労基署がやってくるからって従業員の前で騒ぐのはいけません。

2015年01月31日 | 日記
労基署がやってくる!

経営者や管理監督の地位にある者なら誰しも多かれ少なかれ動揺するだろう。

内心、誰がたれこんだ?と思うだろう。

だが、雇用する労働者を前にして、誰が駈け込んだんだ?○○か?それとも△△か?と大騒ぎをしたら、従業員はどう思うだろうか。

しかも、結局は定期監督だった…とかいうオチだったら。

慌てる気持ちはわかるが、こういう経営者や管理者はおそらく他のことも同じであろう。

客からの苦情に対しても、まず我が身の保身。

不祥事に対しても、まず我が身の保身。

その姿を従業員がどのような思いで見ているのかなど想像もしないのだろう。

従業員を自在に動かせる駒のように思っているが

その駒が思うように動かないと、自分の腕や能力が問題とは考えず

不良品をつかまされたと真面目に思うのだろう。

自分のところにはろくな人材がまわってこない

自分以外にまともな人間がいない

本気でそう思っているのかもしれない。

そして駒である従業員が駒らしからぬことをするとびっくり仰天、腰を抜かす。

人間ですから、想定外のこともしますよ。

信じられないかもしれないけど。

心ない言葉や行為で深く傷ついていることもありますよ。

信じられないかもしれないけど。

だって、人材という事業に必要な材料とはいえ、人間ですから。

一応耳もついていれば、目もついているので。

口もありますから。

忘れていたら思い出して下さいね。
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命への欲望が引き起こしたSTAP細胞騒動

2015年01月30日 | 日記
 STAP細胞騒動を問うと題して、『生命科学の欲望と倫理』の著者で、長年生命倫理の研究と政策議論に関わってきた島(ぬでしま)次郎さんが新聞紙上でこの問題の本質を分析しています。

島さんがSTAP細胞研究の騒動を見ていて感じたのは、社会に対して再生医療に役立つといった点が強調され過ぎていないかということでした。

再生医療に役立つというのは医療技術の開発であって、生命科学の本筋ではない。STAP細胞の件でいえば、「なぜ細胞が初期化されたのか」につながるという点が科学の本筋。再生医療の新しいスターが登場したとの期待が過熱し、その科学の本筋が見失われたことが、今回の騒動の一番の基だった、というのがぬで島さんの考えです。

iPS細胞研究にもいえることだと思います。

私は今gaccoの「よくわかる!iPS細胞」という講義ををWEB上で受けていますが、中心となっているのは、どのように再生医療に役立てることができるか、ということです。iPS細胞研究所の最重要課題であり、様々な病気に苦しむ人が多く、最も関心のあるところだと思います。
私は科学オンチですし、勉強そのものが苦手なので、長い間どうして細胞が単純に分裂して同じものが増えるだけではなく、まったく別の細胞を作り出すことができるのか謎でした。今も謎です。DNAとかはいくら本を読んでもちゃんと理解できません。細胞の初期化についても、なぜそうなるのかはわかりません。理解できないんです。

ぬで島さんは、生命科学では「科学する欲望」に対して、長生きしたい、健康でありたいといった命をめぐる欲望が研究に強い影響を与え、その本質を歪めかねないと警告しています。

出生前診断などにもいえることだと思います。

「科学する欲望」とは、生命や物質、世界の仕組みを解明したいという欲望で、人間の本質のひとつだとぬで島さんは考えています。

ぬで島さんの記事から10年程前に読んだイギリスの作家アレックス・シアラーの『世界でたったひとりの子』という本を思い出しました。

人類は科学を克服し、200歳くらいの寿命を手に入れます。死ぬ直前まで健康でいられる薬も開発され、病気や介護などの問題からも解放されました。

40歳を過ぎると老化防止薬を飲むことが許されるのです。夢のような近未来です。

ただし、人々が長寿を手に入れた代わりに、この世に生まれてくる人がいなくなってしまったのです。子どもはきわめて稀な存在となり、主人公のタリンは大人たちの家庭に出向き、子どものひと時を提供する仕事に従事させられています。数少ない子どもは、大人にならないよう「永遠のこども」手術を受けさせられたりするのです。

