努力は才能なのか?

2015年01月27日 | 日記
努力は才能か?と聞かれたら、私はあまり深く考えずに「そうだ」と答える。

なぜかっていうと、生まれつき頭がいいとか、才能に恵まれているとか、素のままで姿容姿が麗しいとかは素晴らしくてカッコイイことだけど、パッとしない頭だけど努力して試験に受かったとか、才能はないがいっしょうけんめい努力して地位を手に入れたとか、日々の手入れと丁寧な化粧で美しさを保持しているとかはダサいと評価されているように感じ、「努力」を「元々の才能にはかなわない」と思っている人がいて、そういう人に対して「そんなことないよ、努力だって才能のうちだよ」と励ますことがあるからだ。

そういうふうに使うぶんには「努力は才能」と言っていいと思う。

だが、精神科医の斎藤環が『週刊金曜日』1/16日号で、若者に広がる新しい宿命観として疑問視している「努力も才能のうち」はそういうのではないらしい。

斎藤氏は「努力というのは才能の不足を補うもの」と考えており、50代以上の人であれば、おそらく多くの人が同じ考えではないかと言っていますが、40代の私も同じような考えです。

でも今の若い人たちは「努力」そのものが「才能」なので、才能のない人間は努力もできないと考えているらしいのです。

例えばいい大学に入れなかった人は、努力が足りなかったのではなく、努力できる量が才能なので、それがないのだから仕方がないということです。

なんかずいぶん身勝手で無責任な考え方に思えるが…

欠点を直さないのも、他人に親切にしないのも、朝起きられないのも、試験の点数が悪いのも、顔が汚いのも、食い過ぎでデブっても、それはすべて努力という名の才能がないからなのか?才能がないから努力はしなくてもいいのか?

宿命観って…そんなたいそうなもんなのか?

「努力」という言葉がいいように利用されて今じゃ手垢が付いたダサいものの象徴なのはわかるが、だからってそれに乗っかって、努力を才能のせいにして放棄して、もしも生まれつきのバカは処刑するとか言われたら、仕方ないねってあきらめるんですか?

雑誌の特集はもっと複雑な若者の内面について議論されていて、「努力は才能」といっても、微妙な温度差や葛藤もあるのだけど、根強いあきらめ観が若者のあいだに浸透していることは確かです。

天才とは1%のひらめきと99%の努力である

発明王エジソンの言葉として有名であるが、世間一般に知られている意味は実は逆らしいですね。

1%のひらめきがあれば、99%の無駄な努力をしなくてもいい、というのが本当の意味だそうですが、努力を強調する言葉に書き換えられてしまったようです。

でも私は同じことだと思うのです。

エジソンは恐ろしく努力をした人なので、そう思ったのでしょうが、たとえ最初にひらめいたとしても、やはりすごく努力をしたと思います。

エジソンほどの人物でも何百回・何千回と失敗を繰り返すなかで、もうやめたいと思ったことがあるのではないでしょうか。でもエジソンはあきらめなかった。

さて、努力=才能でしょうか?

努力とは?才能とは?

結果の出ない努力は無駄なのか?才能のない人間は努力しても無駄なのか?

才能がないと努力はできないので、才能がない人間はそもそも価値がないのか?

ぐるぐるぐるぐる…
コメント
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