魚食の民と藻食の民
日本人は「魚食の民」と言われる。「さいら」はこの言葉が好きである。確かに、諸外国に比較して「魚介類」の消費はその量と種類、加工品等どの点から見ても多い。多いだけでなく、好きであった。実は「好きであった。」という言い方は正確でない。我が国は四面海に囲われている。そのために魚は豊富であったし、安かったのである。「安いタンパク質」としての意味があった。更に宗教的な歴史的背景も有った。最近はそのキャッチフレーズである「安いタンパク質」から外れるようになり、
欧米諸国と同じ様に「今日はお客さんが来るから、魚にしよう。」の時代に入りつつある。その当たりの記事は又の機会にと思っている。 それと同時に日本人は「藻食の民」でもあった。古来より食生活に藻類は決してメインではないが、食生活を豊かにするために無くてはならないものであった。
放送大学和歌山学習センターの顕微鏡による観察の二回目は藻類等を見ることであった。昔の職業柄、「水産植物」を通じて藻類と色々と付き合いがあったが、例によって、生物学的なことは分からない。それで、この機会に、学習会の意図とは少し方向を変えて「有用藻類」と「有害藻類」について思い出すままに五回程度の短編シリーズとして記事にしてみようと思う。
そして、少し時間をおいて今読んでいる「藻類30億年の自然史」の感想を書いてみようと思う。この本は実学として学んだ「藻類」から想像も出来ないことが述べられていて、面白いのであるが、学問的素人には難しすぎて、遅々として進まない。それで、その感想の前座的意味もある。一言で「藻類」と言うが、その内容は実に多彩である。学生時代、大雑把に「水産植物」として習ったように思う。水産に関係する植物と言うことである。「有用」・「有害」と言う言い方は正に「実学的」発想である。しかし、以降のこともあるので、一応藻類とは何か?定義のようなことを前述の本に従って書いておこう。藻類は「酸素発生型光合成を行う生物から陸上に生息する生物を除いたもの」とされている。どうもこの定義は分かったようでよく分からない。「有理数とは実数から無理数を除いたもの」と言われても分かるような気もするが、その実よく分からない。何となく実に雑他の生物を含んでいることは確かであろう。
藻類(1):有用と有害
淡水産の藻類は湖沼などで春から夏季に異常に発生することがある。「水の花」と言われる。淡水では「赤潮」と言わないで「水の花」と言う。花を植物の代名詞と捉えると、「赤潮」よりも学問的かも知れないが・・・。「さいら」は「水の花」と言う言葉を初めて聞いた時に、ロマンティックに聞こえた。その後遺症が残っていて、松阪慶子が歌っていた「愛の水中花」を何故か連想してしまう。そう言えば「さいら」にとっては「愛」は連想の対象にならないので当然の話かも知れない。
しかし、この「水の花」と言われる状態は湖沼の余りよい状態ではないことは当然である。中には水道水の異臭の原因になる種類もあるので、最近では都会生活者にも関心が集まる。匂いの除去は通常の浄化施設では困難を伴う。明らかに「有害」である。しかし、ある種の藻類を適度な濃度に管理して培養することは養鰻業者の池の「水づくり」の基本として重要なことである。養鰻業者を見習っているのではないが、「さいら」宅のメダカの鉢は何時も緑藻で変色し「水の花」状態である。養鰻業者のこの水づくりはウナギの餌食いがよいとか、水環境が安定すると言う。養鰻業者にとっては「有用」というのであろう。
その様に考えると、「有用」と「有害」は人の勝手な評価で、生物には全く関係のない・責任がないことであり、生物には迷惑そのものかも知れない。「有用」と「有害」の範疇で考えるのは実は人の奢った考えであろう。そう考えると「実学」の世界に疑問を感じるのである。しかし、その評価も社会で認められていると問題は少ないが、時には産業廃棄物などを集積・不法投棄しておいて、非難されると「これは廃棄物ではない。」「私にとっては有用なもので、資源である。」との強弁を聞くことがある。
藻類(2):有用藻類フノリとマクリ
食用ではないが、フノリは着物などのクリーニング用のノリとして利用されてきた。今はもうごく限られたところでしか用いられていないが、「さいら」がちいさい頃はノリのように薄く乾燥した紙状のフノリを溶かして使用した。口にはいることは入るのであるが、そして、若い方はご存じないであろうが、マクリと言う薬があった。これも歴とした藻類である。小さい頃、回虫の駆除に無理矢理飲まされた記憶があるのは「さいら」だけではないだろう。非常に飲みにくいので、確かその時は「サイダー」が口直しで、それがなければ、とても飲めたものではない。その内に、普通の錠剤になって、このマクリは使われなくなった。
寄生虫と言えば、十二指腸にいる吸虫の顕微鏡でのスケッチの時に教官が言うには「このプレパラートは大切に。割らないように。」「戦前なら幾らでも作ることが出来たが、今となっては貴重品である。」そう言えば、随分と食生活とトイレ事情も