作者のシアラーは主人公タリンを通して痛烈な批判をしています。

人間には割り当てられた命の長さがあり、それ以上はほんのおまけ。

善意の人間たちや独りよがりの慈善家たちは、あれやこれや賞をもらって、ノーベル賞を取ってたいそう得意になっている。

死亡率も減ったが出生率も落ちた。知ったかぶりに自惚れや、善意の連中に対するこっぴどいしっぺ返し。

良かれと思ってしたことが最悪の結果をもたらす。逆に悪意を持ってしたことが偶然にも良い結果に結びついてしまう。あるいは考えていたよりもずっと悪くなってしまう。誰に想像がつくだろうか?

科学の発展により、人間が外から腐っていくことは食い止められるが、内からの腐敗は直せない。

生きるのには飽きたが、死ぬのは怖い、に効く薬はない。

この物語では、永遠のような時間のなかで多くの人がガラスのような虚ろな目をして、死ぬまでの時間を空費している。

病気や老化から解放された人々が、ろう人形のように虚ろに過ごしている世界。

科学が目指すのはこんな世界なのだろうか。
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看護師が起業なんて例がない!という時代があったんですね

2015年01月29日 | 日記
 訪問看護は今では知らない人がいないくらい知名度の高い事業ですが、約30年前にある方が始めたときは、登記所で「看護婦が起業なんて例がない」と追い返されたそうです。

医療関係者からは、看護を売り物にするなんて、という非難もあったそうです。

今は昔ですね。

1年ほど前の新聞の切り抜きを整理していたら、在宅看護研究センター代表の看護師・鈴木紀子さんの記事が出てきました。


訪問介護と訪問看護の違いってみなさんわかりますか?

私はよくわからないですね。「訪問」に限らず、高齢者介護の現場では、看護と介護が曖昧なんですね。私もなんとなくならわかるんですよ、看護師は医療行為をする人で、介護士は介護をする人って。つまり、わかっていないってことですよね!だって、研修を受けた介護士も条件付きで医療行為ができますし、バイタルチェックなら介護士はよくやってるし、看護師がおむつ交換をすることだってあるもん!

鈴木さんに説明してもらいましょう。

もともと、病院では看護師が「医師の診療補助」と「患者の療養生活の世話」の両方を行っていたところ、介護保険制度が始まり看護師業務の一部をホームヘルパーが行う訪問介護サービスが誕生したのです。

訪問時の在宅ケアで実施できる行為の違いは、医療的な処置かどうかということです。(何が医療的処置かってのはよく議論されていますが…)

訪問看護が制度化され、保険適用となったのは92年です。今や訪問看護ステーションは全国に7000以上あり、看護師による起業もスムーズになったとか。

ところで、訪問看護は医療保険にも介護保険にもありますが、両方使える場合どっちを使うのかわかりますか?

私はよくわかっていません。介護保険を優先すると覚えたような…医療保険適用の場合はこまかいきまりがあったような…以前訪問看護師である姉に尋ねたところ、面倒くさそうに教えてくれましたが、よくわかりませんでした。

どちらにせよ、看護師が医療行為を行う場合は「医師の指示のもと」という保健師助産師看護師法に抵触しないよう患者の主治医から「訪問看護の依頼書」を受けないといけないようです。

私は小学生のころ看護婦さんに憧れていました。その当時の人気アニメ『キャンディ・キャンディ』の主人公であるキャンディが看護婦でしたから。そりゃもう私もなりたい!ですよ。

姉が「ナイチンゲールの伝記を読んだら看護婦になれる」と言うので、さっそく友達に本を借りて読み、感動してすっかり看護婦気分になっていたところ、姉から「あんたバカじゃないが?看護婦になるときは看護学校行って、国家試験受けんなんがやよ」と冷ややかに言われ、愕然としたものです。ショックでした。

