2013年8月21日-2
生命論資料 2013-002
Sattler, Rolf. 1986. Biophilosophy: Analytic and Holistic Perspectives. xvi+284pp. Springer-Verlag, Berlin. [P20010603]
第9章 生命とは何か? (pp.211-239)
9.2 生気論 Vitalism (pp.212-215)
最も広範囲な形態の生気論によれば、宇宙全体は生きている animated(アニミズム animism)。しかし、何人かの生物学者に関心が持たれてきた、より普通の形態の生気論は、生命は、生きていない物質とは根本的に異なっていることを含意する。なぜなら、生気的本体 vital substance 、生気的流体、あるいは生気的力、魂、などの形態のなかに生気的原理を授けるからである(たとえば、Blandino 1969を見よ)。このような生気的原理という仮定は、「生命とは何か?」または「生きている有機体とは何か?」という問いに直ちに答える。生きている有機体とは、生気的原理が注ぎ込まれている対象なのである。有機体の規則正しい発生と機能は、有機体がこの原理によって指図されているゆえに起きるのである。
生気論は古く古代にまで遡る。19世紀と特に20世紀の生気論者は、通常新生気論者 neovitalist と呼ばれる。良く知られている新生気論者の一人は、ドイツの動物学者のハンス・ドリーシュ Hans Driesch(1867-1941)であった。彼は唯物論的生物学者のエルンスト・ヘッケル Ernst Haeckel の学生で、ヘッケルの影響下で有機体の発生の分析的理論(1894)を発表した。この初期の仕事は生命についてのマシン理論の精神で書かれたが、すでにそれは終局因的傾向を示している。ドリーシュの実験発生学における後の仕事は、その多くはイタリアのナポリの有名な動物学実験所でウニを使って行なわれ、有機体の規則正しい発生を指図し〔方向づけ direct〕、またその意味で目的論的力を構成する生気的力〔生命力 vital force〕を仮定するに至ったのである。彼はその力を「エンテレキー entelechy」と名づけた。それは、すでにアリストテレスによって使われた名称である。「エンテレキー」の文字通りの意味は、「その目標をそれ自体が持つ」である。
ドリーシュの生気論は、『有機体についての科学と哲学』(1908)という二巻本とドイツ語でのいくつかの本において詳しく述べられている〔洗練されている elaborated〕。彼の結論を支持する経験的基礎は、多くの生物学教科書に要約されている(たとえば、Browder (1980)とBlandino (1969)を見よ)。彼はウニの大変若い胚を半分の2つに分割し、各々の半分が完全な有機体を形成することを観察した。もし機械〔マシン〕が半分の2つに分割されたら、機能することを止めると、彼は主張する。よって、有機体と機械の間には根本的な違いがある。有機体はそのエンテレキーのおかげでその目標を『知って』おり、エンテレキーは、過酷な撹乱〔外乱 disturbance〕と損傷の後でさえも、有機体の発生と固有の機能を指図する direct のである。
多くの種類の批判が生気論と新生気論に対して向けられた。四つの主要な批判を示すことにしよう。
(1)「エンテレキーといった」生気的原理 vital principle の仮定は、「あまりにも上出来で、あまりにも一般的であり、特殊事例に対してなんら光を当てないものである」(Woodger 1967, p.266)。これは、生気論的教義は、決して科学的理論ではないことを意味する。科学的理論は定義により、試験可能〔テスト可能〕でなければならない。つまり、特定の試験的含意を導き出すことが可能でなければならない。生気論と新生気論の教義はこのために失敗している、と言われる。それらは、「どんな状況下でエンテレキーが活動開始となるのか、特に、どのようにして生物的過程を指図する〔方向づける direct〕のかを、示さない」(Hempel 1966, p.72)。この批判によれば、生気論的教義は非科学的 unscientific として却下される。しかし、非物質的行為者 nonmaterial agent を含意するから批判されているのではない。事実、Hempel(1966, p.72)は、ニュートンの理論もまた重力の形で非物質的行為者を発動している〔呼び込んでいる invoke〕と強調する。しかし、ニュートン理論は試験可能 testable であり、説明力と予測力を持っているのである。