今は雲泥の差である。Sakakuraさんのコメントにあって思い出したが、海藻から取れる産物に「アルギン酸ソーダ」がある。これは褐藻類から抽出された。食用以外にも藻類は色々と利用されてきた。人の歴史を感じることがある。
藻類だけでないが、海洋生物はまだまだ未知の分野であり、スクリーニングをすれば、思いも寄らない有用物質が発見されるかも知れない。そう言えばつい最近、胃潰瘍の原因菌となるピロリ菌のプロトタイプが海洋性細菌で発見されたという。
藻類(3):マリモ
有用と言えるかどうか分からないが、阿寒湖のマリモは特に有名で特別天然記念物である。土産物屋で売っているマリモは養殖・人為的に作成されたもので、新婚旅行のお土産に貰うと、その扱いが非常に気になる。マリモだけではないが、食用以外の生き物の土産はその扱いに困る。
綺麗な球になるのは、マリモの本来の特性であろうが、硬い石ころの底で波に揺られて無重力状態でコロコロ・ユラユラと徘徊出来る阿寒湖特有の湖沼のためだろうと思うが、間違っているかも知れない。この話を聞いた時に、「艱難汝玉にする」は「艱難汝毬藻にする」の方が情緒があると思った。
藻類(4):クロレラ
食品として藻類を見るならば、当然その大きさが問題となる。顕微鏡で見ても、殆ど点にしか見えない単細胞藻類、特に「原核藻類」は余りにも小さすぎる。腹の足しにもならない。食としては「塊として」適当な大きさがあることが重要であろう。
例外的な単細胞藻類にクロレラがある。クロレラは食品の範疇にはいるかどうかは別にして、単に「口へはいる」の程度の意味である。クロレラデビュー当時、栄養食品として、これさえ食べれば命は持続できると救世主のように持て囃されたこともある。
しかし残念ながら、そんなに大きなブームにはならなかった。昔のクロレラは、と言うよりも藻類全般に言われることであるが、細胞膜が硬くて(実際のところ細胞壁と言う方が実感がある)消化が悪いと言うよりも殆ど消化されなかった様に記憶している。多分人には分解する酵素がないのであろう。
クロレラは食感を味わったり、調味して食する類のものではないので、幾ら栄養価が高くても、消化されなかったら、意味がない。そのため今では品種改良や加工方法が開発され、消化できるようになったと聞いている。そして、栄養補給補助に利用されている。又、その消化されにくいことを逆手にとって、「ダイエット食品」になっているものもある。
日本人は「魚食の民」と言われる。「さいら」はこの言葉が好きである。確かに、諸外国に比較して「魚介類」の消費はその量と種類、加工品等どの点から見ても多い。多いだけでなく、好きであった。実は「好きであった。」という言い方は正確でない。我が国は四面海に囲われている。そのために魚は豊富であったし、安かったのである。「安いタンパク質」としての意味があった。更に宗教的な歴史的背景も有った。最近はそのキャッチフレーズである「安いタンパク質」から外れるようになり、
欧米諸国と同じ様に「今日はお客さんが来るから、魚にしよう。」の時代に入りつつある。その当たりの記事は又の機会にと思っている。 それと同時に日本人は「藻食の民」でもあった。古来より食生活に藻類は決してメインではないが、食生活を豊かにするために無くてはならないものであった。
放送大学和歌山学習センターの顕微鏡による観察の二回目は藻類等を見ることであった。昔の職業柄、「水産植物」を通じて藻類と色々と付き合いがあったが、例によって、生物学的なことは分からない。それで、この機会に、学習会の意図とは少し方向を変えて「有用藻類」と「有害藻類」について思い出すままに五回程度の短編シリーズとして記事にしてみようと思う。
そして、少し時間をおいて今読んでいる「藻類30億年の自然史」の感想を書いてみようと思う。この本は実学として学んだ「藻類」から想像も出来ないことが述べられていて、面白いのであるが、学問的素人には難しすぎて、遅々として進まない。それで、その感想の前座的意味もある。一言で「藻類」と言うが、その内容は実に多彩である。学生時代、大雑把に「水産植物」として習ったように思う。水産に関係する植物と言うことである。「有用」・「有害」と言う言い方は正に「実学的」発想である。しかし、以降のこともあるので、一応藻類とは何か?定義のようなことを前述の本に従って書いておこう。藻類は「酸素発生型光合成を行う生物から陸上に生息する生物を除いたもの」とされている。どうもこの定義は分かったようでよく分からない。「有理数とは実数から無理数を除いたもの」と言われても分かるような気もするが、その実よく分からない。何となく実に雑他の生物を含んでいることは確かであろう。
藻類(1):有用と有害
