1999年、私の中国山東省(15)訪問の先々で(1)
経営上の問題
青島についたその日の最初の企業訪問で、改革開放路線が進む中、今中国の企業が抱えている問題の一端を知ることとなりました。
それは、水産関係の総合会社で、漁労から水産加工までを行っています。昔は、相当利益をあげていた地域の代表的な企業です。しかし最近は、漁労部門では、資源の問題、国際的な囲い込みの中で、大きな収益をあげることは出来ません。加工部門は最近はヒット製品もなく、原料魚の減少等で、その設備をフルに動かすことが出来ません。しかし、決められている最低賃金は支払わないといけません。設備と人の過剰で経営上大きな課題を抱えているのです。そのような話が率直に出てくるところが今の中国らしいとは思いましたが、感心ばかりしておれません。
更に、それに大きく圧し掛かっている事柄があるのです。それは定年退職した従業員の年金です。そのとき初めて知ったのですが、年金は基本的に退職時の給料と同額程度(ですから相当高額にならざるを得ません。)、しかも全て企業持ちと言うことです。そういえば、確か、かっての中国では住宅や医療機関なども全て企業持ちと言うことでした。企業ではありませんが、悪名高い“人民公社”の方法でしょうか。全て国営の時代ならば、それも無理やり納得できるのですが、民間企業ベースとなると、当然会社には浮き沈みがあるので首を傾けざるを得ません。
そのときに最初に考えたことは、そのような中国の企業では、莫大な後年度負担が当然予想される年金に対して、どのような企業会計(年金引当金のような会計制度)を導入していたのだろうか?と言うことでしたが、それよりも、世代間或いは企業間に渡る年金や健康保険には当然国の関与が必要ではないでしょうか。改革開放と言うが、これから新しく始める企業或いは今未だ体力のある企業はともかく、今体力を失っている企業に対してはどのようにして行くのでしょうか。何か非常に大きな問題を未だ整理出来ないで、改革開放路線が進んでいるのではないかと危惧を感じました。
訪問のスタイル
今回の交流団の目的は、会社や役所、研究所等を訪問して、その現況を勉強すると共に、そこと交流することにあります。ですから、非常に多くの訪問を行い、“中華料理で”ではなくてその“行程で”消化不良を起こしかねない状況でした。又、最初、訪問と言っても会社の幹部の話を聞くのが中心であったのですが、「実際の現場を見たい。」と言う途中からの我々の要望も聞き入れて頂き、より実り多いものとなったのです。時には、現場だけと言うところもあったように記憶しています。
訪問のスタイルは大体次のようです。訪問先では椅子の並べ方、お茶等に少しバリエーションはありますが。
会場
訪問先に到着すると、そこの職員が大勢玄関まで出迎えてくれます。そして、“ニイ ハオ”と言って握手を求められます。私どもは少し恥らいながら小声で、“ニイ ハオ”と言いながら握手をします。そして応接室に通されます。
日本ですと、このような場合は多分「会議室へ」のイメージですが、中国では応接室と言った感じの部屋で、大きく、ゆったりとしています。会議室作りの部屋であっても、本当にお客を迎えるような、国と国が何か交渉事をするような感じの部屋と調度品です。その席は、壁を背にして、内側を向いて座るように設営されています。椅子も殆どの場合も事務椅子ではありません。それぞれの前に背の低いテーブルが置かれています。
テーブルには、桃、梨、りんご、ぶどうがそのまま盛られていて、お茶とミネラルウオータが置かれています。それは決して筆記するためのテーブルではありません。少し困ったのは渉外係り兼書紀係です。彼は、業務として可能なかぎり聞いた内容を筆記する必要があったのですから。本当に字を書くには不便です。と言うことで、私が全くメモをとっていない言い訳をクドクド言っているのです。我々も、実際のところ、最初は場違いな所へ案内されると思ったものです。
1999年、私の中国山東省(16)訪問の先々で(2)
紹介
