足るを知るの真意はいかに

2014年04月10日 | 日記
先日届いた『シルバー産業新聞4月号』の連載コーナーに
看護師・ケアマネジャーの佐藤文恵さんの「足ることを知る」についてのコラムがのっていた。
島田裕巳の『プア充』を読んで、複雑な気分になっていたところだったので、さっそく読んでみた。仕事も、パートナーも、子供も育児も、資格もスキルも役職も処遇も、一生懸命求める人が多く、努力や向上心は尊いと思うが、絶対手に入るわけではなく、予定通りに進まないことで、パートナーと不仲になったり、精神に不調をきたしたりする人がいる、ということだ。
佐藤さんはこれらを「もっともっと志向」と言っている。この「もっともっと志向」をどうしたらおさめることができるのかと考えていたときに、学生時代の恩師の言葉「足ることを知る」を思い出したそうだ。
ところで、この言葉は老子(中国の思想家、春秋戦国時代の人です、そーとー昔の人です。っていうか、よく知りません)の教えらしく、みなさんご存知のように、身の程をわきまえて、むやみに不満をもたない、という意味です。これって、自分自身の戒めとする言葉であって、人に押し付けるものではないですね。あくまでも自分に対して使うべき言葉だと思います。親が子に対して言うぶんには、いいのかもしれませんが、やはりこれだって、自分を棚上げにして、子供に教え込もうとすれば、子どもはインチキをかぎつけると思います。上に立つものが、下のものに言うと、本能が退化していなければ、アラームが鳴るはずです。おそらく、この言葉は、本当はもっと深い意味があると思うのです。どこで都合よく、すり替えられたか知りませんが、なんか人を支配するのに都合のいい言葉に思えます。
それはさておき、わが身を振り返れば、たしかに「もっともっと病」にかかりやすい性質かもしれません。思い通りにいかないがゆえの、無力感・焦燥感・誰かのせい感(誰かはだいたいだんなである)に苛まれることが多い。私自身は貧乏でプア充などとしゃれこんでいる場合ではないが、今のところサポートしてくれる配偶者がいるので、絶対的貧困ではない。全然だんなに感謝してなかった。足ることを知りなさい!はい。 
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「選ばれる」の正体

2014年04月08日 | 日記
選ばれるお店、選ばれる会社、選ばれる商品、選ばれる施設…
世の中選ばれるものだらけである。
逆に言えば、世の中選ぶものだらけということだ。
大変結構なことのようだが、意外と選べるものが少なかったりする。
そもそも「選ぶ」とはどういうことなのだろうか?
辞書には、多くの中から取り出す、とある。2番目の意味として、
違う、異なるとあるが、私はこの意味があることを知らなかった。
選択は、よいと思うものを選ぶこと、とある。
どちらも、選ばれる○○をちゃんとあらわしてる。
だが、私自身、これまでの人生で何かを選んできたかと
問われたなら、ほとんど選んでいない。だいたいが流されていた。
選ぶという主体的なことが苦手だったのかもしれない。
選んでくださいと言われても、どれがいいのかわからないと
いうことも多かった。
先日購入したパソコンも、出せる予算と仕事に使うことを
店員さんに伝え、それならこれどうですか、と勧められた商品である。
ピアノのレッスンを受けていたときは、大人向けだったので
テキストは特になく、自分で選ぶことができた。
私は困惑し、先生の勧めるものを使用していた。
好きな曲をやっていいのよ、と言われたが、「好きな曲」は
楽譜を見てもわからず、順番に練習していた。
私だけが選び下手とは言えないはずですよ!(決めつけ)
選べない理由のひとつに、選択肢が少ないというのもあるが、
(これが最大で唯一の理由と思っている人も多いようですが)
私は、選び方がわからないという理由が大きいと思っています。
また、自分では選んでいるつもりでも、やはり流れにのっているだけ、
ということもあるかと思います。(私がそうです)
ということは(早くも結論に向かいます)
選んでもらうには、冷静に分析して考えてもらうよりは
熱に浮かれて選んでもらったほうがよい、ということになりませんか!
なぜって、これまで選挙なんかでは、あれかこれかの二分法で危機感を
煽ったほうが大勝してましたから。巷の商品にしても
宣伝してるのとしてないのとじゃしてる商品のほうが売れてますし。
売る方法としては、煽るやりかたがスタンダードなのでしょう。
なので、ものはいっぱいあっても、選ぶのは難しいかもしれません。
私は仕事や配偶者といった、人生において、やや重要とされることにおいても
選んだという実感が乏しい…
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一番不幸で一番幸福なのが人間ということか…