実は私は看護師という職業をたいしたことないとひそかに思っていたのです。

なぜかっていうと、ド田舎にあった我が家では、医者は行くものではなく、来るものだったのです。高橋さんというおじいさんのお医者さんがよく往診に来てくれていたのですが、看護婦さんが必ず同行していて、お医者さんに器具などを渡す簡単な仕事をしていました。これなら私にもできるな…そう思っていたのです。看護婦さんごめんなさい…

高橋さんは村の人から「たかはっさん」と呼ばれていました。父はよく「たかはっさんは軍医あがりやし乱暴やのぅ」と言っていました。私は適当なお医者さんで、ゲボがでそうな持ち悪い薬をくれる人と思っていました。喉の奥を診る器具を忘れてきて、「ばあちゃん、箸持ってきて、はーし!」と言って、箸で喉の奥を診てもらったこともありました。そして、必ずオレンジ色の甘ったるい液体の薬を処方するのですが、この薬には本当に辟易しました。気持ち悪いところにこの薬を飲むと余計に気持ちが悪くなって、吐いてしまうのです。結局は吐いてすっきりするので効果があったということか…

訪問看護ついでに久しぶりに「たかはっさん」を思い出しました。

看護師は天使もいれば悪魔や鬼もいますが、人間ですからどちらに転んでも不思議はないです。

どうか天使に当たりますように!

自分次第かも…
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プロレスから学ぶ最強の介護職のあり方

2015年01月28日 | 日記
最強の介護職、最幸の介護術』

副題は、”燃える闘魂”介護士が教える大介護時代のケアのあり方です。

介護士が書いた「介護ってサイッコ~」なんて本なら掃いて捨てるほどある、と言いたいところだけどほとんどないのが現状。

そんななか「最幸」の介護術なんてきれいごとを言ってるのはどこのどいつだ?と興味を持ち読んでみました。

この本のユニークなところは、プロレスを引き合いに出して介護職について説明しているところです。

著者の山口晃弘さんは、身体障がい者施設や老人ホームでの勤務を経て、現在グループホームの管理者をしています。介護福祉士・介護支援専門員の資格をお持ちです。

身長180センチ、体重90キロ、特技はスクワットで今までの最高はジャンピングスクワット100回6セットだそうです。尊敬する人物はアントニオ猪木と長州力。座右の銘は「正義なき力は無能なり、力なき正義も無能なり」(大山倍達・おおやまますたつ)(武道家・空手家だそうです。マンガ『空手バカ一代』のモデルらしいですよ…)と「時には泥を被るのも男」(アントニオ猪木の言葉だそうです…)

              ………

こんな山口さんですから介護の話に突如プロレスが登場してきます。

高齢者のリハビリの重要性は…

プロレスの神様と言われたカール・ゴッチの「若いうちはトレーニングをする。だが、歳を取ったらしなければならない」で説明。

お年寄りから、悔いのないように生きるよう声をかけられると

そういえば、長州力も「人生なんてまばたきしてる間に終わるぞ」と言ってたなあ、と43年の人生を振り返ってみたり。

言葉は人を動かす不思議な力を持っている、ということを説明するため

いじめられっ子だったときに、アントニオ猪木が一番苦しい時代に書きあげた『苦しみの中から立ち上がれ』という本を読んで奮い立ったことや、長州力をスターダムにのし上げた「俺はおまえの噛ませ犬じゃない!」という言葉が、年功序列の体制に不満を持ちながら働くサラリーマンたちに大きな勇気を与えたことなどを持ち出しています。

人は魂を揺さぶられるような言葉にモチベーションを持つことができる。

だから、国語が大事なのだと。(他にも歴史、美術、体育を挙げています)

