波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

ニーナ

2012-06-15 19:38:58 | 掌編小説


 圭子が家を出て行って、二箇月もした頃、夫の良輔は彼女の愛猫、ニーナを捨てた。家から五キロ枯野に入った寂しいところに。

―おまえが悪いんじゃない。おまえは、圭子と俺が結婚する前から、彼女と一緒に住んでいた。おまえには、圭子がしみついているんだ。だから傍にいてもらっては困るんだ―

 良輔の心が分かったのか、ニーナは薄紅の口を開いて、ニヤーと甘ったるい声で鳴いた。
 ニーナを置くと、車を飛ばして帰ってきた。

 野山が夏の緑に燃え上がった。
 出て行って半年経っても、圭子は何も言ってこなかった。冷戦状態が続いた後の家出だったから、良輔は捜索願も出さなかった。
 そのうち何か言ってくるさ、と楽観していたわけでもない。しかし六箇月の空白は長い。
 もしかしてニーナを捨てたことがよくなかったのだろうか。妻の愛猫なら、なおのこと置いておくべきだったのか。
 そんな自分のつれないところが、彼女の家出に繋がったのかもしれない。

 良輔は車に七輪と炭とサンマ五本を積み込み、ニーナを捨てた場所へと向かった。
 クラクションを鳴らし、七輪に炭を熾して、その上にまずサンマ三本を載せる。厚紙で扇いでいると、魚の脂が弾けて、煙と共に匂いが立ち昇る。
 十分も経った頃、夏草の茂みが動いて、生きものの気配がした。それも数箇所で。不自然な揺れ方は、風によるものではない。狐か、狸か、山犬か。
 これほど獣に囲まれているとすれば、とてもニーナなど生存できないのではないか。しかし猫族は、他の動物の餌食になる生きものではない。本来は肉食獣だ。そこに心を強くして、動静を窺う。
 草の動きは少しずつ、こちらへ距離を詰めてきている。草の細い茎の間から、サンマをすでに目に留めているのだろう。
 良輔はふと、ニーナを呼んでみる。

 ―ニーナ、ニーナ、ニーナ―

 しかしあろうことか、「圭子、圭子」と妻の名をまじえて呼んでしまった。錯乱もいいところだ。
 すると、どうだ。後方の草原がざわめいた。振り返ると猫だ! 毛並みはささくれて、荒々しくなっているが、顔はまさしくニーナだ。こいつ、自分の名を圭子と思っているな。いや、そうではなく、圭子がいると錯覚したのだ。
 ニーナはやや臆するところを見せつつも、圭子の名とサンマの匂いにおびき寄せられて、他の動物を尻目に進み出てくる。
 毛は逆立って、おどろおどろしいが、目方は明らかに減っている。いかに粗食に甘んじてきたかが見て取れる。
 サンマを草原においてやる。ニーナは熱さに口をかばいながらサンマにかぶりつく。良輔はそうはさせじと、サンマの尻尾を持って車内に誘い込み、ドアを閉める。 次に七輪の炭火を地面に落とし、水筒の水をかける。

 ニーナを連れ帰って五日ほどして、圭子が電話をしてきた。用件は、ニーナを連れて行きたいとのこと。
「ニーナを連れて行かなくたって、君が戻って来ればいいじゃないか」
 良輔は何故か心が据わって、そう言った。不自然なほど沈黙がつづく。ニーナが彼の足に身体を摺り寄せてくる。
 長い沈黙の後、圭子はひとつ息をのんで、それから静かにか細い声で、
「悪かったわ」
 と言った。
「迎えに行くけど、今どこにいる?」
「飛鳥駅よ」
「何だ近いじゃないか。すぐ行くからね」
 飛鳥駅は最寄りの駅である。
 良輔はニーナを抱えて車に向かおうとしたが、ニーナを連れて行きたいという圭子の意向にそってはならないと、猫には家に残って貰うことにした。
「お前の女王様を連れてくるからな。おとなしく待ってろよ」
 ニーナを床に戻すと、頭を一つ撫でてやり、駅に向かって彼は車を飛ばして行った。
                                  了


















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