手順が前後するようであるが、着席する前に名刺の交換をします。着席すると、それぞれの紹介、それぞれの代表者の挨拶があります。当然のことながら、それぞれの母国語でです。それを張さんが相手国の言葉に翻訳します。紹介の項でも話題となるのは、辻村さんです。私は決して彼をワッチしていたのではないのですが。中国では日本の漢字の姓名を、中国語の発音で呼びます。日本人が“張”さんを”チョウ”さんと呼ぶのと逆の関係です。ところが、“辻”と言うのが完全な和製漢字で、中国の漢字にはないのだそうです。張さんがどのように訳したのかは全く分かりませんが…。この儀礼的な行為は決して省略されることはありません。ここまで進むといよいよ、本論の訪問先の概況説明を受けて、質疑応答となります。
質疑応答が終了すると、お礼に簡単な品物を渡し、記念写真を撮って、施設の案内となります。帰る時は訪問したときと同じです。しかし、今度は当方から“シェーシェー”と言って、思わず日本にいるのと同じようにペコリと頭を下げ、堅く堅く握手、バスに乗車となって、終わりです。
お茶と果物
質疑応答が始まる頃になるとお互いに少し緊張も抜けて、リラックスして来ます。タイミング宜しく、先方はお茶とか果物を熱心に進めてくれます。私もお茶を飲もうと思って、蓋を開けると茶の葉っぱがいっぱい浮かんでいます。中国流のお茶の入れ方です。事前に中国旅行の本で読んだそのお茶です。中国の人は?と見ると息を少し吹きかけて、葉を向こうに寄せながら、蓋でそれが飲み口に来ないようにして飲んでいます。私もその真似をしながら飲むのですが、葉がどうしても口の中に入ってきます。「まあいいか」ということで何食わぬ顔をして葉とお茶を一緒に飲み込みます。
さて次は、いよいよ果物です。日本のように食べやすいように皮をむいて切って置いてありません。テーブルには、それを切ったりするナイフもつまむフォークもありません。最初、これは飾りものであって、決して食べてはいけない果物と考えました。しかし先方はなおも進めてくれます。しかし私どもは、ぶどう、バナナはともかく、まるっぽのりんご、梨、桃をどのようにして食べるのかわかりません。特に、桃は皮についたひげ状のものがあるので、いよいよ困ります。いくら進められても誰も手をつけないのです。その段階では、決して遠慮をしているのではないのです。丁度その時に、その私どもの状況を理解した訪問先の若い研究員がいました。その人は、桃をおもむろに取って、見本を見せてくれます。
何の事はない、大きい口をあけて、丸齧りをするのです。我々もそれを見て、堰を切ったように、丸齧りを始めたのです。桃に関しては日本の桃と異なって、その皮もひげも口の中に入っても何ら気になりません。果物はどれもこれも甘味が強く、非常においしいものでした。
以降の訪問先では、果物も進められると、余り遠慮せずに、丸齧りすることとなりました。食事のデザートとして出て来る小奇麗に切られ・盛り付けされたフルーツとは違う果物を賞味したのです。本当に、見本を見せてくれた人に感謝・感謝です。
果物をいっぱい食べたところで、話題も主題の方へと移ります。
養殖業
中国の漁業法では、日本と全く異なって、養殖業の振興が大きなウエイトを占めています。なぜそのようになったのかはよく分かりません。さらに、今回の交流団の構成が養殖関係と思われたのか、養殖関係の施設の訪問がほとんどでした。
その施設この施設の内容、その技術水準、具体的な規模等は、団の報告の項で触れているので、ここではその施設を見て感じたことを少し述べておきます。以下同じです。
1999年、私の中国山東省(17)訪問の先々で(3)
郷鎮企業
訪問したところは全て、それなりの規模の企業経営でした。個人経営が主体の日本沿岸漁業とそこが大きく異なるところです。と思ったのですが、実はこれはそのような個所だけを 訪問したためだろうと思っています。所謂、中国で言う“大衆漁業”も相当数あるようですから。
それぞれの地域の漁業企業は、都会的な会社や合弁会社もありますが、郷鎮企業です。村人から出資者を募り、それで、企業を起こして、利益を配当する方式です。しかも、聞くところによると、中国の預金利子は昭和40年代の日本と同じような高水準で、年6%を超えます。自ずと、配当金も頑張らなければなりません。従って、その利益をできるだけ早く、高率で出資者に還元する必要があります。そこは、日本の株式会社と同じかそれよりも厳しいスタンスです。出資者は決して資本家と言われる人ではなく、隣のおじさん、向いのおばさんで、彼らも生活がかかっているからです。と言うわけで、間接的な施設に対する投資はできるだけ抑えて、必要最低限のもの、日本の国庫補助金がらみの外観も立派な施設と言う印象はありません。
生産規模
