波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

アンコウ

2018-11-16 20:01:45 | 超短編





 ブルドックが、魚屋の前で怯えていた。
 飼主が、店先にぶら下がっている、一匹のアンコウを買うというので、ブルドックは動転していた。
 アンコウの怖い顔が、ブルドックに似ているとは考えなかったが、どこか共通したものがあるとは思っていた。だからアンコウが、主人の目に留まって料理されるということは、自分もいつか同じ運命に合うのではないかと、不安になったのである。
 それでブルドックは店の中には入らず、路上に四足を貼り付けて震えていたのである。

二十分ほどして主人は魚屋から出てきた。手には魚屋に捌いてもらったアンコウが、レジ袋に入れて握られている。どっしりして重そうである。匂いも濃厚に漂ってくる。
「ブルタン、今日はお前にたっぷりご馳走してやるからな」
主人は路上に張り付いているブルドックに、レジ袋を掲げてそう言った。それから、杭に留めておいたロープを手にとって、犬を引っ張った。しかしブルドックは路上に張り付いて
びくともしない。
「あれ、どうしたんだ、おまえは? さっきまであいそうよくしていたのに、急に尻尾を脚に挟んだりして!」
 犬と飼主が揉めているので、奥から魚屋が出てきた。この魚屋こそアンコウを捌いた張本人だ。こんなものの側にいたら、何をされるか判ったものではない。
「ブルちゃんどうしたの」
 優しく声までかけて来た。
「明日こいつの競技大会がありましてね。それで少々ご馳走してやろうと思いまして。さ、ブルタン行くよ」
「それじゃあ、頑張ってもらわないといけませんな」
 魚屋そこまでは力んで言い、
 後は「ブルタンねえ、そのほうがしっくりしている。ブルちゃんでは優しすぎたな」
 などと独りごちながら、奥へ引っ込んでいった。

 さて魚屋を離れたブルドックと飼主の動向は、どうなったのだろうか。アンコウを解体した魚屋の危機から離れてみると、主人の携行する、アンコウの肉そのものが、臭ってきてならなかった。アンコウは今や、主人の背のナップザックに納られて、臭を発散していた。ブルタンには、その見えない光がよく見えた。
 ブルドックがあまりにも強く前進を拒むようになったため、主人はロープを引く手が疲れてしまった。それで輪になった取っ手の部分を広げて、首にかけた。こうすると、ロープに繋いだ犬の首と、人間の首の、首対首の戦いとなる。こうなるともう、ブルタンなどと、敬称呼ばわりはできない。ブル、で十分だ。ロープは目下、対角線となって、地面につかずに、まっすぐ一本に伸びていた。そうやって「ブル、ブル、ブル」と悲鳴とも喘ぎともつかない、掛け声を発して、飼主とブルドックが通るのである。まだ自宅までの距離の三分の二を過ぎたところだった。
 すぐ横を、老舗の手作り饅頭〈ヤナセ〉が過ぎている。大きな看板文字がぎらついて目に飛び込んできた。
アンコがいっぱい。老舗の手作り饅頭。アンコ作り。七十年。
書かれた看板文字の中から、主人はアンコあんこアンコと呟いてみる。すると舌鼓をうつように、その言葉が連なってきた。オレにいま欠乏しているのは、甘さだな。そうとう疲れているんだ。
 彼は首のロープを外し、取っ手を地面に放り出して饅頭屋に入っていった。犬も気を緩めてついてくる。
 まったくのアンコウ違いだった。その閃きは、饅頭屋を出てから起こった。あのアンコウが、ブルタンを痛めつけることになるとはなあ。彼はそう呟きながら、まだ閃きの真髄には届いていなかった。彼は店の前を外れたところで、一個を取り出して犬に与えた。
「うまいか」
 と彼は声をかけてみる。
「ニャン」
 とブルドックは、犬らしくない声を出した。この時主人をうつように、閃きが下ったのである。明日に迫っている犬の競技のことだ。競技は犬に荷車をつけて、50メートル走らせるという内容だ。荷車は空。空車ほど軽いものはない。そこに荷物を積込む物好きはいないだろう。反則などあるはずはない。
下った閃きとは、荷車にアンコウの肉を、少し積んで走らせるというものだった。
 いよいよ試合当日、その時がやってきた。犬種、体重ともに制限は無し。
 結果は必勝を期した通り、ブルタンが優勝した。やや不格好な走りではあったが、断然トップの一位だった。それがスマートに値しないはずはない。飼主に、賞状と賞金が与えられた。ブルタンには帰ってから、三個のアンコいっぱいの饅頭が与えられた。
「うまいか」
 と主人が訊いた。
「ニャン」
 とブルタンが鳴いた。いや、吠えた。
「オイチイカイ」
 と主人の妻が訊いた。
「ワン」
 とブルタンは吠えた。しばらくして、もう一つ、
「ワン」
 と吠えた。貰った饅頭が三個だったと、気がついたのである。

おわり

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