慣が崩れ、球根が実際に引き渡されるまで対価を支払わないでも済む先物取引が導入されたため、投機性がいっそう強まった。」
(野口悠紀雄 1992/11: 71頁)。


急な値上がりは買いを呼ぶ(急な値下がりは売りを呼ぶ)
  「市民にとっても浮かれるような話がありました。きっかけは1987年のNTT株の新規上場でした。NTT株が上場すると買い注文が殺到し、初日からどんどん値上がりしました。最初の売り出し価格は1株119万円でしたが、わずか2カ月で318万円まで値上がりました。この時売れば1株で約200万円儲かるわけです。そんなに儲かるならと、これまで株取引をやったことがない人たちまでが次々と株を買うようになりました。空前の株ブームに火がついたのです。みんなが株を買うとどうなるか。需要と供給の関係でいえば、多くの需要があるわけですから株の値段は上がりますよね。こうして株の値段はどんどん上がっていきました。」
(池上彰.2012/6.池上彰のやさしい経済学
 第9回 なぜバブルは生まれ、そしてはじけたのか?
~1985年のプラザ合意によるドル高是正がバブルの始まりだった~
http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012&page=3(受信:2015年7月28日。))


加速的機会因と時期予想
  「なぜ大暴落が起こったのかを納得的に説明することができない。「バブルで膨れた株価が実体とあまりに乖離しすぎた」というほかはないが、これは、何も説明していないに等しい。我々が知りたいのは、大暴落がなぜ〔1929年〕7月や12月でなく、10月に起こったかということなのだが、これについて、歴史書は沈黙している。
 もっとも、何らかの説明がなされたとしても、それがバブル崩壊のメカニズムを解明するわけではあるまい。実際、南海バブルが泡沫禁止法で壊れたとか、ローのシステムが皇太子の硬貨引き出しで崩壊したとか、あるいはフロリダ土地ブームに終焉をもたらしたのかハリケーンだといっても、それは、おそらくほかにも多数あったきっかけの一つを記しているに過ぎない。歴史に残らなかったものも含めれば、同じようなきっかけがその前にも数多くあったに違いない。そしてそれらはバブルの膨張を食い止めることができなかった。〔略〕現在の経済理論では、バブルの崩壊を確率的な事象としてしか説明ができないのである。」
(野口悠紀雄 1992/11: 87-88頁)。


バブル崩壊への動機(機会因を用意する)
 ・→暴落を仕掛けて、大儲けしてやろう(結果として大損するかもしれない)とする人がいるだろう。→機会と仕掛ける時期を狙っている。


バブル崩壊に備えよう
 日本の(大きく数値的な)貨幣経済とりわけ金融投機的な経済は、再度のバブルであるとすれば、あるいはむしろ日経平均株価(という指標)で見て1989年12月29日の3万8915円という(後に判明する)頂点からの下落過程と捉えれば、(政府と日銀による虚勢相場的支えのおかげで)まだバブルは完全には破裂していないとすると、まもなく破裂するだろう。
 なぜなら、投機筋が株価暴落を仕掛けてくる条件がすでに整っているからである。それがいつかは、かれらの売り崩し成功の見込みの賭けをいつやるかという個人的決断に大きく依存する。
 その決断実行への外部的または客観的環境諸条件を整えたのは、日銀による金融緩和や歴代政府による労働条件改悪などである。
 バブル(泡)はいずれ弾けるに違いないし、破裂しなければならない。
 国民は、バブル崩壊による生活困難に備えよう。
 政治経済社会を新たに担おうと志す者たちは、一部の者たちの貪欲の結果の被害を少なくする対処策とともに、これからのあるべき姿を設計し、移行計画を策定しよう。



 ・株価暴落→市場機能?喪失。→金融機能の喪失。→政府の財政破綻。→国債償還または利払い不能や未達。→大きく円安。→輸入激減。→生活必要品の不足。→大インフレ。

 ・幾つかの貨幣経済破綻への進行図解を収集して比較検討せよ。
 ・機構図と過程図。
 ・共有地の悲劇。

機構図
 機会因


引用文献
[い]
池上彰.2012/6/22.【著者が解説】池上彰のやさしい経済学 第9回 なぜバブルは生まれ、そしてはじけたのか? ~1985年のプラザ合意によるドル高是正がバブルの始まりだった~.http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012
http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/b-keizai/article.aspx?id=MMACzm000020062012&page=2
(受信:2015年7月28日。)