しかしその生産規模は非常に大きいものです。彼らの言葉では「この養殖場」という言い方ではなくて「この工場」と言う言い方をします。まさに工場と言う感覚をその規模において私どもに実感させます。一方で、近代的な流れ作業をイメージする我々の工場感と中国における生産の場としての工場感に少なからずギャップを感じます。このような計画が次から次へと続いている状況です。実際、生産施設はかなり新しいか、或いは古くなったものは生産単位規模を大きくするために、新しく作り変えている様子です。非常に投資意欲が旺盛であると思いました。
養殖関係に関しては、役所や会社では合弁の誘引に非常に熱心で、訪問先々でそれに言及します。そのような話を持ち合わせていない我々は只聞くだけですが。それは単なる技術導入だけではなくて、養殖業への強い投資意欲に対して、それに見合う資本が不足している状況をも覗うことが出来ます。
漁船漁業
本当は私個人としては漁船漁業の方を訪問したかったのですが、残念ながらきちんと見る機会がありませんでした。しかし沿岸の漁船漁業に使用している漁船は、遠目にちらちらと見た沖の操業船、そして、海岸で給油したときに繋留されているごく近くで見た漁船は、船体も古い木造船で、日本でいえば、昭和30年代の漁船風景です。唯一新しいと思ったのは、養殖漁場へ行く韓国製の作業船でした。漁船漁業への投資は養殖業への投資に比較してほとんど行われていないように思えました。
養殖業と漁船漁業との間には非常に極端な「傾斜投資」が進められているのではないかと考えました。このような投資スタイルは、訪問した他の機関・施設等でも見られます。
水産研究所
山東省立の水産関係の研究所は3箇所あり、その内の一つは内水面関係で今回は訪問しませんでした。海面の研究所は青島にある「海水養殖研究所」と煙台にある「海洋水産研究所」の2箇所です。
設立当時はそれぞれの名称のとおり、養殖研究所は増養殖を、水産研究所は漁船漁業とその他の分野を、という分野分けをしているとのことです。それはちょうど本県の水産試験場と増殖試験場の関係に相当します。しかしそれが現在ではどちらも増養殖関係に力を入れていて、境界がなく、強いて言えば地域割りのようになっています。
経営上の問題
青島についたその日の最初の企業訪問で、改革開放路線が進む中、今中国の企業が抱えている問題の一端を知ることとなりました。
それは、水産関係の総合会社で、漁労から水産加工までを行っています。昔は、相当利益をあげていた地域の代表的な企業です。しかし最近は、漁労部門では、資源の問題、国際的な囲い込みの中で、大きな収益をあげることは出来ません。加工部門は最近はヒット製品もなく、原料魚の減少等で、その設備をフルに動かすことが出来ません。しかし、決められている最低賃金は支払わないといけません。設備と人の過剰で経営上大きな課題を抱えているのです。そのような話が率直に出てくるところが今の中国らしいとは思いましたが、感心ばかりしておれません。
更に、それに大きく圧し掛かっている事柄があるのです。それは定年退職した従業員の年金です。そのとき初めて知ったのですが、年金は基本的に退職時の給料と同額程度(ですから相当高額にならざるを得ません。)、しかも全て企業持ちと言うことです。そういえば、確か、かっての中国では住宅や医療機関なども全て企業持ちと言うことでした。企業ではありませんが、悪名高い“人民公社”の方法でしょうか。全て国営の時代ならば、それも無理やり納得できるのですが、民間企業ベースとなると、当然会社には浮き沈みがあるので首を傾けざるを得ません。
そのときに最初に考えたことは、そのような中国の企業では、莫大な後年度負担が当然予想される年金に対して、どのような企業会計(年金引当金のような会計制度)を導入していたのだろうか?と言うことでしたが、それよりも、世代間或いは企業間に渡る年金や健康保険には当然国の関与が必要ではないでしょうか。改革開放と言うが、これから新しく始める企業或いは今未だ体力のある企業はともかく、今体力を失っている企業に対してはどのようにして行くのでしょうか。何か非常に大きな問題を未だ整理出来ないで、改革開放路線が進んでいるのではないかと危惧を感じました。
訪問のスタイル
