子どもは社会維持のために必要なのか?

2015年01月02日 | 日記

早朝に降り始めた雪は、9時過ぎにはかなりの積雪になっていた。

行かなければならないところもなく、除雪の必要もない私は万全の寒さ対策をして5歳の娘と雪遊びを始めた。

雪だるまを3個作り、ミニ滑り台を作ったらかまくらの雪がなくなってしまった。雪合戦でもしよう、となるが雪玉をうまく作れない娘のために何個も作ってやり、至近距離からその雪玉をぶつけられ、ムカつきながらも楽しいひとときを過ごした。

除雪車が午後にならないと来ないため、近所の人たちは車を車道まで出すのに一苦労していた。スノウダンプで雪かきに追われていて元旦そうそう気の毒だった。私たち親子は道を何往復もする人たちを尻目に、ヤッホー、イエーイと歓声をあげて遊んでいた。

去年までは生活を阻害するものとしてその存在を憎んでいた雪である。今年だってもしも積雪の朝に行かなければならないところがあったら、除雪に追われ、午後遅くまでやってこない除雪車に対し呪いの言葉を吐き、暖冬や建築会社、地方政治の在り方、税金の使い道など、関係ありそうなありとあらゆるものをこき下ろしていたことと思う。

雪が降っても除雪の必要がない。ただそれだけの理由で雪が恰好の遊び道具となったのである。

久しぶりに雪だるまを作り、ミニ滑り台でそりを滑り、雪遊びの楽しさを思い出した。手や足が冷たくなってしもやけになってでも雪遊びをしたがる子どもの気持ちがよくわかる。自分もそうだったし…誰かと何かをいっしょに作ることがこんなにも楽しいなんて。久しぶりの感覚かもしれない。

子どものころに戻ることはできないし、大人には子どもが理解できない様々な事情がある。雪を楽しいものと捉えるには、障壁が多すぎる。除雪もせずに雪遊びを楽しんでいられるのは、それが許される境遇の人だけだろう。それと子ども。

だが、大人の事情は子どもから楽しみを奪う正当な理由になるだろうか。例えば仕事という大義名分があれば子どもの、その年齢にしか経験し得ない生活を奪うことが許されるのだろうか。待機児童が多いならきちんとした認可保育園をつくればいいだけなのに、認可保育園を柔軟に運営すればいいのに、保育制度を根底から変えて、これで待機児童問題はなくなるという考え方は子どもの生活などどうでもよく、企業が女性を低賃金で柔軟に使いこなせるためではないか?そう思いたくもなる。

子どもを預けられないから働けない、だから経済的に立ち行かなくなる。子どもは母親が育てるものとの圧力を受け仕事をあきらめた。キャリアを断念せざるを得なかった。どちらも子どもをお荷物としか考えていない。子どもってお荷物なんだろううか?

お荷物なら産まないほうがいいに決まっている。だからみんな産まなくなった。そしたら人口が減ると大騒ぎして保育環境を整備することにした。お荷物の人口が減るんなら結構なことじゃないか。なぜ大騒ぎする?お荷物に過剰な商品を買ってもらったり、年取って動けなくなったら養ってもらったり、介護を押し付けたりしなきゃいけないからか?お荷物扱いしといて世話を押し付けるなんてムシのいい話だよ。

社会に出て役立つ人間になるための教育、っていうともっともらしく聞こえるが、ずいぶん身勝手な話だと思うな。社会とは?役立つとは?具体的に論じていくと、知能の低いものや障害のあるものは社会の役に立たないから教育の必要がないってことにならないか?

雪遊びから話が発展してしまったが、雪という物質そのものは全く変わりないのに、自分の境遇ひとつで、感じ方・捉え方がここまで変わってしまうのが意外であり、拍子抜けする。

雪は一例に過ぎない。すべてがそうかもしれない。

 

 

 

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