淡水産の藻類は湖沼などで春から夏季に異常に発生することがある。「水の花」と言われる。淡水では「赤潮」と言わないで「水の花」と言う。花を植物の代名詞と捉えると、「赤潮」よりも学問的かも知れないが・・・。「さいら」は「水の花」と言う言葉を初めて聞いた時に、ロマンティックに聞こえた。その後遺症が残っていて、松阪慶子が歌っていた「愛の水中花」を何故か連想してしまう。そう言えば「さいら」にとっては「愛」は連想の対象にならないので当然の話かも知れない。
しかし、この「水の花」と言われる状態は湖沼の余りよい状態ではないことは当然である。中には水道水の異臭の原因になる種類もあるので、最近では都会生活者にも関心が集まる。匂いの除去は通常の浄化施設では困難を伴う。明らかに「有害」である。しかし、ある種の藻類を適度な濃度に管理して培養することは養鰻業者の池の「水づくり」の基本として重要なことである。養鰻業者を見習っているのではないが、「さいら」宅のメダカの鉢は何時も緑藻で変色し「水の花」状態である。養鰻業者のこの水づくりはウナギの餌食いがよいとか、水環境が安定すると言う。養鰻業者にとっては「有用」というのであろう。
その様に考えると、「有用」と「有害」は人の勝手な評価で、生物には全く関係のない・責任がないことであり、生物には迷惑そのものかも知れない。「有用」と「有害」の範疇で考えるのは実は人の奢った考えであろう。そう考えると「実学」の世界に疑問を感じるのである。しかし、その評価も社会で認められていると問題は少ないが、時には産業廃棄物などを集積・不法投棄しておいて、非難されると「これは廃棄物ではない。」「私にとっては有用なもので、資源である。」との強弁を聞くことがある。
藻類(2):有用藻類フノリとマクリ
食用ではないが、フノリは着物などのクリーニング用のノリとして利用されてきた。今はもうごく限られたところでしか用いられていないが、「さいら」がちいさい頃はノリのように薄く乾燥した紙状のフノリを溶かして使用した。口にはいることは入るのであるが、そして、若い方はご存じないであろうが、マクリと言う薬があった。これも歴とした藻類である。小さい頃、回虫の駆除に無理矢理飲まされた記憶があるのは「さいら」だけではないだろう。非常に飲みにくいので、確かその時は「サイダー」が口直しで、それがなければ、とても飲めたものではない。その内に、普通の錠剤になって、このマクリは使われなくなった。
寄生虫と言えば、十二指腸にいる吸虫の顕微鏡でのスケッチの時に教官が言うには「このプレパラートは大切に。割らないように。」「戦前なら幾らでも作ることが出来たが、今となっては貴重品である。」そう言えば、随分と食生活とトイレ事情も
今は雲泥の差である。Sakakuraさんのコメントにあって思い出したが、海藻から取れる産物に「アルギン酸ソーダ」がある。これは褐藻類から抽出された。食用以外にも藻類は色々と利用されてきた。人の歴史を感じることがある。
藻類だけでないが、海洋生物はまだまだ未知の分野であり、スクリーニングをすれば、思いも寄らない有用物質が発見されるかも知れない。そう言えばつい最近、胃潰瘍の原因菌となるピロリ菌のプロトタイプが海洋性細菌で発見されたという。
藻類(3):マリモ
有用と言えるかどうか分からないが、阿寒湖のマリモは特に有名で特別天然記念物である。土産物屋で売っているマリモは養殖・人為的に作成されたもので、新婚旅行のお土産に貰うと、その扱いが非常に気になる。マリモだけではないが、食用以外の生き物の土産はその扱いに困る。
綺麗な球になるのは、マリモの本来の特性であろうが、硬い石ころの底で波に揺られて無重力状態でコロコロ・ユラユラと徘徊出来る阿寒湖特有の湖沼のためだろうと思うが、間違っているかも知れない。この話を聞いた時に、「艱難汝玉にする」は「艱難汝毬藻にする」の方が情緒があると思った。
藻類(4):クロレラ
食品として藻類を見るならば、当然その大きさが問題となる。顕微鏡で見ても、殆ど点にしか見えない単細胞藻類、特に「原核藻類」は余りにも小さすぎる。腹の足しにもならない。食としては「塊として」適当な大きさがあることが重要であろう。
例外的な単細胞藻類にクロレラがある。クロレラは食品の範疇にはいるかどうかは別にして、単に「口へはいる」の程度の意味である。クロレラデビュー当時、栄養食品として、これさえ食べれば命は持続できると救世主のように持て囃されたこともある。
しかし残念ながら、そんなに大きなブームにはならなかった。昔のクロレラは、と言うよりも藻類全般に言われることであるが、細胞膜が硬くて(実際のところ細胞壁と言う方が実感がある)消化が悪いと言うよりも殆ど消化されなかった様に記憶している。多分人には分解する酵素がないのであろう。
クロレラは食感を味わったり、調味して食する類のものではないので、幾ら栄養価が高くても、消化されなかったら、意味がない。そのため今では品種改良や加工方法が開発され、消化できるようになったと聞いている。そして、栄養補給補助に利用されている。又、その消化されにくいことを逆手にとって、「ダイエット食品」になっているものもある。