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「偽科学」の未同定性/ニセ科学批判の迷妄

2010年08月18日 15時45分21秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月18日-3
「偽科学」の未同定性/ニセ科学批判の迷妄

 (いると仮定しての話だが)ニセ科学批判者たちが、一般的概念として科学を絶対的に崇めるのはいいとしても、なんらかの判断基準で或る主張や理論や営為をニセ科学と同定することがあるとすれば、それは論理妥当的ではなく、したがって非科学的である(科学度皆無(ゼロ)を非科学的という科学的の対極に定めることにする)。
 要は、或ることをニセ科学だと同定できたとするのは、根拠が無い。
 或る主張が間違っていましたと判明する(とみなされる)ことはあるだろう。しかし、もし、或る主張の論理性や経験的根拠を追求することにとどまらずに、これこれはニセ科学ですと主張するならば、ニセ科学だとする論拠または基準を無批判に祭り上げた独断的教義であり、悪い意味での宗教化である。或る派の科学教またはニセ科学教と呼んでもよいしろものとなる。

 科学が言及できる対象を、あらかじめ決めることはできない。科学的営為、したがって科学的知識(体系)は動的であり、とりわけその観測対象を拡げる(理論と相互依存的な)観測装置の出現によって大きく影響される。
 科学が言及できる対象を、あらかじめ決めることはできない。或る時点での科学知識体系とそれが用いる観測装置にもとづけば、しかじかであるという主張ができるのであり、或る主張を確証する営為は、また別のことである。そしてまた、一つや二つの実験や同様の追試で絶対的に確証されるわけでもない。少数の観測でもって確証度が高いと思うのは、綿密に設計され、かつ厳密に観測条件が整えられて支障無く実施された場合である。ここですでに、様々な段階で、究極のところは(正しく実施されたと)信じることにもとづいていることが明らかである。(われわれは何を指示しているのか、それは実験や観測の系で正しく同定されているかといった、やっかいな問題もある。)
 
 たとえば、個人ごとに異なる魂がその肉体から離れることが人の死であると(或る理論で)定義した場合、現在の科学的検出手段では、個人、肉体、そして人の死は指示または同定あるいは観測できるが、魂、個人ごとに異なる魂、そして、魂がその肉体から離れること、は、指示または同定あるいは観測できない(と思う)。

 指示される対象、言い換えれば言明の主語となるものが、(現在のところ)経験的に同定できない場合、われわれは「それ」や「それ」が関与する現象について、何も科学的なことは言えない。言えないことを、たとえば「魂というものは無い」ことが科学的結論ですとするのは、推論として誤りである。

 いわゆるUFOについても同様である。ただし、存在を否定することの困難さが特に関わっている。たとえば、わたしはUFOを見た、と主張する人がいるとする。すると、その主張の根拠とされた画像(フィルム上や電子的に記録されたもの)が調査される。(つづく)


 〔そういえば、地球外宇宙船が日本領空にやってきたとき、それを自衛的に迎撃するとすると、その根拠はとかの、国会での論議あったような、ちがったかな? すべては忘れ去られる……サヨナラだけが人生だ…………〕
 
 [作業仮説:時間は、意識-脳システムによる錯覚である]
 
 
[L]
*リベット,ベンジャミン.(下條信輔訳 2005.7)マインド・タイム:脳と意識の時間.xix+267+15pp.岩波書店.[Libet, Benjamin. Mind time : the temporal factor in consciousness] [y2,835]

*下條信輔.2008.12.サブリミナル・インパクト?情動と潜在認知の現代.ちくま新書.