[の]
野口悠紀雄.1992/11/25.バブルの経済学 日本経済に何が起こったのか.258pp.日本経済新聞社.[定価(本体1,533円)][332.10]


風間虹樹〈いのちいのちいのち、、、〉の展示案内

2015年07月24日 19時19分37秒 | 美術/絵画
2015年7月24日-1
風間虹樹〈いのちいのちいのち、、、〉の展示案内

   風間虹樹〈いのちいのちいのち、、、〉の展示のご案内
                               2015年7月24日

 風間虹樹の絵画作品〈いのちいのちいのち、、、〉[S100号菱形展示]が、下記の 第90回平原社展にて展示されています。ご楽覧いただければ幸いです。



風間虹樹の絵画作品〈いのちいのちいのち、、、〉229x229cm(S100号菱形展示)
 使用した、いのち絵画の技法:皺つけ法、胡粉振り出し法+油固定法、流れ曜変法、層化法、銀ぼかし法。
 層構成
  上辺縁:見えない空気分子。
  層0:下塗り済み麻画布に、ジェッソ、焼石膏、墨、アクリル絵具、油絵具。
  層-1:下塗り済み麻画布に、ジェッソ、胡粉具、油絵具、テルペン。
  層-1+1:下塗り済み麻画布に、ジェッソ、アクリル絵具。
  下辺縁:白松の木板に貼った障子紙に墨。

  設計イデア
  象徴的設計
   上辺体(隣接する空気):空。
   上部中央体:火のなかに浮かぶ(水甕座の)水。
   残余体:液体的火と液状土の絡み合い的照応。
   下辺体:いのちたちを支える土。

  質料的(=物質的)設計
   ・ジェッソに焼石膏をまぜることで、墨の吸い込みを高めてぼかしや垂らし込みを可能にする、または調整する。


 ◇ 第90回記念 平原社展 ◇
会期:2015年7月23日(木)~8月4日(火)。ただし、7月29日(水)は休館。
時間:午前10時~午後7時(入館は午後6時30分まで)。最終日は午後4時まで。
会場:帯広市民ギャラリー JR帯広駅 地下(帯広市西2条南12丁目)。
入場料:一般400円、高校生以下は無料。

美術修行2015年7月18日(土)-2 堀 信二 木彫展/ギャラリー勇斎/奈良市

2015年07月24日 19時05分41秒 | 美術/絵画
美術修行2015年7月18日(土)-2 堀 信二 木彫展/ギャラリー勇斎/奈良市









(画像掲載は作者の了承済み)



作者の言葉

「Tower 4
「バベルの塔」のイメージで、人の頭部・手 ・足を組み合わせ、不安定な「Tower -塔」という作品を木彫で表現しています。
この、人体を機能ごとコンポーネント化し、でたらめに再構築したような彫刻作品の、不思議で多様な魅力を感じ、楽しんでいただければ嬉しいです。」

生気論文献20150720

2015年07月21日 00時26分57秒 | 生気論
生気論文献20150720


[あ]
アダムスキ,G.(久保田八郎 訳 )生命の科学.167pp.文久書林.[700円][Adamski, G.]

アレン,G.E.1975.(長野 敬・鈴木伝次・鈴木善次 訳 1983}20世紀の生命科学(I).186+12pp.サイエンス社.[1,600円][Allen, G.E.]

アレン,G.E.1975.(長野 敬・鈴木伝次・鈴木善次 訳 1983}20世紀の生命科学(II).187-393+12pp.サイエンス社.[1,600円][Allen, G.E.]