上記の批判は多くの形態の生気論に適用されようが、批判が一般的に妥当かどうかは私には確信がない。すべての形態の生気論を無条件に〔categorically〕却下するかわりに、少なくともいくつかの形態の生気論は或る類いの説明または予測または両方を提供できるかもしれないのではないかと、心を開いたまま〔虚心 open-minded〕でいるべきだとわたしは考える。たとえば、Mencius(たとえばDa Liu 1974, p.14を見よ)によって触れられた、或る形態の道教的健康技術は、気 ch'i と呼ばれる生命力 vital force を発動する。特異な呼吸法による気の活性化と変形 activation and transformation は、予測可能な結果に導くかもしれない。ゆえに、たとえば、気の活性化は二人の人が重い一人をも小さな指で地面の上に持ち上げることを可能にすると予測できる。このような出来事を、わたしは大変な驚きで目撃した。気が活性化されなければ、同じ二人はその人を持ち上げることはできない。
終わりに、生気論が非科学的だという批判に関して、二つの考察をしたい。第一に、少なくともいくつかの形態の生気論は、なんらかの説明力または予測力または両方を持つかもしれないと、その意味で非科学的では必ずしもないと。このような線に沿ったさらなる調査は、いくつかの点で得るところがあるだろう。第二に、すべての形態の生気論が科学的であろうとは意図されてはいないと。たぶんアンリ・ベルクソン Henri Bergson(1859-1941)は、非科学的形態の生気論の代表として言及できるだろう。Bergson(1889, 1907)は、その生命的原理を「エラン・ヴィタール〔生命の跳躍〕」と呼んだ。それは直観的に経験される。論弁的〔推論的〕思考 discursive thought だけでは、それを把握することはできない。よって、ベルクソンの生気論についての合理的批判は、見当違いである。自発的に流れ創造するエラン・ヴィタールは、感じられ経験されなければならない。〔p.213まで。20130821試訳〕
ベルクソンは、笑いについての本(『笑い Le rire 』, 1900)も書いている。この本もまた、生命に向かう彼の態度が分析的哲学者たちの態度と、どれほど異なっているかを示すものだ。分析的哲学者たちにとって、笑いは生命の理解を進めるものではない。ベルクソンにとって笑いは、生命との深い交感であるのかもしれない。それゆえ笑いは、論弁的思考よりも、生命の神秘に近くへと連れて行き、こうして調和と幸福を創るのかもしれない。あなたがこれに同意しないのなら、「微笑みの国」タイか、または人々が微笑み、またよく笑う他の国に行ってもらいたい。すると、これらの人々の多くの幸福と智恵について驚くだろう。あなたが「微笑みの国」を訪れることができないか、あるいは到着するまでにタイが西欧化されすぎていたならば、笑う人々の一団を捜して笑わしてもらい、影響されるようにしよう。あるいは、五分間か十分間、狂ったように笑ってみよう。そうすれば、あなたは良き人となり、あれこれ考えるよりも、問題事と心配事を解決するだろう(Cousins 1979も見よ)。笑いはすべての問題への解答だと言うつもりはない。思考は役立たずだと言うつもりもない。しかし、笑い、自発性、そして直接的経験は、知性によっては到達し得ない生命の層を開くことができると申し上げたい。
(2)生気論の科学的側面へ戻る。生気論への二番目の異議は、生気的原理の本性に関わるものである。このような原理は、原子と分子以外で生じる何かとして、このような原理は示され得ないと主張されてきた。さらに、このような追加的原理がどのようにして進化の間に生じたのかを想像することは難しい。
この批判もまた、すべての形態の生気論に適用される必要はない。Hull(1974, p.129)が指摘するように、現代科学の一つの傾向は、「諸物と諸実体のカテゴリーから、諸性質、とりわけ関係的および組織的諸性質のカテゴリーへという、鍵となる科学的概念の移行」であった。「生命が物でないのは、時間、空間、あるいは磁気が物ではないのと同じである。人によっては、この目録に〈心〉を加えるかもしれない。」 生気的諸力をこのように見るならば、「生気論は整合的立場となり、主な異議は回避され得る」(Hull 1974, p.129)。磁気を説明するのに、「良き磁場のための最終的休息所として磁気的天国を仮定する必要はない」(Hull 1974, p.129)。同じことが生気的力に適用してよいし、新生気論をこのように考えるならば、一般的に受け入れられている形の現代生物学に近くなるか合併する可能性がある。Meyen(私信)は、ドリーシュのエンテレキーという概念は事実上、生きているシステムの自己制御 self-regulation という現代的概念とたいして変わらないと私に指摘した。
