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科学素養〔読み書き能力〕science literacy/欠如モデルから市民参加モデルへ

2010年08月19日 15時10分03秒 | 生命生物生活哲学
2010年8月19日-5
科学素養〔読み書き能力〕science literacy/欠如モデルから市民参加モデルへ

 
 藤垣(2008 in 藤垣・廣野 2008: 109-124)の「受け取ることのモデル」という章の「6.2節 欠如モデル」から、欠如モデルについてまとめ、少しテキト~な考えを加えると(カタカナ語はそれなりに直した)、次の通り。

1. 欠如モデル

 人々の無知や科学的素養の欠如という理由で状況を理解しようとするモデル。科学者側は、一意に定まる正しい知識を持つのに対して、公衆には欠如している人がいると考える。回答による多くの調査の前提となっている。
 受け取ることのモデルは、
  1. 科学とは、正答誤答が一意に定まる正しい知識からできており、公衆はそれらを受け取る。
  2. 公衆はそれらの知識が欠けている。
  3. その欠けている状態を測定することができる。
を暗黙の前提としている(112頁)。

 112頁で言及されているように、日本の科学技術政策研究所の2001年の「科学技術に対する意識調査」(渡辺政隆『一粒の柿の種』で言及しているもの。
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3087053
を見よ)は、質問項目への回答によって科学リテラシーが計測されており、欠如モデルを前提としていると考えられる。

 一つ大事なことは、生活していくうえで騙されないとか偽物を買わないことであり、根拠はなんだろうかと学ぶことであり、安易に信じないこと、疑い、偽装を見抜くこと、などである。ニセ科学批判信仰団みたいなものがあるとすれば、おそらく欠如モデル型になっていると予想される。

 Ziman ザイマンは、単純な欠如モデルを離れるほうが、人々の科学理解を豊かに説明できると考える。また、
 欠如モデルのなかの、
  科学知識が増える→科学への態度が肯定的になる
という仮定をテストした Sturgus 〔113頁のSturgisは誤植だろう〕 & Allum (2004)によれば、→のところで、人々の政治的知識が影響することが示唆されたという(113頁)。

 また、Bucci (????)によれば、バイオテクノロジーについての意識調査から、
  (~について)正確な知識を所有している→(~に対する)態度が肯定的になる
の両者の間で、相関が見られなかったという(113頁)。

 欠如モデルの次は、文脈モデルである。

 
2. 文脈モデル

 状況(文脈)に即した situation-specific, contextualized 知識を一般の人は持っているとするのが、文脈モデルである。
 放射性物質汚染といった、対処を迫られた場合、状況(文脈)に応じて、科学的知識以外の種類の知識や判断が必要になる。
 Wynne ウィンによると、科学についての公衆理解の三つのレベルとは、
  1. 知識の中身
  2. 方法論
  3. 知識が組織化される形式や制御
である(114頁)。

 鍵句:教科書的知識と文脈的知識、そして政治的知識。

 文脈モデルでは、
  「知識を受け取るとは、教科書的知識をそのまま受け取り、その種の知識の有無を問われる問いに正答できる知識を身につけることではなく、それらを日常の文脈のなかで位置づけ、自らのまわりの状況に役立つ形で蓄積することである。」(藤垣 2008: 115頁)。
 
 
3. 素人の専門性 lay-expertiseモデル

 文脈依存的知識が、大きな集団としての「素人の知識」として組織化されることを強調すると、素人の専門性 lay-expertiseモデルになる。素人は、たとえば遺伝学に関して、技術的知識(ウィンの言う知識の中身に相当)、方法論的知識(方法論に相当)、制度的知識および文化的知識(これら二つは、知識が組織化される形式と制御に相当)を使う(115頁)。
 素人の専門性モデルは、文化人類学や民俗学などでの、局所的知識 local knowledgeにほぼ等しい(116頁)。
 素人の専門性モデルでは、一方向の伝達ではなく、素人から専門者への局所的知識の伝達も行なわれるから、科学コミュニケーション〔交達〕に役立つと、藤垣(2008: 117頁)は言う。

 生態学で、地球のどこででも適用できる一般的理論と、地域で役立つ理論、に関係しそうな話。(大きく)関与する変数の取り方の問題にも関係する。
 現場で得られる知識が役立つのは、より多くの変数についての観測、解決策をよりしぼることができること、その地域に特異的な生物体やそれらが作り出す環境などを暗黙にでも利用できること、といったあたりか。まだまだありそう。

 素人の専門性モデルの双方向的交達を想定しても、たとえば御用学者や御用科学者の問題はどうなのだろうか。とりわけ、たとえば実験装置や計測装置やコンピュータの運営維持費用だけでも大きな、ましてや新設するとなると莫大な費用がかかる、いわゆる巨大科学では、経費獲得が大変だという問題がある。
 
 
4. 市民参加モデル

 双方向伝達(あるいは、素人の専門性モデル;「これに加えて」のこれが、どちらを指示しているのかわからん)に加えて、意思決定への参加、市民の力づけ empowerment〔→市民への権限付与、が良いのでは?。いや、違うか。「情報を受け取ることは、次の行動を力づける」(119頁)とあり、妥当なのだろうが、この解釈は本当に妥当なのか、少し疑問を感じる。市民が政策決定に関わるなかで市民が力づけられるのか、行政が市民になんらかの権限を与えるのか、あるいはどちらも含むものなのか〕 を考慮したものが、市民参加モデルである(117頁)。
 社会的合意形成や政策の意思決定を、市民参加型で行なう。
 手段または方法として、
  合意形成会議 consensus conference
   専門者だけでなく、市民から公募した討論者 panelist〔あちこちにカタカナ語が多いが、特に、パネラーといった和製英語は使わないでほしい〕が加わる。

 
 おそらく、藤垣『専門知と公共性』を読むと理解が深まるだろう。

 多くの学会では、学会誌を出版社に託しているが、藤垣(2009)が指摘する以外にも弊害も出てきているようである。対処策の一つは、ネット上の電子媒体だけでの発行という手であろう。そしてだれにでも無料で公開してほしい。

 
[F]
*藤垣裕子.2003.5.専門知と公共性:科学技術社会論の構築へ向けて.224+xiv pp.東京大学出版会.[y3,570] [Oc404]

藤垣裕子.2009.「偽学術雑誌」が科学コミュニケーションにもたらす問題.カレントアウェアネス, (302), CA1700, pp. 7-8. http://current.ndl.go.jp/ca1700.

藤垣裕子・廣野喜幸.2008.10.科学コミュニケーション論.xv+284[+1=執筆者および分担者一覧]頁.東京大学出版会.[y3000+] [OcL]

[W]
渡辺政隆.2008.9.一粒の柿の種:サイエンスコミュニケーションの広がり.8+197頁.岩波書店.[y1800+] [OcL]