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実際に相互交配することと、相互交配可能であることとの違い

2010年08月22日 01時13分06秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月22日-1
実際に相互交配することと、相互交配可能であることとの違い

 さて、Mayr (1942)の定義には弱点があるが、それは「実際の、対、潜在的」の区別が不必要であることだと、Mayr (1982: 273)は言う。

  「『生殖的に隔離している』は、生殖的隔離メカニズムを持つことを指している〔参照している refer to〕からであり、そして或る所与の時にそれら〔このそれらとは、isolating mechanismsを指すのか?〕が挑戦を受けるかどうかは、種の地位にとっては無関係である。」(Mayr 1982: 273)。

  「より記述的な定義とは、_一つの種は、一つの特異なニッチを自然において占有する個体群たちの〔of = 個体群たちから成る?〕、一つの生殖的共同体である_。」(Mayr 1982: 273)。

 おっと、ニッチは生態学的概念だが、その定義は色々であるから、この文は実際上は無意味に近い。もちろん、ここは他の著者から批判されたところである。

 『生殖的に隔離している』は、隔離的種概念の鍵言葉であるわけだが、それは隔離の原因についての疑問を提起し、この問題は『〔生殖〕隔離機構』という概念の発展によって解決された、とMayr (1982: 273)は言う。

 Dobzhansky (1937)は、隔離機構を地理的と生理的の二つに分けたが、生理的隔離機構だけが種がもつ真の性質だとは理解しなかった。そこで、Mayr (1942)は、隔離機構として、地理的障壁をはっきりと除外し、種の生物学的性質に限定した(これは正しい方向である)。それでも、困難が残っていた。それは、「完全に良い種であっても、ときたま、個体は交雑するという可能性があることである。言い換えれば、隔離の諸機構は、個体群の統合性を提供することだけが可能であり、最後の最後の単一個体にまで提供するのではない。こう認識したので、Mayrは定義を改善することとなった。すなわち、

  『隔離の諸機構は、実際にまたは潜在的に同所的な個体群たちが相互交配することを妨げる、諸個体の生物的性質である』(1963: 91)。」(Mayr 1982: 274)。

 潜在的に同所的な個体群たち、って何? potentiallyなんて、解釈が定まらない言葉を使ってはならない。

 「生殖的隔離は、しかしながら、種の二つの主要な特徴のうちの一つでしかない」と、もう一つのものとしてニッチへとMayrは向かっていくのであった。
 む? 結局、Mayrは、実際的と潜在的の区別は不必要である理由として、述べているところが、わからん。ニッチへと逃走していくので、どうでもよい感じだが。後で、ニッチを引っ込める理由のところはどこに書いてあるのかな。一応、さきほどの原文を掲げておこう。単にわたしの英語力の不足かもしれないので。

The "actual vs. potential" distinction is unnecessary since "reproductively isolated" refers to the possession of isolating mechanisms, and it is irrelevant for species status whether or not they are challenged at a given time. (Mayr 1982: 273)