今回の交流団の目的は、会社や役所、研究所等を訪問して、その現況を勉強すると共に、そこと交流することにあります。ですから、非常に多くの訪問を行い、“中華料理で”ではなくてその“行程で”消化不良を起こしかねない状況でした。又、最初、訪問と言っても会社の幹部の話を聞くのが中心であったのですが、「実際の現場を見たい。」と言う途中からの我々の要望も聞き入れて頂き、より実り多いものとなったのです。時には、現場だけと言うところもあったように記憶しています。
訪問のスタイルは大体次のようです。訪問先では椅子の並べ方、お茶等に少しバリエーションはありますが。
会場
訪問先に到着すると、そこの職員が大勢玄関まで出迎えてくれます。そして、“ニイ ハオ”と言って握手を求められます。私どもは少し恥らいながら小声で、“ニイ ハオ”と言いながら握手をします。そして応接室に通されます。
日本ですと、このような場合は多分「会議室へ」のイメージですが、中国では応接室と言った感じの部屋で、大きく、ゆったりとしています。会議室作りの部屋であっても、本当にお客を迎えるような、国と国が何か交渉事をするような感じの部屋と調度品です。その席は、壁を背にして、内側を向いて座るように設営されています。椅子も殆どの場合も事務椅子ではありません。それぞれの前に背の低いテーブルが置かれています。
テーブルには、桃、梨、りんご、ぶどうがそのまま盛られていて、お茶とミネラルウオータが置かれています。それは決して筆記するためのテーブルではありません。少し困ったのは渉外係り兼書紀係です。彼は、業務として可能なかぎり聞いた内容を筆記する必要があったのですから。本当に字を書くには不便です。と言うことで、私が全くメモをとっていない言い訳をクドクド言っているのです。我々も、実際のところ、最初は場違いな所へ案内されると思ったものです。
1999年、私の中国山東省(16)訪問の先々で(2)
紹介
手順が前後するようであるが、着席する前に名刺の交換をします。着席すると、それぞれの紹介、それぞれの代表者の挨拶があります。当然のことながら、それぞれの母国語でです。それを張さんが相手国の言葉に翻訳します。紹介の項でも話題となるのは、辻村さんです。私は決して彼をワッチしていたのではないのですが。中国では日本の漢字の姓名を、中国語の発音で呼びます。日本人が“張”さんを”チョウ”さんと呼ぶのと逆の関係です。ところが、“辻”と言うのが完全な和製漢字で、中国の漢字にはないのだそうです。張さんがどのように訳したのかは全く分かりませんが…。この儀礼的な行為は決して省略されることはありません。ここまで進むといよいよ、本論の訪問先の概況説明を受けて、質疑応答となります。
質疑応答が終了すると、お礼に簡単な品物を渡し、記念写真を撮って、施設の案内となります。帰る時は訪問したときと同じです。しかし、今度は当方から“シェーシェー”と言って、思わず日本にいるのと同じようにペコリと頭を下げ、堅く堅く握手、バスに乗車となって、終わりです。
お茶と果物
質疑応答が始まる頃になるとお互いに少し緊張も抜けて、リラックスして来ます。タイミング宜しく、先方はお茶とか果物を熱心に進めてくれます。私もお茶を飲もうと思って、蓋を開けると茶の葉っぱがいっぱい浮かんでいます。中国流のお茶の入れ方です。事前に中国旅行の本で読んだそのお茶です。中国の人は?と見ると息を少し吹きかけて、葉を向こうに寄せながら、蓋でそれが飲み口に来ないようにして飲んでいます。私もその真似をしながら飲むのですが、葉がどうしても口の中に入ってきます。「まあいいか」ということで何食わぬ顔をして葉とお茶を一緒に飲み込みます。
さて次は、いよいよ果物です。日本のように食べやすいように皮をむいて切って置いてありません。テーブルには、それを切ったりするナイフもつまむフォークもありません。最初、これは飾りものであって、決して食べてはいけない果物と考えました。しかし先方はなおも進めてくれます。しかし私どもは、ぶどう、バナナはともかく、まるっぽのりんご、梨、桃をどのようにして食べるのかわかりません。特に、桃は皮についたひげ状のものがあるので、いよいよ困ります。いくら進められても誰も手をつけないのです。その段階では、決して遠慮をしているのではないのです。丁度その時に、その私どもの状況を理解した訪問先の若い研究員がいました。その人は、桃をおもむろに取って、見本を見せてくれます。
