生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

「進化は事実である」仮説/備忘録

2010年08月22日 01時19分08秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月22日-2
「進化は事実である」仮説/備忘録

 備忘録。
 石川(2005:166)は、ハワイ諸島におけるショウジョウバエ属の多様性を、「進化の要因とメカニズムを探るためにこそ、〔進化という事実についての〕ゆるぎない証拠は必要である」ことを実感させてくれる好例だとしている。この166頁で述べている文章は、どういう論理的構造なのかが、わからない。どうも、結局、石川の意図とは反対に、ショウジョウバエ類がハワイ諸島で生物相独占的に種類が多いということは、進化の証拠にはならないことがもどかしいのか、と受け取ってしまう。いずれにしろ、創造科学との関係で論議しているのだが、論理的筋道がごちゃごちゃしていて、何かを言いたいことの根拠立てがわからなかった。
 ジョージア州コブ郡の或る学区の教育委員会は、高校の生物学の教科書にステッカーを貼るようにという通達を出したが、そのステッカーには、石川(2005:164)によれば、

  「進化は生物の起源に関する理論(theory)ではあるが、事実(fact)ではない。」

とあったそうである(おそらく、進化理論は種の『起源』に関する理論ではない)。事実という認定にも、種類と程度があるから、どのあたりで事実と認めるかは様々だが、人類によって、新種が生成したということは観測されていない(と思う)から、進化(という現象)は事実とは言えないのは確かである。したがって、進化理論があるとすれば、その第一仮定は、
  <進化は事実である>仮説、
である。さらに、この仮説において、

  1. 現生生物体のすべてが、過去に遡れば親子関係で繋がる
  2. 化石種(に属するもの)として知られる生物体すべてを含んで、それらが親子関係で繋がる

と親子関係で繋がれる生物体の範囲をどれくらいにするかの問題がある。
 そして、たとえばタクソンで範囲を定めるならば、単性〔あるいは無性〕生殖生物体の場合として、

  a1-a2-……an - b1-b2-……bm

において、aiとbiは生物体を表わすものとし、aiは種Aに属し、biは種Bに属するものとする。
 仮にこれらの系列の生物体が観測されて、an - b1の親子関係が観測されたとしよう(漸進的に形質が変化していったとしても、以下の議論は同様に成立する)。すなわち、

  A→B

という種的移行が、生物体の親子系列において確証されたとする。
 しかし、A→Bが観測されたからといって、L→Mとか、他のP→Qという種的移行が確証されるわけではない。もし、Animaliaというタクソンに属する全生物体について、「進化は事実である」仮説を確証したいならば、種を単位とすれば、種的変換のすべての過程について確証しなければならない。どこか一つの段階ででも、神は遍在するし万能らしいので、「そこのところだけは、神様のわたくしがやりました(創造しました)」と主張するかもしれない。

 われわれが観測するのは、

  親生物体とそれの子生物体は、同種に属する (生物学的同定における公準(の一つ))

ということである。というか、これは生物学の公準である(雑種生物体のように例外はある。しかし、われわれはそのようなことを同定できるし、どの二つの種に属する親からの雑種生物体なのかを言い当てることもできる)。これは科学に関することであるから、その確証について言えば、親子関係を観測し、その二つの生物体について同定すれば同種となることが判明すればよろしい。(逆に、もし異種に属する生物体が産まれてきたように見えれば、それはたとえば寄生生物体ではないかと、われわれは考えるのである。だから、よく似た寄生生物体が混在していることが見逃されていたということは、よくある。或る雌に同種の雄が寄生するという場合もある。)
 そうすると、親子関係で繋がっている限りの過去に存在した生物体へと遡れば、それらの系列の生物体たちは同種に属することになる。むろんわれわれは、同種だとは考えず、異なる種に属する生物体がいっぱいいる、またはいたと考える。すると、このような公準を採用するならば、あちこちのどこかで切れていると考える方が、節約的である。あるいは少なくとも「進化は事実」仮説とは同等的に節約的である(どういう意味で?と問う人がいるかもしれないが、うっちゃっておく。各自考えよ)。この場合、進化はまったく生じなかったことになる。

 (厳密に書いていくと、文がややこしくなり、話が進まず、ますます伝わらないことになるし、何を言おうとしていたのか、忘れる、忘れた……)

 
[I]
石川統.2005.5.結び 社会の中の進化学.長谷川眞理子ほか,『進化学の方法と歴史』: 163-170. 岩波書店.



実際に相互交配することと、相互交配可能であることとの違い

2010年08月22日 01時13分06秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月22日-1
実際に相互交配することと、相互交配可能であることとの違い

 さて、Mayr (1942)の定義には弱点があるが、それは「実際の、対、潜在的」の区別が不必要であることだと、Mayr (1982: 273)は言う。

  「『生殖的に隔離している』は、生殖的隔離メカニズムを持つことを指している〔参照している refer to〕からであり、そして或る所与の時にそれら〔このそれらとは、isolating mechanismsを指すのか?〕が挑戦を受けるかどうかは、種の地位にとっては無関係である。」(Mayr 1982: 273)。

  「より記述的な定義とは、_一つの種は、一つの特異なニッチを自然において占有する個体群たちの〔of = 個体群たちから成る?〕、一つの生殖的共同体である_。」(Mayr 1982: 273)。

 おっと、ニッチは生態学的概念だが、その定義は色々であるから、この文は実際上は無意味に近い。もちろん、ここは他の著者から批判されたところである。

 『生殖的に隔離している』は、隔離的種概念の鍵言葉であるわけだが、それは隔離の原因についての疑問を提起し、この問題は『〔生殖〕隔離機構』という概念の発展によって解決された、とMayr (1982: 273)は言う。

 Dobzhansky (1937)は、隔離機構を地理的と生理的の二つに分けたが、生理的隔離機構だけが種がもつ真の性質だとは理解しなかった。そこで、Mayr (1942)は、隔離機構として、地理的障壁をはっきりと除外し、種の生物学的性質に限定した(これは正しい方向である)。それでも、困難が残っていた。それは、「完全に良い種であっても、ときたま、個体は交雑するという可能性があることである。言い換えれば、隔離の諸機構は、個体群の統合性を提供することだけが可能であり、最後の最後の単一個体にまで提供するのではない。こう認識したので、Mayrは定義を改善することとなった。すなわち、

  『隔離の諸機構は、実際にまたは潜在的に同所的な個体群たちが相互交配することを妨げる、諸個体の生物的性質である』(1963: 91)。」(Mayr 1982: 274)。

 潜在的に同所的な個体群たち、って何? potentiallyなんて、解釈が定まらない言葉を使ってはならない。

 「生殖的隔離は、しかしながら、種の二つの主要な特徴のうちの一つでしかない」と、もう一つのものとしてニッチへとMayrは向かっていくのであった。
 む? 結局、Mayrは、実際的と潜在的の区別は不必要である理由として、述べているところが、わからん。ニッチへと逃走していくので、どうでもよい感じだが。後で、ニッチを引っ込める理由のところはどこに書いてあるのかな。一応、さきほどの原文を掲げておこう。単にわたしの英語力の不足かもしれないので。

The "actual vs. potential" distinction is unnecessary since "reproductively isolated" refers to the possession of isolating mechanisms, and it is irrelevant for species status whether or not they are challenged at a given time. (Mayr 1982: 273)