海印寺は慶州と全州のほぼ中間に位置するカヤ山国立公園のなかにあり、世界文化遺産に指定されている八万大蔵経があるお寺です。ここは山深いところのため、あまたの戦火から被害を受けずに済みました。山門までは大型バスで行けますが、本堂までは、そこから約30分登らなければなりませんでした。
慶州の駅近くの通りに並んでる露店を散策しました。農家の女の人が自分の畑で収穫した果物を売っています。梨・りんご・ぶどう・柿など新鮮で美味しそうでした。雑穀もありました。同行の方からぶどうをいただきました。大きさは甲州ぶどうほどですが、濃い紫色、日本では見たことがない品種でした。
仏国寺からホテルへ戻る途中の新羅窯・柳孝雄氏の工房に寄りました。
粘土を轆轤に乗せ、みるみるうちに指先で形作られていきます。乾かしてから写真の登り窯で焼きます。登り窯を見たのは初めてで、珍しかったので写真を撮りました。窯の上から順に並べて火を焚き、後から窯の上にある穴からも薪を入れて、窯の中の温度を均一にするのだそうです。釉は使わず、灰と炎の作品です。
新羅土器は慶州地方で紀元前1世紀頃から、日常生活品のほか、葬祭用や、古墳から発見された騎馬人物などがさかんに作られていました、新羅土器の技術は5世紀に日本へ伝えられ、須恵器と呼ばれる土器となったのです。
1943年生まれの柳孝雄氏は、かつての新羅焼を再現された方として1991年、第1回陶磁器工芸名匠を受賞しました。
そういえば、チャングムの宮廷料理も現在も、韓国の食器はほとんど金属製です。これは豊臣秀吉の朝鮮侵略時、陶工を根こそぎ日本に強制連行したためだったとしたら、罪深いことをしたものですね。
司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」で鹿児島の苗代川焼を受け継ぐ十四代沈寿官氏が、遠い祖先の故郷 青松南原城を訪ねる小説に感動したことを思い出しました。
粘土を轆轤に乗せ、みるみるうちに指先で形作られていきます。乾かしてから写真の登り窯で焼きます。登り窯を見たのは初めてで、珍しかったので写真を撮りました。窯の上から順に並べて火を焚き、後から窯の上にある穴からも薪を入れて、窯の中の温度を均一にするのだそうです。釉は使わず、灰と炎の作品です。
新羅土器は慶州地方で紀元前1世紀頃から、日常生活品のほか、葬祭用や、古墳から発見された騎馬人物などがさかんに作られていました、新羅土器の技術は5世紀に日本へ伝えられ、須恵器と呼ばれる土器となったのです。
1943年生まれの柳孝雄氏は、かつての新羅焼を再現された方として1991年、第1回陶磁器工芸名匠を受賞しました。
そういえば、チャングムの宮廷料理も現在も、韓国の食器はほとんど金属製です。これは豊臣秀吉の朝鮮侵略時、陶工を根こそぎ日本に強制連行したためだったとしたら、罪深いことをしたものですね。
司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」で鹿児島の苗代川焼を受け継ぐ十四代沈寿官氏が、遠い祖先の故郷 青松南原城を訪ねる小説に感動したことを思い出しました。
全州郊外の柳川窯を尋ねました。豊臣秀吉の朝鮮侵略に参加した諸大名が競って陶工を集団連行したため、韓国では途絶えていた高麗青磁を自然の釉薬を使って復元した功労により、ちかぢか人間国宝に指定される方でした。なお、金沢の県立美術館で柳川窯作品展が行われるそうです。
慶州の昼食で韓国の伝統料理サムゲタンを食べました。小ぶりの鶏のお腹を開いてもち米・朝鮮人参・松の実・栗など詰めて煮込んだ料理です。薄味ですが口当たりよく、身体に優しい感じで、いっぺんに元気になりました。
今回の旅は、カルビ・チヂミ・石焼ビビンバなど私の好きな韓国料理が毎回で、大満足の旅でしたが、毎回白菜キムチ・大根キムチ・ナムルなど6種以上の小皿がお変わり自由で、最後は好きなキムチも食傷気味になりました。