専門技術だ、専門知識だと口を開けばそんなことばっかりを唱えている介護職や経営者が多いなか、こういう人は少数派です。

山口さんは熱狂的な猪木信者です。

ただのプロレスバカか…

と思われそうですが、そうでもないんですよ。

っていうか、プロレスバカに介護バカが加わった人なんです。

介護には人気商売の面もあると山口さんは言います。同感です。

人気のある指名の多いヘルパーさんはいるし、特養でも人気のある介護職、人気のない介護職というのは傍目にもわかるそうです。

給与に差がないのはおかしいですね。

世の中は正義が勝つのではなく、力のある者が勝つ。いくら正義だ、倫理だと振りかざしても、力がなければ何もできない。力のあるものが正義の心、倫理観をもっていなければならない。

ここでいう力とは腕力のことではない。力とは知識であり、技術であり、経験であり、人を納得させるだけのものを指している。

介護とは介入して護ること。

これが山口さんのいう、最強の介護職のエッセンスかも。

介護職にとってヒントになる素晴らしい事例がいっぱい載っているので、経営者の方も雇用されている介護職の方も読んでみたらいいと思います。
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努力は才能なのか?

2015年01月27日 | 日記
努力は才能か?と聞かれたら、私はあまり深く考えずに「そうだ」と答える。

なぜかっていうと、生まれつき頭がいいとか、才能に恵まれているとか、素のままで姿容姿が麗しいとかは素晴らしくてカッコイイことだけど、パッとしない頭だけど努力して試験に受かったとか、才能はないがいっしょうけんめい努力して地位を手に入れたとか、日々の手入れと丁寧な化粧で美しさを保持しているとかはダサいと評価されているように感じ、「努力」を「元々の才能にはかなわない」と思っている人がいて、そういう人に対して「そんなことないよ、努力だって才能のうちだよ」と励ますことがあるからだ。

そういうふうに使うぶんには「努力は才能」と言っていいと思う。

だが、精神科医の斎藤環が『週刊金曜日』1/16日号で、若者に広がる新しい宿命観として疑問視している「努力も才能のうち」はそういうのではないらしい。

斎藤氏は「努力というのは才能の不足を補うもの」と考えており、50代以上の人であれば、おそらく多くの人が同じ考えではないかと言っていますが、40代の私も同じような考えです。

でも今の若い人たちは「努力」そのものが「才能」なので、才能のない人間は努力もできないと考えているらしいのです。

例えばいい大学に入れなかった人は、努力が足りなかったのではなく、努力できる量が才能なので、それがないのだから仕方がないということです。

なんかずいぶん身勝手で無責任な考え方に思えるが…

欠点を直さないのも、他人に親切にしないのも、朝起きられないのも、試験の点数が悪いのも、顔が汚いのも、食い過ぎでデブっても、それはすべて努力という名の才能がないからなのか?才能がないから努力はしなくてもいいのか?

宿命観って…そんなたいそうなもんなのか?

「努力」という言葉がいいように利用されて今じゃ手垢が付いたダサいものの象徴なのはわかるが、だからってそれに乗っかって、努力を才能のせいにして放棄して、もしも生まれつきのバカは処刑するとか言われたら、仕方ないねってあきらめるんですか?

雑誌の特集はもっと複雑な若者の内面について議論されていて、「努力は才能」といっても、微妙な温度差や葛藤もあるのだけど、根強いあきらめ観が若者のあいだに浸透していることは確かです。

天才とは1%のひらめきと99%の努力である

発明王エジソンの言葉として有名であるが、世間一般に知られている意味は実は逆らしいですね。

1%のひらめきがあれば、99%の無駄な努力をしなくてもいい、というのが本当の意味だそうですが、努力を強調する言葉に書き換えられてしまったようです。

でも私は同じことだと思うのです。

エジソンは恐ろしく努力をした人なので、そう思ったのでしょうが、たとえ最初にひらめいたとしても、やはりすごく努力をしたと思います。

エジソンほどの人物でも何百回・何千回と失敗を繰り返すなかで、もうやめたいと思ったことがあるのではないでしょうか。でもエジソンはあきらめなかった。

さて、努力=才能でしょうか?

努力とは?才能とは?

結果の出ない努力は無駄なのか?才能のない人間は努力しても無駄なのか?

才能がないと努力はできないので、才能がない人間はそもそも価値がないのか?

ぐるぐるぐるぐる…
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