2014年04月01日 | 日記
 サルが食いかけでエサを捨てる理由(わけ)』

このタイトルから、サルにも人間界の飽食がひろがったのか…
と思い込み、社会学の本と勘違いして読み始めたら違ってました。
獣医師が書いた、地球上の生き物についての話でした。
サルはもともと、こういう行儀の悪いエサの食べ方をするそうなんです。
どの季節にどこにどんな木の実があるかをちゃんと知っいて、移動しながらそれらを食べるんですが、もいではひとかじりしただけで捨てちゃうらしいです。
うちの4歳の娘がこんなことしたら怒髪天を衝く勢いで怒りますよ。食べ物への執着心が強いですから、私は。娘がひとかじりして捨てた食物はほとんど無駄になりますから、もったいないじゃないですか!!
でもサルの場合、この行為によって、木に登れない動物(野ブタや昆虫、飛べない鳥などいろんな動物)が木の下でサルの食い残しにありつき、それぞれの棲家に散ってフンをして、植物の種が拡がるというふうに、ちゃ~んと自然界の仕組みとして成り立つのです。
ところで
なんで地球上にはこんなにもたくさんの生き物がいるのかっていったら
必要だから、だそうです。いても無駄な命はない、そうです。
なるほど。
死んで植物のこやしになるものもいれば、捕食者のエサになるものもいる。
みんななんらかの仕事を持っている。
人間を含む生き物の世界は、全部がつながっている。
要するに機械の歯車といっしょ。一個欠けてもだめ。なんとか動く場合もあるけど、基本的には歯車がいくつもなくなったら、仕掛けは動かなくなる。

やっぱり生物学の本だ…
私は機械の歯車なんかじゃない!一人の人間なんだ~~!
というスタンスではまったくない…
生き物の世界では人間の個人主義みたいなのは、クソ食らえだそうです…
これ、著者の言葉そのまんまですよ!お下品ですね~ 
重要なのは、種として生き延びることであって、この点は人間も同じである!
よって、自分探しの旅なんぞしている場合ではなく、みんなで力を合わせて人類絶滅の危機を乗り越えなきゃいけないのに、この期に及んでまだ「でもぉ」だの「ぼくがぁ」だの言っているのが人間ってやつだそうで、著者は昨今の若者に対し、相当じれったい思いを抱いている様子。

著者は人間が生物界の王者だとは思っていないみたいです。
人間とその他の動物の違いは、それこそ社会学ではよく言われることです。
どの動物が一番幸福か、っていったら、おそらく多くの人が人間って思ってるんじゃないですかね。だって、いくら自分の境遇が気にいらないからって、ゴキブリのほうがまだマシだよ~なんて思わないだろうからね。ライオンとか虎がそれほどいいもんじゃないってのも、なんとなく人間界の様子から多くの人が察してるだろうし。
「あんま変わんないじゃね?」っていうのが著者の意見です。
一方向からみると、動物によって幸・不幸があるようだけど、多方向からみたら五分五分、みんな平等じゃない?って。しいて言えば、この世に幸福なんてない。あるとすれば、次々と押し寄せる不幸を乗り越えた瞬間、それが幸福なんじゃないかと。
としたら、不幸を前にボケーっとしている動物は人間以外にいないし、不幸を乗り越えず、その努力もしない人間がいたら、それが最も不幸な動物ということになるわけですね!
そして、様々な困難が一番多いのはやはり人間なので、その困難をその都度乗り越える勇気と覚悟があるならば(ここがみそです!)乗り越える困難がもっとも多く押し寄せる人間が、一番幸福なのではないか、ということです!
ふーっ、ここに落ち着きました。
社会学の本かと思いきや生物学で、そうかと思ったら哲学や宗教学みたいじゃないか。
私は時々生物に関する本を読むんですが、人間が書いているだけに、おもしろいものが多いです。
自分と全く異なる境遇の生き物って、おもしろいです。
子どもとかも。悪いけど、人間とは思えません…だんなも、娘を見て真顔で言いますよ。
サルの子どもみたいや、って。
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