最後の晩の宮廷料理は、チャングムの世界そのもの、見た目も美しい料理でしたが、残念なことにカメラの電源が切れて撮影できませんでした。
今回の旅は、カルビ・チヂミ・石焼ビビンバなど私の好きな韓国料理が毎回で、大満足の旅でしたが、毎回白菜キムチ・大根キムチ・ナムルなど6種以上の小皿がお変わり自由で、最後は好きなキムチも食傷気味になりました。
最後の晩の宮廷料理は、チャングムの世界そのもの、見た目も美しい料理でしたが、残念なことにカメラの電源が切れて撮影できませんでした。
慶州は、街の中に沢山の古墳がありますが、1973年に天馬塚が発見された後、ここの大小20個の古墳を保存して、公園として整備されました。
天馬塚とは、天馬の絵を描いた馬具が副葬品の一つとして発見されたためです。ここだけは塚の中に入ることができます。慶州の古墳は、木棺を納めた木枠の周りに石が積み上げてあり、盗掘できない構造です。そのため保存状態の良い、沢山の副葬品を発見することができました。
写真は王とお后の比翼の古墳です。
天馬塚とは、天馬の絵を描いた馬具が副葬品の一つとして発見されたためです。ここだけは塚の中に入ることができます。慶州の古墳は、木棺を納めた木枠の周りに石が積み上げてあり、盗掘できない構造です。そのため保存状態の良い、沢山の副葬品を発見することができました。
写真は王とお后の比翼の古墳です。
高句麗と百済を滅ぼし統一国家を作り上げた、新羅の30代文武王が674年に建築した離宮跡です。明国の使者の接待などに使われた臨海殿など、池の周りには建物が並んでいたそうですが、いまは復元中です。
最近古文書を手がかりに、発掘調査を行ったところ池周辺で、仏像や仏具、瓦、丸木船、王冠などが発掘され、その一部を国立慶州博物館で見ました。王冠など金色に輝いていて、いま作られたばかりの様でした。
最近古文書を手がかりに、発掘調査を行ったところ池周辺で、仏像や仏具、瓦、丸木船、王冠などが発掘され、その一部を国立慶州博物館で見ました。王冠など金色に輝いていて、いま作られたばかりの様でした。
慶州市内から16kmの吐含山(トハムサン)の中腹にある仏国寺は、新羅王朝時代の535年に創建され、200年後の最盛期には現在の10倍の大伽藍でしたが、豊臣秀吉の侵略で、石造部分を残して建物はすべて焼け落ちてしまいました。、その後再建されたのが現在の伽藍です。かつては石段の下まで池だったそうで、昔の景観がなくなったとガイドさんは嘆いていました。
伽藍の正面には東側は紫雲門、西側は安養門があり、それぞれに石橋がかかっていて、とくに、紫雲門にかかっている青雲橋(下側)、白雲橋(上側)は国宝に指定さています。石橋は俗世界から仏の世界へ上がっていく階段を表しているそうす。
伽藍の正面には東側は紫雲門、西側は安養門があり、それぞれに石橋がかかっていて、とくに、紫雲門にかかっている青雲橋(下側)、白雲橋(上側)は国宝に指定さています。石橋は俗世界から仏の世界へ上がっていく階段を表しているそうす。
チャガルチ市場は、岸壁に沿ってならんでいる露店と建物内に活魚を扱う店がある魚市場です。チャガルチ市場は仕入れに来た人や一般の買い物客で、混雑していました。
水槽で泳いでいる魚を買って、2階の食堂で調理してもらい、食べることができるそうです。刺身だけなら1階の魚屋のテーブルで食べることもできます。
水槽で泳いでいる魚を買って、2階の食堂で調理してもらい、食べることができるそうです。刺身だけなら1階の魚屋のテーブルで食べることもできます。
竜頭山公園の中にある銅像の李峻臣は、豊臣秀吉の朝鮮侵略時に水軍を指揮して、日本軍を破り、日本の侵略から国を守った英雄として尊敬されている人です。その銅像は全国各地に建っていますが、釜山のもその一つで日本を睨んで立っています。