[う]
ウォンディントン,C.H. 1961 生命の本質 v+195pp+5 岩波書店 ¥350 Waddington, C.H. (白上謙一・碓井益雄訳 1964 )

宇沢弘文・河合隼雄・藤沢令夫・渡辺 慧(編) 1989 転換期における人間1-生命とは-岩波講座 ix+333pp 岩波書店 ¥2,500

[こ]
コディントン,M..1978.生体エネルギーの反撃-生命と宇宙を支配する力 281pp ユニバース出版社 ¥1,480 Coddington, M, ( 森沢麻里訳 1981 )

[さ]
サクストン バー,ハロルド.(神保圭志 訳,)新版 生命場の科学:みえざる生命の鋳型の発見.[Suxton Burr, Harold][20140123購入、900+250=1,150円amz][2冊有り]

[し]
清水 博 1987 生命システムと情報 145pp 日本放送出版協会 ¥350

[す]
杉田元宣 1979 バイオニクスと生命論 viii+194pp 学会出版センター ¥2,800

スミス,C.U.M. 1976 生命観の歴史上-古代からデカルトへ xx+306pp 岩波書店 ¥2,800 Smith, C.U.M. ( 八杉龍一訳 1981 )

スミス,C.U.M. 1976 生命観の歴史下-現代への展開 x+307+532pp+9 岩波書店 ¥2,300 Smith, C.U.M. ( 八杉龍一訳 1981 )

[な]
永井 博 1973 生命論の哲学的基礎 x+398pp+15 岩波書店 ¥1,800 Nagai, H.

[ね]
ネオメンデル会(編) 1951 生命論の展望 4+276pp 北隆館 ¥220

[の]
野田春彦 1988 生命論 319pp 日本放送出版協会 ¥2,800

[へ]
ヘッケル,E.1892.(石井友幸 訳 1944)自然創造史上.360+7pp.晴南社.[5.80円][Haeckel, E.]

ヘッケル,E.1904(後藤格次 訳 1928).生命の不可思議上.228pp.岩波文庫.[450円][Haeckel, E.]

ヘッケル,E.1904(後藤格次 訳 1928).生命の不可思議上.548pp.岩波文庫.[450円][Haeckel, E.][500円][Haeckel, E.]

[ほ]
ホール,T.S.1969.(長野敬 訳 1990)生命と物質 上.430pp.平凡社.[5,400円][Hall, T.S. ]

ホール,T.S.1969.(長野敬 訳 1990)生命と物質 下.422pp.平凡社.[5,400円][Hall, T.S. ]

ホールデーン,J.S. 1941 生物学の哲学的基礎 169pp 弘文堂書房 ¥1.60 Haldane, J.S. ( 山形春次・稲生晋吾訳 1941 )

ポルトマン,A. 1973 生命あるものについて-生物の科学と人間 238pp 紀伊國屋書店 ¥1,500 Portman, A. ( 八杉龍一訳 1976 )

[も]
モラン,E. 1980 方法-2生命の生命 xxix+789pp 法政大学出版局 ¥7,700 Morin, E. ( 大津真作訳 1991 )

[や]
八杉龍一 1951 生命 261pp+3 毎日新聞社 ¥260

八杉龍一 1984 生命論と進化思想 viii+228pp+4 岩波書店 ¥1,700

[わ]
渡邊昌.2015/5/20.科学の先 現代生気論.222pp.キラジェンヌ[veggy Books].[本体1,500円+税][B20150716、1,620円]

渡辺慧.1976.ライフサイエンス-生命観-生と死.48-137pp.共立出版.[y???]

渡辺 慧 1976 生命と非生命-物理学情報学から見て- 89pp 共立出版(教養講座ライフサイエンス(24)生命観----生と死), 48-137

渡辺慧.1978.認識とパタン.v+191+5pp.岩波書店.[y380]

渡辺慧.1980.生命と自由.vi+198+6pp.岩波書店,岩波新書122.[y380]

渡辺慧.1989.6.序 いま「生命」とは.宇沢弘文・藤沢令夫・河合隼雄・渡辺慧(編),『岩波講座 転換期における人間1 生命とは』: 1-29. [B890802]

渡辺慧ほか.1989.岩波講座 転換期における人間1:生命とは.v+333pp.岩波書店.[B890802][二冊目、B950114, y1,500*]

渡邊昌.2015/5/20.科学の先 現代生気論.222pp.キラジェンヌ[veggy Books].[本体1,500円+税][B20150716、1,620円]