これで私が示そうとしたのは、生気論的教義はきわめて多様で、非科学的経験から、科学的理論または教義と両立可能な見解までに渡っているということである。よって、或る生物学者に新生気論者のレッテルを貼ることは、なにほどのことも意味しない。ただし、そのようなレッテル貼りは、ときどき新生気論として分類される多くの形態の生物学的接近についてきわめてしばしば単に無知なのだと考える人々の見地からは、名誉毀損的で恩着せがましいことを意味する。新生気論者を全面的に非難するよりも、特定の緒接近と緒理論をそれらの利点について分析するほうが、もっと適切でもっとためになることだろう。生気論は、たいていの生物学者にとって、悪くて嫌な言葉となった。不幸なことに、この言葉を聞いたり読んだりすると、多くの人はすでに偏見を持っているので、より肯定的な評価を自ら奪ってしまうのである。
(3)生気論への三番目の主要な批判は、実用的なものである。生気論は科学的理論としては成功してこなかったと言われる。他方、それに対抗する教義、つまり機械論は、成功でいっぱいだった。失敗したところでさえ、機械論は少なくとも発見的価値があるとみなされてきた。つまり、より良いモデルと理論を発見するのに助けとなったのではないかというわけである。生気論は、一方、発見的価値を欠いていると責められる。極端な批判によれば、まったく何の役にも立たないのである。
すべての形態の生気論に対するまったくの拒否と、機械論の実用的および発見的根拠の受容に応答して、Woodger(1967, p.269)は、「こうした発見的成功はなんら真理を保証しないし、その方法が際限なく成功するしつづけるだろうことも保証しない。ましてや、他の可能性の研究をまったく無視するという〈理由〉は無い。」生気論にはまったく発見的価値が無いのかどうか、問うこともできよう。Woodger(1967, p.266)は、「生気論的著述は、価値ある側面を持っている。思考における冒険??可能性の探求を表わしている。」生気論的教義は、「適切な理論生物学なら考慮しなければならない有機体の諸側面に注意を向けるという利点を持っている」かもしれない」(Woodger 1967, p.267)(また Canguilhem 1975も見よ)。
(4)生気論は、生命とは何かという問いへの究極的答えを持つと主張するたびに教条的だと非難し得る。この意味で、生気論は科学の進歩を阻んでいる。生命の神秘は生気的原理〔生命原理〕によって「説明され」、こうして生命の本質は想像上で把握される。発見されるべく残るのは、興味の持てない詳細だけでしかない。このような独断的態度は、先見の明もなく、不寛容となる限りは破壊的でもある。真理とは何の関係も無いゆえに、事実的詳細は完全に価値を失う。その真理は疑う余地も無くすでに確立されていると想像されているのである。
このような傲慢について幾人かの生気論者に罪があると言うことは可能であるし、多くの者にこのような傾向があることはもっと確からしい。あいにく、同じことが機械論者(たとえば、Crick 1966,1981; あるいは Monod 1970を見よ)に言える。さらなる理解をしようと願うならば、Woodger (1967)の助言を聞こう。彼は、対抗する緒理論の賛同者の間での、知性的謙遜、さらなる協力、そして競争をより少なくすることの必要を強調している。「一つの理論が別の一つの理論を排除するという考えは、自分たちの仕事が知るべきことについて決定的で網羅的であるとみなしたいという欲望から来ている。しかし、一つの抽象方式が網羅的ではあり得ないことを考えるだけで、そのような態度はいかに間違っているかがわかるというものである。」(Woodger 1967, p.271)。
〔20130821-0823試訳〕
9.3 機械論 Mechanism (pp.216-217)
9.4 還元論 Reductionism (pp.217-225)
9.5 生命についてのマシン理論 Machine Theory of Life (pp.225-226)
9.6 有機体論 Organicism (pp.226-228)
9.7 生命とは何か? What is Life? (pp.228-234)
9.8 心身問題 The Mind-Body Problem (pp.234-236)
9.9 要約 Summary (pp.236-239)