何の事はない、大きい口をあけて、丸齧りをするのです。我々もそれを見て、堰を切ったように、丸齧りを始めたのです。桃に関しては日本の桃と異なって、その皮もひげも口の中に入っても何ら気になりません。果物はどれもこれも甘味が強く、非常においしいものでした。
以降の訪問先では、果物も進められると、余り遠慮せずに、丸齧りすることとなりました。食事のデザートとして出て来る小奇麗に切られ・盛り付けされたフルーツとは違う果物を賞味したのです。本当に、見本を見せてくれた人に感謝・感謝です。
果物をいっぱい食べたところで、話題も主題の方へと移ります。
養殖業
中国の漁業法では、日本と全く異なって、養殖業の振興が大きなウエイトを占めています。なぜそのようになったのかはよく分かりません。さらに、今回の交流団の構成が養殖関係と思われたのか、養殖関係の施設の訪問がほとんどでした。
その施設この施設の内容、その技術水準、具体的な規模等は、団の報告の項で触れているので、ここではその施設を見て感じたことを少し述べておきます。以下同じです。
1999年、私の中国山東省(17)訪問の先々で(3)
郷鎮企業
訪問したところは全て、それなりの規模の企業経営でした。個人経営が主体の日本沿岸漁業とそこが大きく異なるところです。と思ったのですが、実はこれはそのような個所だけを 訪問したためだろうと思っています。所謂、中国で言う“大衆漁業”も相当数あるようですから。
それぞれの地域の漁業企業は、都会的な会社や合弁会社もありますが、郷鎮企業です。村人から出資者を募り、それで、企業を起こして、利益を配当する方式です。しかも、聞くところによると、中国の預金利子は昭和40年代の日本と同じような高水準で、年6%を超えます。自ずと、配当金も頑張らなければなりません。従って、その利益をできるだけ早く、高率で出資者に還元する必要があります。そこは、日本の株式会社と同じかそれよりも厳しいスタンスです。出資者は決して資本家と言われる人ではなく、隣のおじさん、向いのおばさんで、彼らも生活がかかっているからです。と言うわけで、間接的な施設に対する投資はできるだけ抑えて、必要最低限のもの、日本の国庫補助金がらみの外観も立派な施設と言う印象はありません。
生産規模
しかしその生産規模は非常に大きいものです。彼らの言葉では「この養殖場」という言い方ではなくて「この工場」と言う言い方をします。まさに工場と言う感覚をその規模において私どもに実感させます。一方で、近代的な流れ作業をイメージする我々の工場感と中国における生産の場としての工場感に少なからずギャップを感じます。このような計画が次から次へと続いている状況です。実際、生産施設はかなり新しいか、或いは古くなったものは生産単位規模を大きくするために、新しく作り変えている様子です。非常に投資意欲が旺盛であると思いました。
養殖関係に関しては、役所や会社では合弁の誘引に非常に熱心で、訪問先々でそれに言及します。そのような話を持ち合わせていない我々は只聞くだけですが。それは単なる技術導入だけではなくて、養殖業への強い投資意欲に対して、それに見合う資本が不足している状況をも覗うことが出来ます。
漁船漁業
本当は私個人としては漁船漁業の方を訪問したかったのですが、残念ながらきちんと見る機会がありませんでした。しかし沿岸の漁船漁業に使用している漁船は、遠目にちらちらと見た沖の操業船、そして、海岸で給油したときに繋留されているごく近くで見た漁船は、船体も古い木造船で、日本でいえば、昭和30年代の漁船風景です。唯一新しいと思ったのは、養殖漁場へ行く韓国製の作業船でした。漁船漁業への投資は養殖業への投資に比較してほとんど行われていないように思えました。
養殖業と漁船漁業との間には非常に極端な「傾斜投資」が進められているのではないかと考えました。このような投資スタイルは、訪問した他の機関・施設等でも見られます。
水産研究所
山東省立の水産関係の研究所は3箇所あり、その内の一つは内水面関係で今回は訪問しませんでした。海面の研究所は青島にある「海水養殖研究所」と煙台にある「海洋水産研究所」の2箇所です。
設立当時はそれぞれの名称のとおり、養殖研究所は増養殖を、水産研究所は漁船漁業とその他の分野を、という分野分けをしているとのことです。それはちょうど本県の水産試験場と増殖試験場の関係に相当します。しかしそれが現在ではどちらも増養殖関係に力を入れていて、境界がなく、強いて言えば地域割りのようになっています。